性悪狐と壊れた農夫 5
獣の咆哮が雨の中を貫くように響いた。
男は傘を捨て、急いで逃げる事にした、恐らく狐の傷跡から見ておおよそ予想はついた。
だが雨が降る山道、狼抜きでも危険の塊である。逆に臭いを嗅ぎつけられない長点もある。このまま急いで家のある麓に降るか、どっちにしろ危険だが手当てをしないと確実に彼女は死ぬ。
雨が身を貫くように強くなり、視界も定まらぬようになって行き腕に抱く狐の命が減っていくのが身で理解できた。
まずいな、これは……
男は足を早め、危険を無視して走り出した。だが雨音とは別の地を叩く音が聞こえた。
それは自分以外の足音、それも速い。
背後から何かが襲いかかる気配がして、咄嗟に男はしゃがんだ。
頭上に一匹の狼が飛び出し、男の顔が焦りに変わった。
「参ったな……私はともかく彼女は死なせたくないんだが……」
狼に人の言葉など通じず、大きな牙を見せながら狼は男に飛びかかった。
男は咄嗟に右腕で盾にして、異物が肉にめり込んでいくのがわかる、皮膚を破り、血が溢れ男は痛みに叫びをあげた。
咄嗟に地に転がっていた石を手に取り、狼の頭に打ち付けた。
狼も叫びをあげ、噛みついていた歯を開いた。
男は転がった狼を通り過ぎ、また走った。後ろを振り向くとまた立ち上がり、男を狩ろうとする狼の姿が見えた。
全速力で走った。男は狐を救う為に全速力で走った。
φ
狐が目を覚ましたのは襲われてから次の日だった。目を覚ました先は見慣れた天井。今の住処であった。
「おや、目を覚ましたか」
自分が狼の姿のままだと言うことに狐は気づき、痛む身体のまま姿を人間に変えた。
右足には包帯が巻かれ薬が塗られていた、そこからは血が滲んでいた。それに雨に打たれ過ぎたせいか身体が熱っぽい、意識が少しふらつく。
狐はもう眠っていたい気持ちを抑えながら口を開こうとした。だがそれよりも先に腹が鳴った。
「おや、腹が減ったか。丁度粥を作っていた所だ」
狐は顔を赤らめながら男の作った粥を貰った。色んな心境が混ざり合う中でも腹は減った。
匙を手に取り、口に運ぼうとするが右腕が腫れている事に気付き匙を落とした。
「っ……」
「大丈夫か?」
男が心配そうに匙を取り、粥を掬った。
そして狐の口元に近づけてた。
「食べないのかね」
誰かに食べさせて貰うのは恥ずかしかった。だから自分で食べようとしても腕が痛む。狐は仕方なく口を開け、それを食べた。
「味はどうだ」
もぐもぐと咀嚼して、狐はコクリとうなづいた。
「それは良かった、山菜が良く取れたのでな」
そのまま狐は食べさせて貰うのを繰り返した。
二口、三口、四口。
だんだん繰り返されていく度に顔が赤くなっていった気がする。ああ、狐の姿に戻れば腕など使わず食べることができたのに。熱のせいで判断が鈍っている。
そして五口目、男の服の右袖から包帯が見えた。
狐は五口目を拒否した。そして思いつめた表情のまま口を開いた。
「また、助けてくれたんですか?」
「偶然君が倒れていたものでな」
「偶然……ですか」
狐は黙ったまま男を見つめた。私を助けた一度目は理由はない、とは言ってたが助けた相手に殺される事をどこかで望んでいた。
二度目も私に殺して欲しいから助けたのだろうか。狐はその真意が知りたくなった。
「一つ……聞いてもいいですか?」
「何かね」
「貴方が私を助ける理由はなんなんですか?」
「約束だからだよ、人は約束というものを気にする生き物だ。それに死んでいい人……生き物などいないものだ」
「貴方が言ってる事は本当に矛盾してますよ」
「わかってはいるよ、ただ」
男はそう苦笑した。ただ、何か一言言おうとしてやめようとした感じだったが、重々しく言葉を放つ。
「ただ…………もう誰かが死ぬのはもうこりごりだ」
それは乾いた笑いをする男が見せた弱々しく今にも泣き出しそうな姿だった。
「腹を刃物で貫かれて目を開けたまま絶命していた妹。血の海に溺れるように口と首から血を出していた母、家族を守ろうとして何度も刺された跡がある父……何度も……何度も思い出す。時には夢にまで見てしまう……だが忘れてはいけないんだよ……誰かが覚えていないと」
今まで我慢していたものが溢れ出すように悔しげに悲しげに男は口を閉じた。ただ狐の中で男の印象がだんだんと変わっていくのを感じた。
狐は男を抱きしめた。何故身体が熱や怪我で痛むのにこんな事をしているのか、この行動に移した自分が理解できなかった。
それでもただ抱きしめた。
「辛かったら泣いたらいいじゃないですか……」
不満そうに狐は言い、男は涙を流すかと思ったら寧ろ笑っていた。
「男は人前で泣くものじゃないよ」
男はそう言って狐の胸から離れた。
「めんどくさい生き物ですね」
「私もそう思う、けどありがとう」
男は軽く頭を下げて礼をしたのだった。狐はフフッと鼻で笑い、
「そうですよ、もっと感謝してください」
ただこういう言い方が悪かったのか、男も口元をムッと尖らせて、
「む、君だって私がいなければ死んでいたよ」
「む、それとこれとは話が別じゃないですか」
お互い数秒間睨み合った。だが男が先に笑って狐もそれに釣られて軽く笑ってしまった。