殻のある熱帯より
吸い込まれるように、覗き込んでしまった。
厚手のカーテンが締め切られた理科室の中は、入口の引き戸についた小窓から垣間見ても、机や椅子の輪郭が分かる程度で、ほとんど何も見えない。まだ昼間だというのに、黒板に張られた実験の手順が書かれたらしい用紙の文字も、目を随分と細めないと読めないほどだった。
闇の中で何か蠢いたような気がして、俺は、鍵を取りに職員室に急いだ。
いわゆる「虫の知らせ」というやつで、もしかしたら誰かが不正に入り浸って、異性との不純な交友でもしているんじゃないかという疑いもあったのである。
夏休みといっても教員は休みというわけではなく、出勤する日々が続いていた。
来学期の準備、書類の作成、組合の連絡、教育研究会の発表準備……。
先生というやつも、いろいろとあるものだ。
校庭に部活動の練習をしている生徒の声がコダマしている。中学校は背の低い山に二方を囲まれ、あとの半分は広大な田んぼ地帯に面している。
自然の多い学校は、校内にも夏が充満してくるのかもしれない。
俺は横着にもワイシャツの袖で額の汗を拭いながら理科室の鍵を借り、再び廊下を今度はすこし緊張気味に引き返した。
なんせ相手は中学生で、血気も精気も盛んな時期だ。
しかも最近のこいつらときたら、俺の青春時代からは及びもつかないくらいに体格がよい。態度もデカい。ともかく、なにかあるようなら他の先生方を呼びに行くつもりで、俺は理科室の鍵を開けた。
鍵の開く子気味の良い金属音が静かな廊下に響いた。
正直、入るのを躊躇った。
理科室から出て来た空気は、放置された自動車の中よりも暑い。
ここに誰かいるとは思えなかった。
いたとしても、とっくに熱射病で死んでいるだろう。
「無駄足……だったか…………」
俺は部屋の暑さから顔を庇う様にして戸を閉めようとした。
だがそのとき、理科室のカーテンが開いた。
俺は驚いて眼を細める。
「誰だ?!」
姿がないのにカーテンが開いた? ――俺は一瞬感じた怖さをグッと堪えて、引き戸を思いっきり開け放った。バコンッと木と木がぶつかり合う高い音を響かせて、俺は一気呵成に理科室へと飛び込んだ。
暑い空気で肌が焼けるようにひりひりした。
驚いた、というように声が響いた。
「……あ、せ、先生?」
聞こえたのは女子生徒の声だった。
声には聞き覚えがあった。
「え、どこにいるんだ……」
俺は一気に太陽の光で明るくなった理科室を見回す。
机の後ろや下――死角になっている場所を覗き込んで歩いた。
見回っていると、カーテンがまたするすると閉まった。
ギョッとしてそちらを向くと、カーテンとカーテンの合わせ目から、困ったような少女の顔が覗いていた。俺は驚いて、彼女をまじまじと見てしまった。
「えーと……鷸井――鷸井瑞輝、か?」
それは、この前1年のクラスに転校してきた女子だった。
しかも、彼女は成績もいいし、問題を起こしそうな生徒ではなかった。
「何、してるんだ? こんなところで……」
言いながら、俺は近くの壁にあったスイッチを押し込み、部屋の電気をつけた。
パッと明るくなる部屋。そして、あることに気づいた。
「……え、おい……そこ、流しの上? だよな……」
カーテンの後ろから、困り顔でこちらを見ている少女――鷸井はその顔の位置からして、カーテンの後ろで水道の流しの中に、膝立ちしているようだった。
「お前、ちょっと待て。ちょっと待て、お前、いま、服着てるか……?」
「いえ、そのぉ……ハダカです……」
俺たちは、見詰め合ったまま、地獄の底みたいに沈黙した。
◇-◇-◇-◇-◇
「そのぉ……家にないのか、あー、その……風呂とか……?」
「まぁ、その、そうなんです……」
俺は彼女の方を見ないように背を向けながら、親御さんに連絡しないといけないな、と考えていた。校則違反、というか完全に想定外の出来事で、どういう説明をすればいいのだろう、と悩んでいた。ひとりプール……みたいなことは、学校でやってはいけないぞ、とでも言えばいいのだろうか。
「あー、つまりあれだ、鷸井――」
俺はとりあえず職員室に戻ろうと、半身をもたれ掛けていた黒板に手をつき、ドアの方に急いだ。さすがに裸の女子と二人きり、というのは誰かに見られたら明らかに危ないし、相手は中学生とはいえ、なんというか、つらかった。
電気を消して、おれは引き戸に手を掛けた。
「ちょっと、服があるなら着て待ってろ。お家のひとに、連絡するから……」
言いながらちらっと彼女の方を振り返ると、カーテンからちょこんとみせた顔を恥ずかしそうに伏せていた鷸井は、びくっとして何か言いたげに口をぱくぱくさせた。
「――――――」
うまく言葉にならないのか、声が出ていない。
焦っているのは分かった。まぁ、たしかに家のひとには知られたくないだろうが……。
「ん? あれ?」
俺は部屋の引き戸が動かないことに気づいた。
何かが引っかかって動かないとか、鍵を間違えて掛けてしまっていたという感じではなく、全く戸が動かない。間違えて壁を引いているような感じで、びくともしない。
いや、というか、俺はすぐに職員室に戻ろうとしていたのだから、戸を開けっぱなしにしていたのではなかったか? いや、閉まっているということは、声が聞こえた時点で無意識に閉めたんだっただろうか……? 困ったのと気まずいのとで、俺は若干の照れ笑いで鷸井の方を一瞬だけ振り向いて――そして、その一瞬見えた彼女の陰に違和感を覚えて、「ん?」っと何が変なのかを数秒間、彼女を振り向いた姿勢のままで見つけ直そうとした。
そして、暑さがじわじわと皮膚に染みてくるように、段々と視覚から脳神経へとその「違和感」が染み込んで上がっていき、頭蓋骨の中に伝わるのを感じた。
そして、気づくと同時に熱湯へ手を突っ込んだときのように、身体が意思とは無関係にビクッと跳ね上がっていた。受け身も何もない強張った姿勢のままで尻もちをついて、その衝撃で腰骨と背骨が、痛みのばね仕掛けみたいになってずっと小刻みに震えていた。
暗い山道で、急に木に混じって人間が直立していたときの怖さに似ていた。
俺は、笑うヒザを床に押し当てて落ち着けようとしながら、壁に手をつき、立ち上がりながらカーテンの裏の少女に話し掛けていた。
「……鷸……いっ……お前、身体――体は、どうした……?」
俺は、言う事を聞かない身体を何とか直立させ、薄暗い教室で彼女と向き合った。
電気が消えた薄暗い理科室の光源は、厚めのカーテンに遮られた強烈な太陽光だったが、そのカーテンの後ろにいる鷸井が陰になって見えている。
彼女の顔はある。その下に頸もある。カーテンを閉めているてのひら、腕、肩――でも、その下にあるはずの胴体が────身体が見当たらなかった。陰にならずに、太陽の光がそのままカーテンの生地当たっている。
「…………?」
窓の方を真正面から見ているせいで、少女の貌はちょうど最も暗く、陰になって見えない。意味が呑み込めて、急に背中がゾッと寒くなる。冷たいものが背筋に這い上がるような感触がして、情けなくも俺は再び身体をビクッと大きく跳ねさせた。
震えを噛みしめて、どうにか彼女を見つめていると、
「はぁ……」
と溜息をついて、彼女はやや冷たく言葉を続けた。
「先生、おとなしくしてくださいね。殺しちゃいますよ?」
◇-◇-◇-◇-◇
「ラジウム片って、先生しってます?」
と彼女は言った。
首筋に刃物のような冷たい感触があった。
俺はマネキンになったみたいに動けなかった。
「……え、こ、これ、ラジウムなのか……?」
俺は、強張った首筋の感触に冷や汗を流しながら答えた。
すると少女はうれしそうにころころ笑い、
「うふふ、それは、単なる致死毒ですよぅ」
と言ってきた。
致死毒って、神経毒かなぁ……などと精神を保つために、俺は少女の口調を心の中で真似しながら、
「しかし、ラジウム――ラジウムねぇ。原子番号88番の、アルカリ土類金属。炎色反応だと洋紅色で、放射性物質のひとつとして知られているな」
と思い出しながら答えた。
何を隠そう、俺は理科教師なのだ。専門は地学だったが。
俺の答えを聞いて、その身体のない少女は、
「そのラジウム片が、ここの理科準備室にあったの御存知でした?」
と、またとんでもないことを言い始めた。
「は、えぇ?! そんな莫迦な」
俺は恐怖を忘れて純粋に驚く。
そんなものがあったら、かなり危ないではないか。
「いや、ちょっと――待てくれ」
俺はそれでも、ふと思い当たるふしがあることに気がついた。
「俺が赴任したのは、前任の方が、亡くなったから……」
無意識に、頬がピクっと引きつるのが分かった。
死因は知らない。だが、関係があるのだろうか。
少女は俺より有利に立てているのがどうやら楽しいようで、
「――でも、先生は大丈夫ですよ」
と無邪気に言ってくる。
「何で、そう言える?」
俺は、真剣に彼女に聴く。
「さっき、私が食べちゃったからです」
たべちゃったから?
俺は心の中でその言葉をオウム返ししていた。
「…………へぇ」
たべチャッタというのは、食べちゃったということだろうか。
まるで、妖怪のようなことを言う子だ、と俺は思った。
というか、そもそも身体のない人間など、いないだろう。
ついに俺も、心霊現象の――いや、妖怪に出会ってしまったということか……。
俺はもうこの状況に現実感を感じなくなってきていた。何よりも、締め切られた理科室はただでさえ暑いのだ。これが暑すぎるせいで見ている幻覚なのだとしても、不思議ではない気がしていた。
「ねぇ、先生? うちに連絡するの、やめてくれませんか―─」
彼女は、言葉だけ聞くとただの不良少女のようなことを言った。
もちろん状況だけみても――いろいろと見なかったことにしても――彼女は確かに、不良少女には違いなかったのだが……。
「いや、それは、」
段々混乱してきた頭でも、俺はその片隅で、教師として生徒の脅しに屈するわけにもいかないぞ、と本能的に思っていた。
「絶対、連絡はする」
俺は暑さの中でも言い切っていた。
だがそこで少し、頭の隅にある考えがよぎった。
この子の家族も、身体がないのではないか――いや、そうではなく、もしかすると、この化け物は本物の少女を食った後、そのままその少女に成り代わって、澄まして生活しているのかもしれない……。
「先生?」
「はひっ」
俺は急に甘ったるく響いた彼女の声に、つい引きつった声を返していた。
「先生――もしうちに連絡しないでいてくれたら、私のハダカ、みせてあげますよ?」
「……は?」
俺は、精神の限界の中で、今日も空が青いな、と見えもしない青空のことを考えていた。
◇-◇-◇-◇-◇
ラジウムは空気中で簡単に酸化し、暗所で青白く光る性質がある。
だから、時計の文字盤や計器を光らせる夜光塗料に、戦前から使われてきた。
がん治療にも効果が見込めるとして、体内に入れる針などに活用されていた時期もある。そもそもラジウム自体に発がん性が指摘されたので、現在では使われていない。というか、そもそも1958年施行の放射線障害防止法などで、所有するには行政への届け出と許可が義務づけられているはずだ。だが──だが確かに、新聞で少し読んだことがあるが、自己申告制だったために60年代になっても許可を申請せずにそのまま所持され、持ち主が亡くなるなどして、その後ずっと放置されるケースも珍しくはないのだともいう――俺の精神は、逃避のために普段忘れているこんなことまで、脳の奥深くまで潜って掬い出してきたようだった。
そのくらい俺は、目の前の少女の裸体を強制的に見せられる、という状況に戸惑っていたのだと思う。俺は身体が言うことを聞かないし、向こうは否応なくその姿をおれの前に晒してきた。
「……先生、わたしの身体、けっこう、綺麗だと思いませんでした?」
「……う、うぅ……た、確かに、なめらか、だな……」
うなだれながら、俺は答える。
少女はカーテンの後ろから出て、俺の目の前までやってきていた。
いまの彼女には、胴体があった。
すらりと伸びた、足もあった。
全身が晒した少女は、妖艶な眼差しで俺を見てくる。
部屋は少女の開け残したカーテンの隙間によって、柔らかく照らされていた。
「でも、まさか、お前は……」
「んん? 何ですか先生。生徒のハダカを見てしまったんですから。ヘタをすれば職を失いますねぇ、どうしたらいいと思います? ねぇ、先生?」
「う、うぅ…………」
俺は目を閉じて、冷静になろうとした。
彼女の這いずる身体が、目に焼き付いて離れなかった。
背中がずっとゾッとしていた。
「あ、なるほど。先生はもっと大人な体つきがお望みでしたか」
彼女は言うと、その髪以外に体毛もなく、人体の随所にはあるはずの粘膜も見当たらないマネキンのような身体を後ろにぐん、と反らせた。だらん、と首から上が後ろに垂れてしまって、反らされた身体が小刻みに痙攣を始める。高圧電流でも流されているように、時折、上体がびくっと跳ね上がる。
俺は吐き気にも似た胃のあたりの圧迫感を、必死に小刻みな呼吸で乗り切る。
少女の身体は、表面がぼこぼこと盛り上がったり、凹んだリするのを繰り返していた。身体が蠢くたびに、「ぐぎ、ききききき、ぎききききききぎ、ぎきききゃききぎぎぎぎ」という気の狂ったような声――たぶん、本当は声ではないのだろうが――を発していた。
彼女がまた俺と向き合って微笑んだ時には、少女はもはや中学生の未成熟な身体ではなかった。大きく膨らんだバスト、細く引き締まったウェストに、肉づきのいいヒップライン―─豊満な、といのが一番いいのだろう――こんな状況でなければつい惚けて見蕩れていたかもしれない匂い立つ肉体が、そこにはあった。貌だけは先ほどのままの少女のそれなので、違和感が拭い切れなかったが……。
彼女に欠けていたのは、ひとことで言えば重力だった。
彼女の太腿が空を切り、虚空を蹴り上げている。しかし、普通の人間なら生じるはずの、筋肉の揺れがない。本来柔らかなはずの女性的な肉体は、まるで硬質な彫像のようにその造形のまま稼働している。
柔らかそうに見えるボリュームある乳肉も、重力やありうべき筋肉の動きに合うことなく、何だか出来の悪いハリウッド映画でも見ているみたいで、ゆっくりと不自然に揺らぐことしか出来ていなかった。
「うーん……普段は、服の下に隠れている部分は制御していないので、どうにも、こういう揺れる部位の多い身体は、全体を調和させて辻褄の合った諸動をさせるのが難しいですね……」
――と言ったのもつかの間に、次の瞬間にはその言葉は何だったのかという程に、見事な自然さで全身の肉体を揺らして、アクロバティックな空中後転とバク転、着地と同時にフラメンコのような、キレのある舞踊を披露していた。
「先生、私、けっこう頭いいんですよ。神経系はかなり発達している方ですから」
少女はそう言って、体表を波打たせた。そしてその後は、彼女は筋骨隆々な男になり、華奢で繊細な少年になり、そして最後には、俺になった。俺そっくりの顔で、俺にむかって微笑みかける。もちろんというのか、股間には、何も付いていなかったが……。
「お、お前――お前いったい、何者なんだ……?」
俺は、そう聞かざるを得なかった。
もちろんその答えは、さっき彼女がカーテンから出て来たときに、目にしてはいた。だが、信じられるものではなかった。信じられなかった。
「そもそも、どうして生きていられるんだ……そんな状態で、呼吸できているとも思えない……」
俺は、理科教師として当然の質問を彼女に投げていた。
「…………そうやって人間は、いつだって、表面しか判断しないから、私みたいな存在を許すんですよ」
と彼女は――いや、ハダカの俺は、顎に手をあてて俺の質問に正面から答えずに、よくわからないはぐらかし方をしてきた。
「いえ、表面でしか判断できない、と言うべきでしたね。人間は、ふつう皮膚の上にしか愛を感じられないものですからね――それはもう、何千年も、昔から――──」
◇-◇-◇-◇-◇
俺は、彼女――そう、すでに彼女は俺の顔ではなくなっていた。もとの、女子中学生としてそこにいて、俺の渡した人体模型に掛かっていた白衣を羽織っていた――を指差して、その相変わらず微笑した顔に震える指先を数メートル離れた場所から向け、話し立てていた。
「――3億年前の、古生代石炭紀には、確かにアルスロプレウラという節足動物が、生息していたことが知られている。全長は2メートルから、3メートルはあったとされるヤスデの仲間で、幅も40センチ・メートルは軽く超えていたことが、化石などから分かっている。だが、今はもういない、はずだ――」
話しながら、腰が引けてしまって、段々と俺は彼女から距離を取ろうとする。だが彼女はそれを許さず、俺が一歩後ろに下がるたびに、一歩ずつ俺の方に無言で歩んでくる。
「……………………」
「でも、お前は俺にはその仲間にしか見えなかった――だが、ありえないはずだ。陸棲節足動物は今の大気圧と酸素濃度では、精々が数十センチ・メートルになるのがやっとで――」
俺は、さっきカーテンから彼女が這い出して来るのを見ていた。
いや、この言い方は正しくない。
俺が見たのは、少女の顔が結び目だったようにほどけながら、それを形作っていた10センチ・メートル幅の蟲になって這い出し、それより先に彼女の胴体と足からほどけていた部位――俺の背中を這い上っていた――の方へとやってきて、俺の目の前で、再び少女へと編み上がるまでだった。
「――その、理由は、体長が倍になると体積に伴って体重が3倍になるからで、昆虫や甲殻類のような強度のタンパク質由来の外骨格では、ある程度以上の巨大な身体は支えられなくなるし、そもそも立ち上がれなくなるから、移動ができなくなるはずで……」
俺は、彼女がこの疑問の答えを持っているかどうかはどうでもよかった。ただ俺は、彼女と普通に向き合っているのに耐えられなかったのだ。汗を拭うことも忘れて、俺はとにかく話し続けた。
「それだけじゃなくて──節足動物には横隔膜もないし、肺があるわけでもないんだ。気門で空気を取り込んで、気管でガス交換する――効率が悪すぎて、大型になればなるほど酸欠になるんだ。巨大シダ植物の光合成によって地球の大気酸素濃度が30%近くあった三億年前ならまだ分かるけど、いま存在できているのは何かの間違いとしか、思えない――」
俺は、言いながら高校の現代文の教科書に載っていた、安部公房の「赤い繭」という短編小説を思い出していた。読んだのは七年も前だったが、印象は鮮明に思い出せた。この状況がそうさせるのだと思った。街を歩く男には家がない。男は街をさまよいながら、他人の家を訪ね、なぜそれが自分の家ではないのだろうと考える。男は躓き、気づくと、片足が赤い糸にほどけていた。男の身体はすべてほどけてしまって、最後は赤い繭になる。繭になった男は思うのだ―─俺は自分が家になったけれど、今度は、そこに帰っていく自分がいなくなってしまった―─と。
俺はつい、鷸井のことが心配になった。
もしかしたらこの娘は、本当の意味で帰れる場所がないのではないか、という予感がしたのだった。
「…………………………」
大きめの白衣をコートのように羽織った少女は、無言のまま俺を見詰めていた。
「あ――お前、その、どこから、やって来たんだ……?」
俺は、まるで迷子の幼子にでも呼びかけるみたいな声で、彼女に話し掛けていた。どうやら、俺も教師の端くれではあるらしい。こんな状態でも、本気でこのヤスデ少女のことが心配になってきていたのだ。
「お前がうちに連絡してほしくないのは、もしかして、そこがお前の、本当の家ではないから――なのか?」
俺がそう問いかけつつ少女の方へ踏み出すと、彼女はピクっと顔を引きつらせ、一歩下がった。そして目を閉じて、息を短く吐いた。
俺は彼女のその様子を見ながら、つい「上手いな」と心の中で思っている自分に気づいた。今ならわかる――彼女の《眼》は何も見てはおらず、彼女の《息》は肺から出ている呼気ではない。
それは対面する人間に彼女が、その全身の性能を総力をあげて発揮して「合わせている」証拠であり、決して単なる欺きのための行為ではないのだ。
俺は冷静になってみて気づいた。
単に人間を喰うだけの怪物ならば、ここまで完璧な擬態など必要ない。
これは彼女の一族が、気の遠くなるくらいの昔から、人間と共存してきた証ではないのか。彼女は、単にちょっと俺を軽く殺せる毒を持っているだけの、実は、本当に単なる女子中学生なのではないのか。
俺が、彼女に対してすこし優し気な気持ちになったことが、彼女にどう思われたのかはわからない。だが、ずっと黙っていた彼女は、
「私は、ヤスデじゃありません」
ときっぱりした声で言った。
不満そうな様子だった。
「私は、巨大なムカデです」
そう言って少女は腹のあたりから、めきょり、と彼女本来の身体を引っぺがした。ムカデ――たしかにそれはそう呼ぶほかにないくらい、それはムカデだった。濃い紫色をした背と赤みがかった頭顎部――そしてそう、肌色をした腹と肢をもったその蟲は、小型犬くらい幅のある胴体からとび出した俺の指くらいある肢を動かしながら、「ギチギチギチギチ……」と嘶いた。
それが本来の、彼女の声なのだった。
俺はつい笑いそうになりながら、
「確かにそうらしい――ところで、お前は、どこから来た何者なんだ?」
と、さっきした質問をもう一度彼女に投げかけた。
すると彼女は、困ったような表情を浮かべると、何度か躊躇ったあと自らの本体を腹に仕舞い、
「――此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの――」
と、何か節をつけて、歌のようなものを詠じ始めたのだった。
◇-◇-◇-◇-◇
「知っていますか?」
と聞かれて、
「知らない」
と俺は答えた。
「これだから戦後生まれは……」
と羽織り白衣の少女は唸った。
そうして、彼女は呆れたような表情で、
「能の『土蜘蛛』ですよ」
と少女はやや強めの口調で言ってきた。
俺は曖昧な笑顔で聞き流す。理科教師である自分に、能や狂言の教養を求められても困ってしまう。俺が理解していないことを悟ったのか、白衣の裾を指で擦りながら、鷸井は俺に詳しい説明を始めてくれた。
「土蜘蛛――我が国の穴居原住民、だと解されることもありますね。土の中を這っている様子を表したかった――だから、「蜘蛛」という呼称は、必ずしも生物種としての蜘蛛を意味しません。ただ、いずれの物語にも共通している土蜘蛛の特徴がありました。それは、《異形の化け物》であった、という点です――」
まぁ、私はべつに由緒ある土蜘蛛ではないんですけどね、と少女は続けた。
ただ、それに近い一族だった、というだけです、と俺に笑い掛けながら言った。
「重要なのは、これが大和からの呼び名であったという点でしょう。これはあまり引き合いに出すべきではないかもしれませんが、柳田國男が明治42年に記した「天狗の話」によれば、「これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥せられ窮迫せられてようやくのことで遁げ籠り、新来の文明民に対しうべからざる畏怖と憎悪とを抱いて一切の交通を断っている者が大分いるらしいのである」と語られています。ここで語られるのは山人などと言われる者たちであり、彼らを列島古来の原日本人系縄文人とみて、「天狗」――あるいは「鵺」や「鬼」といってもいいかもしれませんが――の正体と言いたかったようなのですが、実際、これは鋭い指摘だったということを、否定することはできないでしょう。もちろんこのような《民俗学》は、日本の民族形成の歴史に関して不確かな憶測がかなり入っているため、現在では学術的な価値はあまり認められないのですが、それでも私のような存在を列島の先住民族と呼べるのであれば、これは、ほぼその通りであったということができるはずです。ちなみに、日本国最古の歴史書である『古事記』や『日本書紀』にも、土蜘蛛は「土雲」や「都知久母」として登場していますね」
彼女は、ふう、とため息をついて、
「私はべつに、能の『土蜘蛛』みたいに奈良の葛城山にいたわけでもないですし、そもそも文字を持たなかった私の民にどんな由緒があったのかも正直わからなくなっているのですが、おそらく、土蜘蛛の近縁だったのだろうと思います。もし違うのだとしたら、ムカデは日本では、毘沙門天の使いとされていますから、仏教が伝来したのが6世紀なので、それ以降に中国大陸から渡来した者の中に私の先祖もいたのかもしれません。もしかしたらそれも土着信仰が元にあって、それと類似する性質を持っていた毘沙門天信仰と後に結びついたのだ、という可能性もあるんですけどね。ともかく私は、もともとは、山窩として暮らしていました」
と語った。
俺はサンカ、という聞き慣れない言葉に戸惑って、
「え、えーと、つまり、君は、転校してくる前は、さっき言っていたみたいに山の中で生活していた、その、天狗みたいなヤツだった、ってことでいいのかな?」
と、かなり適当なことを言った。
すると彼女は驚いたように、
「まぁ、そういうことです」
とそれが正しかったと教えてくれた。内心、俺の方が驚いた。
「朝廷が編纂した『古風土記』に記されている土蜘蛛の集団には、巫女的な役割をはたした女性首領の存在が多く見受けられました。だから土蜘蛛の一族は、母系集団だったようです。実際のところ、私の一族が治めていた隠れ里も、私を見てのとおり母系集団でした」
俺がへぇ、と呟くと、彼女はちょっと澄ましたような顔をして、
「私、お姫さまだったんですよ?」
と言ってきた。ちょっと可愛かった。
「柳田国男が述べるように、土蜘蛛の「大部分は死に絶え、ないしは平地に降って文明に同化した」はずですが、神武天皇の諸国征伐から二千年、源頼光の鬼退治から千年を経て、未だ私のような者たちは日本列島の深山に生きていたのです。国津神の神孫、大和にまつろわなかった民は、流浪の人となって穀物果樹家畜を当てにせず、定まった場処に家を持たず、夏は涼しい山の中に、冬は暖かい海の浜辺にと暮らしたわけですが、それらの人々を山窩と呼びます。あ、ちなみに山窩と土蜘蛛は別物ですよ。山窩は列島の深山に暮らす放浪民の総称ですから、いってみればサラリーマンとか、スポーツ選手とかと同じ言葉で、その内実は様々です。災害で地元を失った人たちが、年を重ねる中で山窩化することもあったといいますし──」
彼女の口元には、うっすらと笑みが浮いている。
「とはいっても、私たちのムラは数十から数百年単位で移動を繰り返す生活だったので、ふつうのそういった生活者とは少し性質を異にしていたかもしれませんけどね。洞窟に棲み、山とともに生きていました。たまに農業もしましたけれど。私の一族は、単性生殖で仔を産めるのですが、ムラ人から父として若い男を娶っていました。もちろん本当の父親にはなれないので、毒で即死させて一晩掛けて喰うのですが、それがムラ人にとっては、初夜の時間だと信じられていました。私たちはあくまで神を祖先にもつという信仰でしたし、実際、私たちは人ではなかった。かつてはサトリやヒトコトヌシと呼ばれたそうだと、まだ生きていたころの祖母からきいたこともありました。私たちの祖先は、そう、実際さっき先生が言っていたように、地上が天然の放射能で満ち、巨大生物が跋扈していた3億年前の石炭紀にいたムカデの仲間だったことは間違いありません。というのも、私たちが人間を食べ呼吸によって生命活動を行うのは出産前後の時期一度きりであって、それ以外の人生では、放射線をエネルギー源としているからです」
俺はその言葉に驚いて思わずふらつき、壁に肘をついて身体を支えた。
汗で滑り、自分がかなりの量の汗をかいていたことに気がついた。
まるで理科室は、蟲の殻で覆われた熱帯のようだった。
「だから、ラジウム片を――」
俺は呟いて納得した。
先祖の生きていた石炭紀の気候に近いこの部屋で、彼女は快適に、オヤツのラジウムをパクついていたのだろう。
「……まぁ、そんな風なのですが、私の一族がムラの中心ですからね、留まる土地には放射性物質がないといけません。少なくとも、私が住む窟居のすぐ近くには、鉱脈が覗いていなくてはなりませんでした。大体その放射線を吸い尽くすのに一定の年月がかかり、吸い尽くしたら別の土地に旅立つ、ということを私の知る限りは繰り返していました。でも――数年前の大地震のとき、私のムラは全滅してしまった。地震が原因だったわけではありません。たぶん地震のせいで土地が割れ、鉱脈が露出してしまったんです。異常な放射線量だったのを憶えています。そのときすでにムラの長だった私は、全力を挙げてその放射線と放射能を吸収しようとしました。でも、吸い切れなかった。私はもう死んでもいいと思いました。でも、私が食べきれる量を超えていたんです。吐くほど食べて――そうするうち、私を置いて逃げてくれなかったムラ人は全員、急性被曝して死に絶えました――そう、私が無力だったせいです」
「………………………………………………………………」
俺は、言葉を失って、目の前の少女を見た。
戸惑う俺に、彼女はまっすぐな目を向けてきて、
「弱い化け物なんて、憐れなだけです」
と言った。
◇-◇-◇-◇-◇
「いや、うーん。そうか、いや……あー、わかった! わかったよ、もう、うちには、連絡しないでおく」
俺は、頭を掻きむしりながら、混乱してそう宣言していた。
教師失格なんじゃないか、という考えもよぎったが、この子は人間ではないし、人間のせせこましい秩序をいちいち押し付けるのも何か違うと思ったのだ。たしかにルールは大切だ。だが中学生をルールで縛るのは、未熟な思考で動き、大人には予想もできないような怪我や悪いことをしでかすからなのであって、彼女はそんな莫迦ではないと俺は思った。いや、他の先生方にバレたら、どうなるかは分からなかったが……。
鷸井は、予想以上に俺の反応が劇的だったとみえて、
「わ……、ありがとうございます!」
と跳びはねるくらいの勢いで喜んでいた。
「あんまりこういうことが続くようだと、連絡せざるを得なくなるからな。そこはわかっといてくれよ」
暑さもあってこめかみに手をあてつつ言った俺の言葉にも、鷸井は元気よく、
「はいっ!!」
と返事して、彼女は安心したように柔らかな表情で笑った。
「恩に着ます」
と重ねて言うので、
「いや、お前はまず服を着ろ」
と返した。
「お前も、いろいろ大変だったんだな……というか、俺よりも年上の可能性もあるんだな、実は……うーん。何というのか、ここにお前がいるということは、山のどっかに鉱脈があるってことなのか……」
俺はぶつぶつと呟きながら、何となく、彼女のことが「可哀想だな」と強く思い始めていた。生まれたときから同族は母親と祖母だけで、ムラ人は慕ってくれるけど正体を騙していて、最後にはそんなムラの人もみんな死んでしまって――。
俺は、たぶん無意識に彼女を憐れみの眼で見てしまったのだと思う。
彼女は、それを瞬間的に察したのだろう。人間でない分、彼女らはむしろ人間以上に、人間の心に敏感なのではないだろうか、と今の俺は考える。
「──先生、いま私のこと、ちょっと可哀想だな、とかおもったでしょう? それは違いますよ? 私みたいな存在は、世界でもありふれた存在で、むしろ内紛や戦地で動けずにいる人間たちの方が、いじめに追い詰められている人間たちの方が、ずっと、私よりつらいはずです。私たちみたいな元神様は、意外とたくさん世界にはいるものですよ。この国でも、古来、祭りごとの基本は産土神や氏神を従えることでした。土着信仰や地元の神を取り込む、または滅ぼすことで、大和は朝廷を完成しました。似たようなことはどこでもあって、例えば西洋の魔女という存在は、古代地中海世界の大地母神信仰と密接に結びついており、本来は恐怖の対象であると同時に、畏敬に満ちた存在だったみたいです。でもゲルマンやケルトの民間信仰と土着神に習合した魔女崇拝を、キリスト教の伝道師たちは不寛容に排除していきました。その過程で、魔女は女性に蔑視的な視線をむけていた布教者側から異端と決めつけられ、悪として断罪されていくことになってしまった。他にも『ニーベルンゲンの指環』で有名な、戦場で倒れた勇者たちを天上のヴァルハラ宮殿へ導く、天駆ける乙女たちワルキューレは、同じくキリスト教の伝播とともに箒の柄にまたがって空を翔ける、魔女のイメージに作り変えられてしまった。だからキリスト教徒に迫害された古代ゲルマン民族の族長らは、自分たちの土着信仰と祭儀を守るために「ワルプルギスの夜」を創出したのだ、とされていますね――呪われし神という言葉もあります」
だから、と彼女は続けた。
「どこもいっしょなんです。土着の神は、いつだってそのままの姿では生き残っていけないんです。だから、実際のところ、全然私なんか不幸じゃありません。まぁ、確かに私はラーからみたスフィンクスであり、エホバからみたメフィストフェレスではあるんですけれどね――」
俺は、うう、とかすかに唸ってしまう。
幸あれ、とかあなたの魂に安らぎあれ、とか言う言葉の意味を、俺はいま生まれて初めて噛みしめているのだった。どうか、彼女の行く末に幸福がありますようにと祈ってしまった。
「最後にひとつ、聞かせてくれないか」
と俺は静かに言った。
「お前のうちは――今のお前が住んでいるうちは、お前の、本当の家族なんだな? つまり、騙してすり替わっているわけでは、ないんだな?」
すると彼女は真面目な眼差しと表情になり、
「はい。それは誓って――」
と力強く、凛とした声で断言した。
俺は頷いて、後ろ手で引き戸に触れる。
小さくガタリと揺れて、横に滑らせると難なく開いた。
情けない話だが、かなり安堵した。
外の空気が流れ込んで、氷水を浴びているみたいに涼しかった。
「じゃ、じゃあ、俺は職員室に帰るから――ちゃんと帰るんだぞ? というか、外から鍵しめてもいいのか……」
俺は急に現実の世界に帰って来たみたいに、いろいろなことが気になり始めた。
暑すぎて朦朧としていただけかもしれないが。
白衣をコートみたいに羽織った鷸井は、俺を見送るようにして、すこしだけ離れたところから俺の顔を見上げていた。ふと俺は、彼女の方にすっと踏み出し、少女の頬に手を伸ばした――いったいどんな感触がするのだろう、と思ったのだった。
すると――めきょり、と少女の頬から一本の肢が跳ね上がった。
びくっと、俺の指も停まる。
「致死毒です、先生」
そう言った彼女の頬の、蟲の肢のめくれ上がった隙間からは、ざわざわと、顔の中に蠢くムカデの身体が覗いていた。
「え、あ……」
俺は、その姿にどうしても、再び恐怖してしまった。
「――もう、冗談ですよ? 先生」
肢を元に戻した彼女は、太陽みたいに笑って、俺に手を振った。
俺は、少しのあいだ固まっていたが、「そうだな」とか呟いて、そそくさと部屋の外に急いだ。俺はなんだか寂しいような、悲しいような気持ちで廊下に出た。
彼女には、触れることが出来ないのだ、ということが、ついどうしようもなく堪えていた。
そうして部屋から出て、引き戸を閉めていると、
「ねぇ、先生……?」
と、理科室の中から優し気な彼女の声が響いてきた。
戸についたの小窓から覗くと、カーテンの閉められた暗い――昏い理科室の中で、その暗闇の中で、彼女の赤い眼が――そう、"本物の"彼女の眼が――光っていた。
「私の正体を誰かに話したら、私、先生のこと、本当に殺しちゃうかもしれませんよ?」
と、本体を露わにした彼女は言った。
俺は震えてきた背筋に、力を込めながら、
「もちろん、誰にも言ったりしないよ――」
と強がって答えていた。
理科室――暗闇を抱き込んだ殻のある熱帯から立ち去りながら、これは、とんだ”虫”の知らせもあったものだと、俺は冷や汗を拭いながら溜息をついた。
色を尽して夜昼の。
色を尽して夜昼の。
境も知らぬ有様の。
時の移るをも。
覚えぬほどの心かな。
げにや心を転ぜずそのまゝに 思ひ沈む身の。
胸を苦しむる 心となるぞ悲しき。
――――能『土蜘蛛』より。