性悪狐と壊れた農民 7
夜の酒の席、農民達の少ない娯楽と言われる付き合いだが殆どは男で、女である狐は少々浮いていた。だが狐の話しやすい性格故か、雰囲気はそこまで悪くなるというものは無かった。
それに自分は美しい、人間達の価値観では自分は美しい姿をしている……いやいや、本来の姿も美しい筈だ。単に浮いているから嫌われてるだけで。
そう狐は自分に言い聞かし頭を横に振った。
「お、姉ちゃん、今日はまだ飲まないのかい?」
盃を片手に酒を飲む大柄の男は、酔いの勢いで狐の肩を触ろうとした。
狐はスッと避け、
「待ってるんですよ、もうそろそろ来るはずなんですけどね……」
そう言って空を仰ぐように天井を見上げた。シミが人の顔に見えた、それも恐怖に絶叫しているような模様だ。
「アイツの事が心配か銀髪の姉ちゃん?」
「…………ちょっとだけ」
男はふてぶてしく呟く狐を見て、顎をぽりぽり掻いた。
「ふーん……これじゃあ姉ちゃんに手ェ出そうにも出せねえな」
「どういう意味ですか」
狐は不満そうな顔のまま大柄な男を見て、男は「怒るなよ」となだめる。
「…………様子を見て来ます」
芙蓉は行くと言ったら来る男だ。少なくとも約束を重要視していて自ら破る事をする男とは到底思えない。
もし破ったのなら一晩中、男の体を燃やしてやる。いや本気でする気はないが。
狐は席を立ち、軽くお辞儀をしてその場から去った。
φ
ぽつぽつぽつ。
頭に冷たい物が落ちてきた。雨だ。
今日は芙蓉も雨は降るとは言ってなかったから、珍しく彼の予報が外れた。
狐は雨が強くなる前に急ぎ足で向かい、また往復する時はどうしようと考えた。前に男が二つある傘の内の一つを山に捨ててしまい、どちらか濡れることになってしまう。
いや、一つの傘に二人が入ればいいのでは? そう考えた狐の頬に笑みが浮かんだ。
茅葺きの家が見え、降り出した雨に打たれながら狐は急いで家に入ろうとした。
だが、見えてしまったある物に心臓が握り潰される痛みを感じた。
開いた戸から赤い液体が見えた。そして見慣れた男の足があった。
それを見た瞬間、狐は戸をぶち破る勢いで家に入り、壮絶な惨状に声を漏れた。
「あ……あ…………」
男は首から血を流し倒れていた。狐は血に濡れる事を気にせず男の元に駆け寄り、男の脈を触った。
「嘘ですよね……? 起きて下さいよ、頼みますから……頼みますから……」
男は目を開きながら絶命していて、狐は男が死んだ事実に目を向けられずにいた。
目から涙が流れ、どうしてこうなったのか。血が流れる首元を見ると、一つの結論にたどり着いた。
これは、狼の妖のものによる傷口だった。
涙が枯れた、この出来事が現実味を帯びて怒りが滲んで行く。
彼もこんな気持ちだったのだろうか、いや、もうどうでもいい。森を全て焼き払い、全て燃やし尽くしてやろう。
力を取り戻せば森など一瞬で焼く事など容易い。ここには命が沢山あるではないか。
そう、自分は悪霊の妖でもあるのだ、親しい者の命など奪っても痛くも痒くも無い。今日から本当の悪霊になってやろう。今日から人、それ以外の歯向かう生き物も皆、殺め始めてやろう。
だから……だから……奴を……
そう決意しても芙蓉や村人の優しい笑顔が頭の中にこびり付いていた。
狐は枯れた涙がまた溢れ出し、ただ動けずに男を抱きしめた。
このまま男の体が冷たくならぬよう、ずっと抱きしめていようかと思ったその時。
狐の中にある一つの無謀な賭けが頭に浮かんだ。
それは一歩間違えれば狐自身、力を失い死に絶えるか、永遠に人の姿になれぬ一生となるだろう。
それでも男が救えるのなら躊躇いは無かった。
「私は……貴方を絶対助けます……だから……」
男を取り囲むように青い蛍火が現れた。
そして抱きしめる狐と共に、青い炎が燃え滾った。
φ
夢を見た。
それはあの時と同じ家族との思い出。
『おや、雨が降ってきたか……少し畑を見てこよう』
『俺も行こうか?」
『父さんは私に任せて休んでおくれ、それにもう年ではないか』
男は席を立ち、病に倒れている偶然芙蓉が拾った男の手当てをしている妹を見た。
すると妹は男に気づき、笑顔を見せた。
『行ってらっしゃい、お兄ちゃんも雨が強いから気をつけてね?』
『ああ、気をつけるよ』
芙蓉はそう言って雨降る外に出た。
それが家族との最後の会話だった。
φ
目を開く、滲む視界が正確に戻っていき、そこには涙を流す狐がいた。
男は、今狐の膝の上に倒れていたのだと気づいた。
「生きてるのか……? 私は……?」
今の現状を狐に問い始めた。
最後に見た記憶は首を切られ、血を流す自分。あれで無事なワケはない、だが身体に痛みはどこにも感じなかった。
「はい……」
そう言って狐は男をギュッとキツく抱きしめた。
「…………私を蘇らせたのか」
「…………はい」
男はどう言葉に詰まった。そしてただ涙を流す彼女の頬に手を触れた。
すると狐はより涙を流し始めた。思い詰めるように悩み、それでも言葉を吐こうと頑張っているようだった。
「っ……私は……約束を守れそうにもありません」
男は今の狐のとった行動に理解できず、言葉を荒げた。
「どうして救った……? 何故私を死なせなかった?」
その言葉に狐は深く傷ついた。言いたい事を我慢しようとしても、抑えが利かず漏れてしまった。
「仕方ないじゃないですか……だって……だって……好きになっちゃったんですよ……? それに貴方を襲ったのは私に恨みを持っている妖です。だから私が傍にいたら貴方はまた巻き込まれてしまいます」
狐は涙を流しながら精一杯笑みを見せて、微笑んだ。
そう、失いかけて始めてこの感情に正直になれたのだ。だからこそ同時にこれ以上彼を巻き込んだりする事は出来ない。男を生き返らせたのは奇跡に等しい、もう自分にそんな力など残っていない。
「だから、すみません、私は恩返しもできないダメな狐なんです」
そう言って男を抱くのをやめた。そして狐は立ち上がり草履を履いた。
「後、幸せに生きてください。これはお願いじゃなくて命令です」
「命令か……」
「だってそうでも言わなくちゃ聞いてくれないじゃないですか」
狐の後ろ姿は強く、どこか悲しかった。
「さようなら」
男はただ、狐が雨の中を去っていくのを黙って見つめるしか出来なかった。
誰もいなくなった家に一人、男は上半身を起こした。
そこら中が血で染まっており、少し掃除が必要だなと苦い顔をした。
そして、彼女の最後の「幸せ」という言葉が胸につっかえた。
教えてくて、私はどうしたらいい? 何をすればよかったんだ?
男は悩みと希望でぐちゃぐちゃになった心のまま、狐が歩いて行った先を追いかけていった。
φ
今日は雨が降っていてよかった。涙を流してもいくらでも洗い落としてくれる。
このままどこに逃げようか、それともこのまま狼の元に行き狩られてしまおうか。
皮肉なものだ。あれだけ男に生きろと言った自分が自暴自棄に命を粗末にしようと考えている。
それはダメだと狐は自分に言い聞かし、歩く速度を速めていった。
だが目の前に現れた人間を見て足を止めた。
「風邪引きますよ……そんな息を荒げて、回り道でもしてきたんですか」
男はその問いに答えはせず、一方的に会話を始めた。
「教えてくれ……本当に……本当に私は幸せになってもいいのか……? 教えてくれ!!」
男は今にも壊れそうな歪んだ顔をしていて、見ているだけで辛かった。
「それは……わかりません。ただ、それは自分が決めてください……貴方が前に不幸を選んだのなら幸せを選んでもいいはずです」
男はただ、狐を引き止めたくて自ら抱きしめた。
「なら行かないでくれ……私は君がいないと死人のままだ……だから……頼む……」
男の吐き出すような弱い声、狐はその声に心が揺らいでしまった。
「でも、私がいたら幸せになれないかも知れませんよ?」
「それで構わないよ……私は、それを望んでいるのだから……」
雨が降る中、狐は男に腰に手を回した。
狐は笑みを浮かべながら男の胸に顔を埋めた。