136・猫と子爵家夫人
かつてのウェルテル・リーデルハインは、「犬派か猫派か」と問われれば、まあまあ犬派であった。
これは夫のライゼーが犬好きだったせいだが、別に猫が苦手だったわけではない。それなりには可愛がっていたし、娘が手紙で「猫を拾った」と知らせてきた時には微笑ましく思ったものである。
そして娘からの手紙に違和感が混じり始めたのも、ちょうどその頃のことだった。
拾った猫の名前はルーク。
猫があまり好きではなかったはずのライゼーが、その猫とは妙に気が合うらしく、よく執務室で話し込んでいると書かれていた。
夫も寂しいのだろうかと少し不安になったが、ペット相手の独り言で思考を整理するのはよく聞く話でもある。この時はまだ、「ライゼーも猫の良さに気づいたのかな」くらいに思っていた。
その後、社交の季節を迎え、出かけた先の王都からも手紙が届いた。
道中で野生のウサギに懐かれたという微笑ましい報告に頬を緩めつつ、「ピタゴラス」という名前の響きは誰のセンスなのかと首を傾げた。
とりあえず命名者はライゼーではあるまい。クラリスでもない。姪のリルフィも違うだろうから、もしかしたら王都の士官学校にいるクロードかもしれない。彼は我が子ながら、たまに人とは違う視座を感じさせる。
王都からの手紙は複数にわたり、拳闘の試合を見たこと、紙の工房へ行ったこと、年の近い友人ができたことなど、バラエティ豊かな内容だったが、いくつかの記述には疑問があった。
ルークが宮廷魔導師と仲良くなった。
……宮廷魔導師のルーシャン・ワーズワースは重度の猫好きと聞いてはいるが、軍閥の子爵家の飼い猫と、どういう縁があったのか?
まさか社交の席に連れて行ったわけでもないだろうし、状況がよくわからない。
ルークが国王暗殺未遂の犯人を捕まえた。
「???」と、しばらく誤字を疑った。
もしかして「ルーク」というのは飼い猫ではなく、「まるで猫のような雰囲気の、新参の騎士」なのではないかという疑念も出た。
しかし手紙の端に押されたかわいらしい肉球のスタンプは明らかに猫のものだったし、以前の手紙には「キジトラ柄」だとも書いてあった。
ルークと一緒に迷宮を探検した。
ことここにいたって、「もしかしてこの手紙は、娘の創作物なのでは」という思いに至った。
つまり手紙の体裁をとった童話や小説の類である。クラリスは賢い子であり、有り得ない話ではない。
そしてその頃から、ウェルテルの身辺でも奇妙なことが起き始めた。
薬を飲み忘れると、どこからともなく古風なメイド服姿の三毛猫が現れ、薬を飲ませてくる。
はじめは夢か幻覚かと思ったが、日毎に整理して小箱に並べた薬はちゃんと減っているし、ほぼ健康体と言っていいほどに体調も落ち着いている。
その三毛猫達は、ベッドの下に落ちた毛布を掛け直してくれたり、部屋の掃除をしてくれたり、時には水や着替えの準備までしてくれた。
さすがに料理までは無理なようだったが、この奇妙な同居人とのふれあいを経て、彼女もようやく「人知を超えた存在」が自分達を守護している可能性に気づいた。
ウェルテルは、さほど才には恵まれなかったが、一応は魔導師である。初歩的な風属性の魔法を使えるし、若き日に親族の酒場で歌姫をしていた頃は、この才を使って声をより高く響かせていた。
そして、しまい込んであった『魔光鏡』を取り出し、自らに『魔力鑑定』をおこなった結果――
ウェルテルには、身に覚えのない称号、『亜神の加護』がついていた。
(……今、私が飲んでいる、怖いくらいに良く効く魔法薬……これももしかして、『亜神』様からの加護……?)
彼女がそう推測したのはむしろ当然のことで、もしもこんな薬が世間に広まっているならば、肺火症は死の病などと言われていない。
リーデルハイン家に何が起きているのか、病床から知るのは難しかったが、悪い変化でないらしいことはクラリスの手紙からも察せられた。
ライゼーからの便りも、「新種の野菜が見つかった」とか「王弟殿下の警護を仰せつかった」とか「ドラウダ山地に有翼人の集落があった」とか、基本的には良い報告ばかりだった気がする。
その認識をもって過去の手紙を読み返すと――不自然だった記述のことごとくが腑に落ちた。
どうやらクラリスは「とんでもないもの」を拾ったらしいと、ウェルテルはこの時に察した。
……その「とんでもないもの」が今、愛娘クラリスの膝の上で、ごろごろと喉を鳴らしている。
「……ルーク、ありがとうね。お母様を治してくれて――」
「にゃーん……いえ、運良くお薬が効いてくれただけです。別に万能薬とかではないので、正直に申し上げて、治るかどうかは賭けでした」
そんな風に応じながらも、ごろごろごろと重低音が続いている。
ペット……確かにペットには違いないが、会話を聞くと、その「主従関係」は「飼い主とペット」ではなく「令嬢と従者」のようにも思えるし、そもそも「幼女と亜神」である。
夕食後、久々に家族団欒の時間を過ごしていたウェルテルは、メイドのサーシャと姪のリルフィにも視線を向けた。
「ルークがこのお屋敷に来たのは、春先だったのよね? クロードにはもう会ってるみたいだけど、他にルークの正体を知っているのって誰かしら?」
リルフィが困ったように微笑んだ。
「そうですね……けっこうたくさん、いらっしゃいます……あの、宮廷魔導師ルーシャン様とそのお弟子のアイシャ様とか、国王陛下とか、そのお妃候補の方とか、王弟殿下とその護衛の女性騎士とか……それから有翼人の方々、最近、お世話になっていた冒険者パーティー、王都の紙職人と、その妹の拳闘士さん……」
サーシャも追加で応じる。
「あと、トリウ伯爵はご存知ないはずですが、その孫のランドール様はすでにご承知です。魔族にも……知り合いができましたね」
ウェルテルは唖然としてしまう。たった半年でこれほど人脈を広げているとなると、もはや正体を隠す気がないとしか思えない。
「ルークさんは、その……人懐っこい猫さんなので……いくつかの出会いは不可抗力でしたが、ちゃんと正体を明かす相手は選んでいるはずです……」
「……とはいえまぁ、いつもちゃんと丁寧にご挨拶をされているので、基本的に隠す気はないんだろうなとは思います……」
リルフィはルークを擁護し、サーシャはウェルテルの疑念を読んだ上で同意を寄越した。息子の嫁(予定)は勘が鋭い。
これを聞き咎めたペットが、クラリスの膝から肉球を掲げた。
「隠してもいずれバレるだろーな、とは思ってますけど、喧伝する気はないですし、隠せるうちは隠そうと思ってますよ? ……ただ、優先順位としては高くないです。むしろ今は、トマト様の覇道のために、必要な人材を集めなければいけない時期ですので……無用の混乱を避けるための、一応の隠蔽工作は続けますが、必要とあらばいろんな人材に接触していきます!」
トマト様の覇道――
クラリスからももう説明を受けたが、これは「トマト様という農作物を世間に広める」という意味らしい。
それは覇道ではなくただの普及では? とも思うが、亜神としての使命らしいので仕方がない。どうも農業系の神様らしい。
隣のライゼーが妙に穏やかな顔で微笑む。
「まぁ、国王陛下と宮廷魔導師が味方な時点で、国内の貴族への牽制としては充分だが……町の連中も、ルークとピタゴラスのことは『神獣』だと思っているな」
「えっ……町の人達も知っているの?」
「全員ではないが、トマト様の畑の拡張や栽培に協力してくれた連中は、ルークと一緒に働いていたからな。その関係者には伝わっていそうだ」
「一緒に働いて……え? まさか農作業をしているの……?」
「しているぞ。わざわざ作業着を着て、麦わら帽子までかぶって……水やり、掃除、剪定、摘果、収穫……力仕事はさすがに無理だが、ちょこまかと実によく働いている」
「ペットなのに?」
「ペットの責務だそうだ」
「……亜神様なのに?」
「性分なんだろう」
応じるライゼーも若干、呆れ顔だった。だが、その笑顔はウェルテルの知る以前よりもずっと柔らかい。
年を重ねて丸くなったとか円熟味が出てきたとか、そういう話ではないだろう。おそらくは単純にルークの影響である。
犬派の夫をここまで懐柔するとは、確かにただの猫ではない。
「お母様も撫でてみる?」
「にゃーん」
視線に気づいたクラリスが、猫をウェルテルの膝上に移動させた。
猫は抵抗しない。だらんと脱力している。
警戒心がなさすぎて不安になるほどだったが、なるほど、手触りは良い。
膝に抱いてみたルークの印象は、「思ったより丸い」だった。
春先にも庭で見かけたが、その時は距離もあったし、直接触れたわけでもない。
今こうして、手の届く距離で撫でてみると――想像以上に柔らかくすべすべ、実に撫で心地が良い。
「わぁ……わぁぁ……」
闘病生活を経て久しく忘れていた感触に、ウェルテルの頬が思わずほころんだ。
長毛の犬達とはまた違う、短毛ならではの滑らかな毛先の感触が楽しい。背骨などはもっとゴツゴツしていそうなものだが、ルークは全体にモッフリしている。
思わず抱え上げ、うっとりと頬ずりをしてしまう。そんな真似をしても引っかかれないし逃げようともしない。これは刺さる。たまらん。娘は本当にすごい猫を拾った。
ウェルテルがしばらくその毛並みを堪能した後で、ルークははっと目を見開き、てしてしと腕を叩いた。
「ウェルテル様、ライゼー様、うっかりしておりました。ご快癒のことをクロード様にもお知らせして、ちょっとだけ士官学校を抜け出して、こちらに来ていただきましょう。向こうも晩ごはんは終わって、今は自由時間のはずです」
ウェルテルは首を傾げる。王都にいる息子に会おうと思えば、片道一週間ほどの旅が必要だった。
しかし夫のライゼーは嬉しそうに頷き、「ああ、頼む」とごく気軽に応じた。
ルークがウェルテルの腕から飛び降りる。
「じゃ、ちょっと行ってきます! 猫魔法、キャットデリバリー!」
「ニャーン」
帽子をかぶった作業着姿の黒猫が、どこからともなく飛び出してきた。
その猫が差し出した茶色い紙箱に、ルークはすっぽりと収まって、内側から自ら蓋をする。
箱を抱えた黒猫が一回大きく飛び跳ね、そのまま床に沈んで消えた。
「えっ……ク、クラリス!? これ大丈夫なの!?」
「お母様、落ち着いて。ルークは転移魔法を使えるの」
「ルークさん自身は『宅配魔法』と言っていますが……」
クラリスとリルフィからそう返され、ウェルテルは納得しつつもまた驚かされる。
そして、ほんの数分後――
リーデルハイン家の居間に、猫用の小さな箱と、人間サイズの大きな箱が一つずつ、黒猫によって届けられた。
そして紙箱の中から出てきたのは、困惑顔の長男、クロード・リーデルハインである。
「ルークさん、また妙な魔法を……うわ、ほんとに実家だ……あ、母上。ご快癒おめでとうございます」
喜びよりも困惑が勝っていそうな可愛い息子に、ウェルテルは不満を向ける。
「クロード、もうちょっと喜んでくれてもいいんじゃない? クラリスなんて出会い頭にちゃんとハグしてくれたわよ?」
「い、いえ、喜んでいないわけじゃないんですが……寝てたら急にルークさんに起こされて、母上のご病気が治ったって聞かされて、もう何が何だか……?」
一応は制服に着替えていたものの、クロードはまだ寝ぼけ眼だった。
ライゼーが不思議がる。
「ずいぶんと早寝だな? 士官学校だとそんなものなのか?」
「いえ、今だけ朝が早いんです。秋の社交の季節にあわせて、学祭があるので……弓術試技の班長をやらされてしまって、朝練が……」
「なんと? いや、初耳だぞ?」
「試技の班長って、その分野の首席がやるのよね? えっ? すごいじゃない!」
長男がそんなに武芸に秀でていたとは知らなかった。
幼馴染のサーシャとボクシングの練習をしていたのは知っているが、戦績は一方的に負けていたはずである。
槍術の練習はライゼーが暇な時に見ていたが、「筋は悪くないが……」と微妙な反応だった。
日頃の訓練は騎士団長のヨルダが面倒を見ており、こちらの評価は特に聞いていない。
クロードがうろたえた。どうやら今の発言は、寝ぼけて口を滑らせたものらしい。
「い、いえ、違うんです。弓術はほら、士官学校でもあまり得意な人がいなくて……やはり花形は剣術や槍術ですから」
王都では拳闘術も盛んだが、士官学校の授業にはない。部活動はあるものの、領主課程の生徒は政治学や軍学に加えて領地経営や税、法律関係など学ぶことが多すぎるため、部活動には関わらないのが慣例となっている。
クロードも当然、弓術部などには入部していないはずで、そんな彼が試技の班長に選ばれるというのはよほどのことだった。
クラリスがぽつりと呟く。
「兄様は、士官学校で『ドラウダの魔弓』って呼ばれてるんだって。アイシャ様も知っていたくらいだし、教官から弟子入りを志願されたなんて噂も聞いたわ」
「クラリス!?」
クロードがますます慌てる。
クラリスは平気な顔をして、兄を見据えた。
「兄様、どうせ士官学校を卒業する時の成績でわかることだし、もう隠す必要もないでしょう? お父様、兄様は、ヨルダおじさまの指示で弓の実力を隠していたの。お父様に知られると、その才を伸ばそうとして無理をさせかねないから、って」
「えっ……」
今度はライゼーが動揺した。
我が家の男共はどうしてこう顔に出やすいのかと思いつつ、ウェルテルはいろいろと察する。
「なんとなくわかったわ。ライゼー、貴方がまだ商人見習いで、私が酒場の歌い手だった頃……ヨルダ様がこんなことを言っていたの。『ライゼーはなまじ才能があるせいで、努力すれば努力しただけ上達すると思っている節がある』って。練習は、かける時間よりもその精度と方向性のほうが大事。そして、変な癖がつく無駄な練習だったらやらないほうがまし――そのあたりの加減が下手だと思われているのよ、貴方は」
「そ、そうか……心当たりは……あるが……」
子爵家の妻が夫に対して、ここまで手厳しい意見を向けることは通常有り得ない。が、リーデルハイン家は例外である。
ライゼーは商人として生きていくはずだった三男坊だし、ウェルテルも結婚した当時は商人の妻という立場だった。
流行り病で断絶の危機に陥った子爵家に戻った当時、「夫婦関係は今まで通りで」とライゼー自身に請われ、ウェルテルもその願いを受け入れた。その結果がこの会話である。
つまり、ライゼーはウェルテルに、「諫言をくれる相談役」としての役割を求めた。
ウェルテルもまた、その要求に過不足なく応えてきた。
テーブルに香箱座りをした猫が、ほけーっとウェルテルを見上げていた。
「……やはりクラリス様の母君……お強い……」
「……はい。クラリス様の賢さと弁舌は、間違いなくウェルテル様譲りです……」
姪のリルフィが、猫を撫でながらその耳元に囁く。
ルークはぶるりと一瞬震え、テーブルに座り直した。
「納得しました……えーと、クロード様は明日に響きますので、あまり長居はできないでしょう。デザートをご用意しますので、今夜のところはそれだけ食べて、解散といたしましょうか」
猫がまた妙なことを言い出した。
メイドのサーシャが慣れた手付きで、猫の眼前に空の皿を並べていく。
そして、猫はどこからともなく「薪」を取り出し――
そこから先の出来事は、病み上がりのウェルテルにはあまりに衝撃的すぎた。
ただ一つ、言えることは――
甘味の前に、人類は無力である。




