論より証拠
まいった。名前を聞くだけで、この疲労困憊。しかも成果があがっていない。彼の話が半分も理解できない自分の知識のなさが呪わしかった。私は意気消沈して軽く溜息をついた。
これは時間がかかりそうだ。……って、あ。
「ああっ!!」
私は叫んで立ちあがった。慌てて時計を見れば、始業時間十五分前を指している。
「会社!! 遅刻!!」
バッグを取ろうと体の向きを変えたら、姿見に自分の姿が映り込み、伸ばした手が止まる。
そういえば、美女問題が解決していなかったっ。
うわあああああああん、どうしたらいいのーっ!!
私はベッドの上で四つん這いの格好で固まった。どうしよう、という言葉以外浮かんでこない。そうして冷や汗をかくこと三分。八島さんに声を掛けられた。
「本日はお仕事をお休みになられますか?」
お休み。……そうですね。お休み以外にとれる行動が思いつきません。
「……はい。そうします」
私はのろのろとバッグの中に手を入れて、会社に連絡を入れるべく、携帯電話を取り出した。
お腹が痛いとか頭が痛いとか、ごほごほいいながら電話し終わると、ローテーブルの上に緑茶が用意されていた。
おおお。どうしてわかるのかなあ、八島さんは! そうなの、今は刺激の強いコーヒーや紅茶より、緑茶の気分だったの!
いそいそと座布団の上に正座して。いざ、
「いただきます」
右手で湯呑を持って、左手を底に添えて、ずずっと。
はあああー。
「おいしい」
この絶妙なエグみのない渋みと爽やかな香り、それに、なんといっても、ほのかに感じる甘味が絶品。たった一口飲んだだけで、八方塞がり感に竦んでいた心と体が、ふわりと寛いでいく。
私は、向かいに座っておかわりを用意している八島さんに、お礼を言わずにはいられなかった。
「いつもありがとうございます」
「いいえ。喜んでいただけたのなら幸いです」
そう言って微笑む。これで一緒に飲んだり食べたりしてくれるといいのだけれど、どんなに勧めても私の前で八島さんは何も口にしない。
これでも座ってくれるようになっただけましなのだ。そうでなければ、傍らで跪いているか、部屋の隅で立ちっぱなしなんだもの。広い洋風のお家ならいいかもしれないけれど、六畳一間の畳敷きアパートでは無理がある。
私は、ふふっと笑った。
部屋も家具も何もかもがチープなのに、八島さんだけ最高級だ。全然似合ってない。本当に、どうしてこの人、こんなところにいるのかしら。
『私が主にと望んだのは、千世様だけです』
急に頭の中に八島さんの声が蘇り、どきどきとして湯呑を落としそうになった。がたがたとテーブルの上に戻す。
そうだった。八島さんは私の執事でいたいって言ってくれたんだった。どこをどう気に入ってくれたのかわからないけれど、とにかくそういうことなのだ。彼をこんな似合わないところに居させているのは、ご主人様である私のせい。彼のご主人様であるからには、私がちゃんとしなきゃいけない。
けれど、いきなり失職の危機だ。すぐにこの美女っぷりはどうにかならないようだし、無事に出勤できたとしても、会社に居続けるのは難しいかもしれない。本当に、どうしよう……。
私はふるふると横に激しく首を振った。ダメダメ、落ち込んでるだけじゃ。せっかくのお茶が無駄になってしまう。
私は顔を上げて、しゃんと背中を伸ばして、大きく息を吸って吐くのを何度か繰り返した。
いつでも、苦しい時に自分の弱気に負けないために繰り返してきた仕草をなぞる。唇の両端を上げて、ダメなら指で押し上げて、笑顔をつくるのだ。でも今日は、無理しなくても簡単に笑えた。
だって、目の前に八島さんがいてくれるから。『おかえりなさいませ』って、八島さんが美味しいご飯を用意して待っていてくれるなら、どんな大変なことも頑張れる気がした。
一人きりじゃなくて、自分のためだけに頑張るんじゃなくて、誰かとのためでもあると思えるのは、こんな時だけど、なんだか幸せなことだなあって思った。
とりあえず、ささやかだけど貯金はあるし、今のところ八島さんのおかげで家賃と光熱費だけですんでいるし、しばらくはなんとかなる。そうだ、在宅のお仕事を探してみよう。資格がいるなら、毎日家にいるんだもの、勉強の時間はいっぱいあるもんね。うん、まずは、そこからやってみよう。
一人で大きく頷いた私を見て、八島さんはわずかに目を見開いた。急に脈絡もなく笑ったのが変だったかな。ちょっと恥ずかしくなって理由を説明しようと口を開きかけたら、いつもの穏やかな笑顔ではなく、考え込むようなまなざしで、『千世様』と呼ばれた。
「は、はい」
「差し出がましいかもしれませんが、よろしければ、私の故郷にいらっしゃいませんか」
「八島さんの、ですか?」
思ってもみない話に、戸惑って聞き返す。
「はい。あそこならば、千世様に群がるような不埒者はおりません」
「そんなところがあるんですか!? そこって、私にもできるようなお仕事ありますか? 事務ならできますし、あと、健康で持久力もあります!」
「千世様に働いていただくなど。我が支配地のものは皆、千世様のご恩を被っているのです。そのような必要はございません」
「ご恩って、私、何もしていませんよ」
「生気を共有してくださっているではありませんか。千世様は我が力の源。我が力あってこその世界の平穏と均衡です。千世様がいらっしゃらなければ、すべて成り立たないものです」
「……はあ。お役に立てているならいいんですけど」
なんか、話が壮大になっている。いつから世界平和のお手伝いってことになってんだろう? だいたい、生気を共有しているという実感がないんだけど……、あ、月に一度のあの時には実感しているかもしれない。八島さん、ぴたりと当てるんだもん。おかげで、会社のトイレで慌てたりすることはなくなった。
「いかがですか?」
「はい。こちらこそお願いします!」
大急ぎで、ぺこりとテーブルに額が付きそうなほど頭を下げた。だけど、すぐに顔を上げて、お願いをする。
「でも、ちゃんと、私にも何かお仕事させてください。働かざる者食うべからずですから」
「そうでございますか。そうまで仰るなら、まずはあちらに慣れていただいて、それからゆっくりと考えましょう。悠久の時の中にある所です。急ぐ必要はございませんよ」
八島さんは、ようやくくすりと笑って、微笑みを浮かべてくれた。それが嬉しくて、私もヘラリと笑う。
「そうですね。早く慣れるように頑張ります。それで、八島さんの故郷って、どこなんですか。遠いんですか?」
「近いですよ、とても」
「そうだったんですか。なんていう所ですか?」
「彼岸です」
「ヒガン、ですか? もうここには何年か住んでいるのに、そんな名前の町が近くにあるなんて知りませんでした。何を使って行くんですか? どのくらいで着くんですか?」
八島さんが立ち上がる。私の横に来ると跪いて、お姫様にするみたいに手を差し出してきた。どういうことだろう。私は首をかしげつつも、彼の手の上に掌をのせた。手を引かれて立たされる。
かと思ったら、胸元に体を引き寄せられた。すっぽりと彼の腕の中に囲い込まれて、抱きしめられる。
「や、八島さん?」
「千世様の生気をいただいて、です」
耳元で囁かれて、ぞわっとしたものがうなじから背筋を駆け抜けた。勝手に背中が震える。くすぐったい! 私は抗議の声をあげた。
「そこ、だめです、くすぐったいです、八島さんっ。そこでお話しないでください」
身をよじって、同じところに声を掛けられないように体の位置を変えようとあがいた。が、唐突に世界がぐらりと酷く揺れて、動きを止める。
視界が斜めに傾いでいく。体を立てようとするのに、まったく自由が利かなかった。おかしい。体の感覚はあるのに、腕も足も指一本動かない。もしかして、揺れているのは世界ではなく、私の体なの?
為す術もなく、彼に寄りかかって、ただただ抱き留められているしかなかった。どうしちゃったんだろうとは思うけれど、不思議と怖くはなかった。体の奥底で、何かがどんどん引っ張られて、全部がそっちへ流れて行っちゃう感じ。だから足りなくなって立っていられないんだと、ちゃんとわかっていた。それは初めての感覚ではなくて、むしろ良く知っている……、いつもは無意識のうちに感じていたものだと悟る。それが今、はっきりと知覚できただけなんだと。
ああ、今、私、八島さんと生気を共有しているんだ。
「千世様。我が主よ」
そんなふうに、いやに改まった口調で呼ぶ八島さんの声が体の奥まで届いて、体の中でわんわんと反響して響き渡った。