112・王弟と子爵家の令嬢
ロレンス・ネルク・レナードは、『迷宮』に漠然とした憧れを抱いていた。
もちろん自分が王族である限り、そこに行く機会がないことも知っていた。だが、書庫で触れた様々な冒険譚、英雄譚、研究記録の舞台となっている『迷宮』は、彼にとって、確かに「憧れ」の対象だったのだ。
それはたとえば、籠の中の小鳥が大空を見上げるような。
あるいは、水槽の中の小魚が大海に思いを馳せるような。
少年らしい、世間知らずがゆえの、無責任な憧れだと自覚していた。
師のカルディスは、「――そこまで達観した憧れは、諦めというのです」と寂しげな顔をしていたが、同時にこうも言ってくれた。
「ロレンス様。子供は子供らしく、などとは私は申しません。貴方は三番目の王子とはいえ『王族』の一人であり、その行動にはもちろん、思考や存在にすら責任が伴うでしょう。しかし……しかし、それでもあえて、これだけは申し上げたい。貴方の『命』と『時間』は、貴方自身のものです。どうか、責任感だけを生の指針にはなさらないでいただきたい。ロレンス様は、もっと――やりたいことをして良いのです。もちろん、それが人を不幸にすることでなければ、という前提はつきますが……貴方は、貴方自身の『望み』を持つべきです」
自らの死期を悟っていたと思しき賢人は、ロレンスのことをそう心配してくれていた。
ロレンスは、その言葉の意味を完全には理解できず、微笑で受け流してしまったが――
今ならば、わかる。
(昨日は……楽しかったな……)
明け方間近。
あまり慣れていない感触のベッドに横たわり、目覚めたばかりのロレンスは、寝る前のことを思い出していた。
彼は昨日、『古楽の迷宮』を自らの足で歩いた。
書物で読むばかりだった「どこからともなく聞こえてくる音楽」を、自身の耳で初めて聞いた。
窓越しの映像だったが、恐ろしい魔物の姿を見て、それに打ち勝つ勇壮な戦士の姿も見た。
迷宮の管理者と名乗るカワウソの精霊にまで出会い、さらには精霊の祭壇で上位精霊達と語らい――
昨日一日で、一体どれだけの「夢」を叶えられたかわからない。
憧れは遠く、決して届かないもの――
ロレンスはそう思っていた。
どうやら、そうではなかったらしい。
もちろんすべての夢が叶うわけはないし、欲望のままに生きることが良いことだとも思わない。
だが、自分は――あまりに、すべてを諦めすぎていたのかもしれない。
昨日の迷宮探索は、すべて亜神ルークがお膳立てをしてくれた。ロレンスはただついていっただけで、何かできたわけでもない。
それでも、学びは大きかった。
自分は、もっとやりたいことをやっていい。
あの猫に、そう背中を押してもらえた気がした。
ルークは猫らしく自由気ままに見えても、その気配りは細やかで、行動からは強い責任感と優しさがうかがえた。
彼は日々を楽しく過ごしつつ、やりたいことを明確にし、それでいて欲望に溺れることなく自身を律している。
あの生き様は、きっと――ロレンスが見習うべきものだった。
兄のリオレットが言っていた「社会勉強」とは、つまりこういうことだったのだろう。
自分はまだ何も知らない子供で、知識以外にも学ばなければならないことがたくさんあるのだと、改めて実感できた。
昨夜の疲れから熟睡してしまったせいで、今朝はもう完全に眼が覚めてしまった。
この「キャットシェルター」という空間には、精巧な壁掛け時計が設置されている。
ルークによく似た体型のキジトラ猫が、ドヤ顔で腹部に時計を抱えているデザインで、下から生えた尻尾が振り子となって左右に揺れている。
たまに目が光ったりあくびをしたりと芸が細かいが、どうもルーク本体と連動しているようで、ルークが寝ている時はこの時計猫も目を閉じている。
また、彼が迷宮の主と戦っていた時などは、はじめは怯えて警戒する様子を見せ、しばらくするとあくびを漏らし、さらに五分ほど経ってからカッと目を見開いた。
抱えた時計の針だけは常に動いているが、その様子を見ればルークの状態をある程度まで把握できるという優れものである。仕組みはよくわからない。
現在の時刻を見ると、朝の四時。時計の猫はいかにも安らかな寝顔で、つまりルークも熟睡しているらしい。
ロレンスのほうはすっきりと目が冴えてしまった。
二度寝はできそうにないと諦めて、彼は寝台から身を起こす。
仕切りの向こうで、毛布のこすれる音が聞こえた。自分以外にも誰かが目を覚ましてしまったらしい。
その「誰か」は、もぞもぞと起き上がってベッドスペースを出ると、カフェスペースに設置された猫型冷蔵庫を開けた。どうやら水でも飲みたいらしい。
この場所に設置されたルークの猫型冷蔵庫は、氷式ではない。
一般的な氷式冷蔵庫はせいぜい10度~12度前後までしか冷えず、手頃なサイズの氷は二日もすればほぼ溶けてしまう。氷が小さくなれば温度も上がっていき、15~20度前後をしばらく保ちつつ、徐々に外気温へ近づいていく。
一方、ルークの魔力を使用していると思しきこの冷蔵庫は、内部が2度から5度前後――飲み物は氷なしでも充分に冷たく、下部には氷を作れる「冷凍室」まで備えている。
水属性の魔導師が魔法を使って作るはずの氷を、魔導師不在でもほぼ自動的に製作可能とあって、ロレンスも驚愕させられた。
ついでに扉が猫の顔で、開閉するたびに「なあーご」と低く鳴くが、これは仕様らしい。
この空間にある家具や生活用品、魔道具の数々は、ほぼすべてが猫要素を備えており、はじめは趣味かと思ったものだが、「私の使う猫魔法には、そういう縛りがありまして……」と、ルークは苦笑いをしていた。
寝起きの少女は冷蔵庫から麦茶のガラス瓶を取り出し、グラスに注ぐ。
驚かせないように、ロレンスもわざと足音を立てて寝台から立った。
「クラリス様、おはようございます」
「あ……ロレンス様、おはようございます。もしかして、おやすみになれませんでしたか?」
「いえ。熟睡しすぎて、こんな時間にもう眼が覚めてしまいました」
クラリスが安堵したように微笑む。
「それは何よりです。麦茶、ロレンス様も飲まれますか?」
「はい。いただきます」
ロレンスにとって、クラリスははじめてできた同年代の友人だった。
立場の違いから、世間一般の友人関係と比べれば少し堅苦しいかもしれないが、言葉遣いはさておき、精神的にはとてもリラックスできている。
相手は子爵家のご令嬢――ただし正妃の派閥ではなく、これまであまり縁のなかった軍閥の貴族である。
今は成り行き上、ロレンスも軍閥のアルドノール侯爵から庇護を受けているが、本来、政治的な利害関係は薄い。
しかも子爵家であれば、警戒が必要なほど高位の貴族でもない。
公爵、侯爵、伯爵までがいわゆる「高位の貴族」であり、子爵や男爵は貴族といっても明確に格が落ちる。
端的に言えば、「伯爵以上は貴族らしい貴族」で、「子爵以下は平民に近い貴族」という感覚が抜けない。
領地を持たない一代限りの爵位まで含めると、たとえ伯爵でも「高位」とは言いにくい例もあるにはあるが、ともあれ「子爵」が政治の場で重く扱われることはまずない。
しかし、ロレンスにとってのクラリスは、単なる子爵家令嬢ではなく――「亜神ルークの飼い主」であり、どこか神聖な存在のようにも感じている。
そもそも初対面がルークの紹介で、何もない場所に出現した扉から唐突に出てくるという状況だった。
驚きもしたし、その時の第一印象が今も続いている。
キャットシェルターの窓際に、二人は並んで座った。
窓の向こうに見える夜の草原は、絵画のような作り物らしい。奥行きもあり、明らかに平面の絵とは違うのだが、ルーク本人が「実在しない場所」だと言っている。
風にさやさやと揺れる芝生の向こうは、地平線が丸く見えそうなほどに何もない。夜空には星が満ちているものの、明け方が近いせいか、東の空から少しずつ色が群青に変わりはじめている。
窓の外の景色は、森だったり海だったり滝だったりと、ちょくちょく切り替わるのだが、昼夜は扉の外側と連動しているらしい。きっと外でも夜明けが近い。
寝起きの麦茶を少しずつ口に含み、二人は外の景色を眺める。
「この時間に起きていると、きれいな朝焼けを見られるんです。ルークは夜ふかし気味なので、だいたいいつも寝ていますけれど」
「それは興味深いです。あっ……お邪魔ではありませんか?」
「とんでもありません。むしろ、ぜひ一緒に見てください。本当に綺麗ですから」
言葉遣いこそ丁重だが、クラリスの声は泰然として、媚びたところがない。その空気感が、ロレンスには心地いい。
「……クラリス様は、不思議な方ですね。知り合ってそんなに時間が経っていないはずなのに、まるで以前からの知人のような気がします」
「それは光栄です。僭越ながら……私も、ロレンス様には近しいものを感じています」
どきりとするようなことを言って、クラリスは微笑む。
「ルークのロレンス様への懐き方が、私への懐き方とよく似ているのです。ルークは、リル姉様に対しては保護者みたいな感じで、父上やヨルダおじさまに対しては部下みたいな感じになるのですが……私やロレンス様のことは、たぶん妹とか弟みたいな感じに思っているのかな、って。私には兄もいますが、兄とルークも似たもの同士な感じで仲が良さそうです」
相手は亜神であり、それこそ恐れ多いが、こう言われるとロレンスも嬉しい。
「ルーク様も、クラリス様同様、不思議な方です。猫で、しかも亜神だというのに、あんなにも優しく気配りが細やかで……私は、亜神というのはもっと近寄り難い存在かと思っていました」
「私もです。最初なんて、ただの喋る迷い猫のつもりで拾いましたから」
それはそれで珍しい存在だろうが、クラリスとルークの出会いについては、このキャットシェルターでの雑談でもう聞かされていた。
ルークを拾ったクラリスも、運が良かったかもしれないが――むしろ、クラリスに拾われたルークのほうが、より運が良かったといえるのではないかとも思う。それほど、この飼い主とペットは相性が良い。
朝焼けを眺めながら四方山話をしているうちに、部屋の隅から「ぼてっ」と鈍い音がした。
クラリスが気づいて立ち上がる。
見れば――キャットタワーの中程で寝ていたルークが、どうやら寝ぼけて床に落ちたらしい。
なんと眼を覚まさない。
落ちたままでぐでんと仰向けに寝転がり、片方の前足を腹に載せて、幸せそうな寝顔でくうくうと寝息を立てている。
「ルークは寝相が悪くて、たまにああやって落ちるんです」
「えっ……あれで眼が覚めないのですか?」
「起きることもあります。でも、熟睡しているとそのままですね。リル姉様が言うには……ルークは『全属性耐性』を持っているせいで、もしかしたら衝撃とか落下とか、そういうのもダメージにならないんじゃないかって――」
……確かに、『亜神』がそういう事故で亡くなったという記録は読んだことがない。彼らの肉体は物質的なものではなく、「質量を伴った高密度の魔力の塊である」と主張する研究者さえいる。
クラリスは床で眠るルークを抱えあげ、リルフィの枕元へそっと置いた。
その行動に、ロレンスは首を傾げる。
「どうしてそちらに?」
「元の場所で寝かせると、また落ちそうですし……あと、ルークが枕元にいる状態で目覚めると、リル姉様が一日中、元気に過ごせるんです」
なるほどと納得しつつ、ロレンスは色々と悟った。
確かにクラリスは、自分と似ているかもしれない。
周囲の大人達をつぶさに観察し、それぞれの関係が円滑に保たれるよう、裏でこそこそと小細工をする――それはロレンスの日常でもある。
違う点があるとすれば、ロレンスの場合は「厄介な母親が周囲に迷惑をかけすぎないための、苦肉の策」であり、クラリスの場合は「大事な家族の穏やかな日々のための、ちょっとした心遣い」であるという、目的意識の差か。
「……にゃー……ト、トマトさま……あたっくおぶざ……きらー……そ、それは、解釈違いでは……」
ルークが寝ぼけて寝言を漏らした。
わけのわからない内容に、クラリスと顔を見合わせ……くすりと、互いに笑い合う。
クラリス達とは、今後も月に一度ずつ、茶会の席を設ける約束になっている。
この領都オルケストでの謹慎生活は、王弟ロレンスにとって、これまでの人生で最良の日々になっていきそうな予感があった。




