1・猫が生まれた日
我輩は猫である。
名前は根来海人。かつては人間であった。
――いや、日本文学史に残る名作ごっこをしている場合ではない。
もう今更お約束だろうから、「あ、この展開か」と納得してしまった自分の順応性をちょっとだけ褒めたいが、それはさておき俺は一回死んだ。たぶん死んだ。人間の身体は推定時速150キロを超えるスピード違反車の直撃に耐えられるようにはできていない。
跳ね飛ばされて二転三転した末にどっかの橋から川へダイブして流されたような気はするが、意識があったのはそこまでで、気がつくと俺は真っ白い空間にいた。
猫の姿で。
「……キジトラ……?」
自らの毛並みを確認し、しばし戸惑う。
じっと見た手のひらにはピンクの肉球。
鋭い爪も、にょっきりと自在に出し入れできた。わぁ、新感覚。
身体に痛みはない。
たぶんここは、「死後の世界」とかそんな感じの場所だろう。
正直、そんなもの欠片も信じていなかったというか、むしろ「死後の世界とかあるわけねえww」と根拠もなく確信していたのだが、いざ我が身に降りかかってしまうと、なんというか、こう……そこはかとない敗北感に打ちのめされる。
「……そっかー……あったかぁ、死後の世界……」
どうして猫の姿なのかはともかく、もはや認めざるを得ない。
そういえば確か仏教の界隈には「畜生道」なんていう概念があり、生前にいろいろやらかした人は獣に生まれ変わって苦労するとかなんとか……
『あ、それとは違います。えっと、今回のは単純に、こちらの都合というか、ただの仕様なので』
声がした。
割と可愛らしい感じの、やたらと明るい女性の声だ。
「え。どちらさま?」
『またまたー。だいたいわかってるくせに。貴方のご想像通りのアレですよ』
「……四年前に亡くなった婆ちゃんの若い頃?」
『そういうめんどくさいボケ、嫌いなんですよね……』
今のはどうかと自分でも思う。
これ以上は機嫌を損ねないように、俺は正しい(はずの)答えを口にする。
「すみませんでした。もしかして、超越者……とか、神様とか、そんな感じの御方ですか?」
『それそれ。そこそこ礼儀を弁えているその感じ、高ポイントです。オマケで5点追加しちゃいましょう』
「恐縮です」
そのポイントが何の意味を持つのか、さっぱりわからないなりに話を合わせる。空気速読は社会人ならおおむね使える便利スキルである。
今はもう猫だけど。
「で、この状況について……差しつかえなければ、詳しい事情をおうかがいしても……?」
『まあ、気になりますよね。ええと……お察しの通りのアレです。運命の悪戯とか突発的なミスとか、そういう感じの』
「はぁ……つまり俺は、死ぬ予定ではなかったのに死んじゃった――ってことですか?」
声の主が、ちょっとだけ困ったように口をつぐんだ。
『ええとですねぇ……人間ごときの生き死にに関しては、予定とか別にないんで割とどうでもいいんですが――根来さん、車にひかれそうになっていた猫を、助けちゃいましたよね?』
――思い出した。
深夜、慣れない酒に酔っ払って千鳥足で歩いていた俺は、車道に一匹の猫を見つけて……
あとはお決まりのパターンだ。
酔ってなければたぶん見捨ててた。
『……本当はですね。今回はその猫さんがスピード違反の車にひかれて転生するはずだったんですけれど……根来さんが代わりに死んじゃったものですから、その猫さん用の転生枠が空いちゃったんですよね。で、うちの上司は“余計なことしやがって”って怒ってるんですけど、猫を大事に思う心がけだけは、まぁ少しは見どころがあるんじゃないか、みたいな意見も現場から出まして――』
「……現場……? あ、いや、ちょっと待った。待ってください。確認なんですけど、猫用の転生枠? え? 人間の生き死にには何の予定もないのに、猫は転生枠あるんですか?」
超越者さんが、実に大袈裟な溜め息を吐いた。
『当たり前じゃないですか。人間ごとき下等生物のために、わざわざ転生枠なんか用意するわけないでしょう。いったい何様だと思ってるんです?』
「えぇ…………あ、あの、“人間ごとき”っていう部分は、まぁ、超越者さんサイドから見たらそりゃそうだろうなぁ、ってことで納得できるんですが、猫を特別扱いされている理由がどうも……いえ、俺も猫は好きですけれど、超越者さん達にとって、猫ってどういう存在なのかなぁ、という疑問が――?」
『そんなくだらない疑問は放っておいてください。私も忙しいので、要点だけ手短に――貴方はこれから、猫の姿で異世界に転生できます。が、これは義務ではなくて権利ですので、放棄して別の方へ回すこともできます。その場合、貴方の精神は虚無に飲まれてただ消えるだけなんですが、どっちがいいですか?』
こんなん、選択の余地がない!
「もちろん転生のほうがいいです!」
『ですよね。一応、規則なので聞いてみただけです。根来さんがこれから向かう先は、文明レベルこそ低めですが、魔法が使えて、猫もそこそこ可愛がられているちゃんとした世界ですので、まぁ大丈夫でしょう。ついでにさっきのオマケの五点が運命点に加算されたので、計八点。八点保有とかチートですよ、チート。言語能力、魔法能力、肉体強化、強運に各種耐性まで獲得してもお釣りがきます。転生枠特典も付加されて、きっとすごい功績を残せるでしょう』
……猫ですよね? 猫の功績って何? 子猫がたくさん生まれるとか?
つか、加点前はもしかして三点? あれ? さっきの加点で何か良さげなスキルが倍以上になったって話?
そんな俺の疑問は一つも解けないまま、さっそく意識が遠のき始めた。
白い空間がぼんやりと星の海へ変わり始め、どこか遠くから超越者さんの声だけが聞こえてくる。
『……それではさようなら、根来さん。猫としての来世を、ぜひ楽しんでくださ……あ、室長。はい? ああ、たった今、送ったとこですけど……え? いや、知らないですよそんなの。冷蔵庫のマタタビプリンなんて食べてな……え? なくなったのがマタタビプリンだとはまだ言ってない? ………………は、謀ったな、この室長! ちくしょう大人は卑怯だ!』
………………楽しそうな職場だな、とは思った。
超越者さんの職場環境を若干うらやましく思いながら、俺の意識はどこか深くへ落ちていき――
やがて唐突に、まばゆい光が目の前を覆った。
――かくして俺は、ほぼテンプレ通りに、めでたく異世界へと転生した。
猫の姿で。