口は禍の門 舌は禍の根
身の置き所のない恥ずかしさに、悶々とすること暫し。
「ぬう。これからが面白いものを。……時間切れか」
女神様が低く呟く。何のことかとうかがい見れば、遠いどこかを睨むように宙を見据えておられた。
「まったく、手荒いことよの。これだから下郎は。……小娘」
視線を向けられ、はい! と姿勢を正した。なんとなく、ぴりっとしたものを感じたのだ。
「迎えじゃ」
えっ!?
私は腰を浮かせた。迎えに来る人なんて、一人しか心当たりがない。
「ちょっと待ってください、まだ、心の準備ができません……っ」
……女神様が仰るには、私はどうやら八島さんが好きらしくて、言われてよくよく考えてみれば、確かにすごく好きで、本当にどうしようかと思うくらい大好きで、……そんな人と、これまでどんな顔して向き合ってたんだろう、どうしよう、ぜんぜん思い出せない、恥ずかしくてとても彼の顔なんか見れない、ただでさえうっとり見惚れちゃうようなイケメンなのに、好きな人だなんて意識したら、挙動不審になっちゃうよーっ!!
ガァンッ、バキンッと背後で木製品が壊れる音がする。ドサドサッと重いものがいくつも転がる鈍い音も重なった。
私は振り返らずに、急いで女神様の背後にまわった。そこでしゃがんで、膝を抱えて小さくなる。
八島さんだ! 八島さんが来たー!!
「千世様、お迎えに参りました」
うわあっ。
耳をふさいで目もつぶった。声を聞いただけで、素敵ボイスに、うなじがぞくぞくっとする。どっどっどっどと、どんどん鼓動が速まっていく。
ダメダメダメダメ、これ以上は無理無理ー! 心臓が壊れる、血管が切れる、心が破裂するーっ!!
「千世様」
もう一度呼ばれて、今にも抱き寄せられるんじゃないかって身構えた。……なのに、触れてくるはずのぬくもりは三度呼吸しても訪れなくて、肌の上とも心の中ともつかない、どこかわからない場所が物寂しくなる。
手をはずして、どんなに耳をすませてみても、八島さんの気配は読み取れない。とても静かに動く人だからだってわかってる。だけど、続く沈黙に、彼がそこからいなくなってしまったんじゃないかって気がしてくる。
居てもたってもいられなくなってきて、顔を上げた。見えるのは、女神様の背中だけ。私は我慢できずに、横からそっと覗いてみた。
壊れた扉の前、白いお仕着せを着た人型のモノたちが折り重なった小山を左右に従え、八島さんは一人悠然と立っていた。
パチリと目が合う。ぎくりと体がすくんだ。
けれど、彼は反射的にといった感じに微笑んだ。綺麗に、鮮やかに、無作為な喜びが伝わってくる笑みで。ただ純粋に、私を目にできて嬉しいって。……たったそれだけのことなのに。
その瞬間、ぶわわーって胸の中心の熱が膨れあがった。真っ赤で、熱くて、心の中からつかみ出してしまえそうに、強く確かな何か。
はちきれそうになってしまった苦しい胸を、無意識に押さえる。
すると、彼も同じように自分の胸元に手をやり、不思議そうに小首を傾げた。そのまま、そこにあるものを確かめるかのように数瞬動きを止め、……それから、蕩けるように笑みを深めた。
「これほど心奪われる生気を、これまで感じたことがありません。何を考えておいでなのか、教えていただけませんか、千世様?」
つ、伝わってるーっ!?
私は、ふるふると左右に首を振った。言えない! 言えないっ!! これが何かなんて、詳細はーっ!!!
黙って見つめあう。どうしたらいいのかわからない。そのうち、彼が寂し気に顔を曇らせた。
「お声を聞かせていただけないほどに、私を嫌っておいでなのですね」
「違います!」
私は、とっさに叫んでいた。
「しかし、大嫌いと仰っていましたが」
「あ、あれは、売り言葉に買い言葉で、……酷いことを言ってごめんなさい」
「さようでしたか。では、お傍に寄っても?」
それには思わず躊躇った。嫌だからじゃない。とにかく、なんだか恥ずかしいのだ。ぐずぐずとしりごみし、それでもいつまでも八島さんにあんな顔をさせておきたくなくて、おずおずと頷く。
彼が近づいてくる。細身で引き締まった美しい姿と、優雅な歩みに、今さらながら見惚れる。彼は私の傍らまで来ると、すっと片膝を折って床についた。
大きな手が、掌を上を向けて目の前にさし出される。まるで、王子様か騎士様の求愛シーンみたいだ。そんなのじゃないのに、冷めかけていた顔がまた熱くなった。鼓動なんか、限界目一杯に突っ走っていってる。
さっきから、けっしてそらされることのない彼のまなざしに、私はとうとう捕まって、動けなくなってしまった。
「二度とあのようなことは申しません。お願いでございます、千世様、私と共にお屋敷にお戻りください」
ドキン、と嫌な感じに心臓が疼いた。
……そうだった。だから私は、この人の許から逃げ出してきたのだ。
胸の中で渦巻いていた浮かされたような熱が、ずくずくとした鈍い痛みに変わっていく。
……このまま流されちゃ、ダメだ。
私は彼の手を取らずに、用心深く聞き返した。
「……寝室の呪は変えてくれたんですか?」
「いいえ」
「それじゃあ、何も変わってないじゃないですか!」
「はい。申し訳ございません。試みてはみましたが、私にはどうしても、千世様が傷つく可能性のある呪を施すことができなかったのです」
その意外な理由に、怒ってなきゃいけないのに、勝手に胸の奥が喜びに震え、ギュッとなる。
「ですが、ご命令いただければ、いかようにも千世様の仰るとおりの呪を施すことはできます。どうぞお望みのままに、ご命令を。我が主よ」
けれど今度は、傷つけることはできないと言ったその口で、命令してくださいと淡々と乞われる。私は心が端からバリバリと凍りついていって、真っ黒な氷の塊になり、ボトリと足下に落ちてしまった、気がした。
……彼にとって、私は主でしかない。その事実を、つきつけられて。
どれほど大事にしてくれて、なんでも言うことをきいてくれて、雨あられのように口説き文句ばかり聞かせてくれるとしても。
『 』である彼にとって、それは生気を与えてくれる主を守り、願いを叶えるのが当然というだけで、それ以上でもそれ以下でもないことなのだろう。
だって、彼は人間ではなく、カイみたいな異界の生き物ですらなく、神の力の器として生じてきたモノなのだから。そこに知性はあっても、人と同じ感情は宿っていない。
どんなに、その瞳に絡めとられるような熱がゆらめいて見える気がしても。今も、私の身も心も欲しいのだと、抱きしめ、己の腕の中にとじこめてしまいたいのだと、乞うまなざしで見つめられているのに。
……これは、きっと、『 』の、主に対する、ううん、主の生気に対する、反応。本当に欲しいのは、私の生気。
いつだって、そうだった。私だけがドキドキして、彼の一挙手一投足に惑う。何でもないことを勘違いして、わかっているのに勘違いしまくって、まるで、すごく好かれているかのように錯覚して、……それでいつのまにか、恋してしまってた、なんて。
馬鹿だなあ。
自嘲が、溜息と一緒にこぼれ出た。
……これからも、惑わされ続けるのかな。……そうなんだろう。これまで彼といて、ただの一瞬だって、どきどきしなかったことなんかない。朝、目が覚めた瞬間から、眠りに落ちるその時まで。
どきどきさせられるたびに、思い知らされるのかな。私は彼にとって、ただ、主なだけ、なんだって。
……耐えられない、と思った。胸が痛む。痛くて痛くてしかたない。涙がこみあげてきて、私はたまらずに女神様の背中にとりすがった。
涙でうわずる声で答える。
「帰りたくありません。ここにいます」
「小娘、馬鹿なことを……っ」
女神様の珍しく焦ったような声がしたと思ったら、寄りかかっていた背中がなくなって、私は床に、べたんと突っ伏した。
突然のことに、何が起きたのかわからない。つかんでいたくしゃくしゃの女神様の上着の中に顔をうずめ、疑問符で頭の中がいっぱいになる。
「見境のない下郎め! 我が消えたらどうなるか、わからんのか!?」
「他にも日の神はいる。とりあえず、どれか連れて来ればなんとかなろう」
すぐ傍で交わされる、激しい口調のやり取りに、跳び起きた。女神様が少し離れた場所に立っておられ、八島さんが私の前にいる。彼の手には、……違う、彼の左手が、まるで刀のようになっていて、息を吞んだ。なんでこんなことになってるの!?
「狂ったか!! 小娘が帰らぬは、我のせいではないわ! ぬしから逃げるに、たまたま我がおっただけのこと。我がおらねば、小娘は他に頼るだけぞ」
「ならば、おまえを消し、他も消し、何もかも消し去ってしまえばよいだけのこと。……もともと、何かと千世様を分けあうなど、不本意だったのだ。千世様の声もまなざしも、一つたりとて、何ものにもくれてなどやりたくない。お姿を見せ、まして、お手を触れさせるなど、……もう、我慢ならぬ」
言葉を重ねるごとに彼の気配が変わっていく。穏やかさが消え、激しく険しい何かが剥き出しになっていく。
姿は変わらないのに、彼の体から迸る力を感じた。……ああ、そうか、と腑に落ちる。これが、本来の彼の姿なのだ。だって、そう、彼は元々、世界が神々の代理戦争を行わせるために生じさせた種族なのだから。戦い、奪い、支配するために生まれてきた存在。
「千世様の声を聞き、目に映り、触れるのは、私だけでいい。……否」
八島さんの声のはずなのに、最後の「否」という言葉を聞いた瞬間、私は震えあがった。
冷たく静かで、一切を拒否する、荒々しい響き。
絶対者として君臨する支配者、その傲慢さを見せつけ、彼が言い放った。
「我だけが、よい」
ゆらりと彼の姿がゆらぎ、ギラリと刃が反射した光に目をすがめた。よく見えなくなった鼻先で、ふわっと空気が動く。
ガインッ。金属音に鼓膜を射られて、目を瞠った。女神様を背後に庇った萌黄さんと、八島さんが斬り結びあっていた。
呆然と凝視する。
二人が力で押し合い、跳びすさる。またお互いの許に跳びこみ、刀が一閃される。ガン、ギンッ、ガッ、ガッ、ギインッと、目にも留まらない速さで、刃が交わされていく。
「小娘! そ奴を止めんか! 神域が崩壊するぞ!」
女神様に叱咤されるが、八島さん、と呼んだつもりが、声にならない。体ががくがくとして、うまく声が出てこなかった。
こわかった。八島さんの姿も、感情の浮かばない冷徹な表情も。耳をつんざく、刃がかち合う音も。空さえ斬り捨てそうな剣戟も。……なにより、彼の体をかすめる刃が。
彼の首の傍を刀が通りすぎ、恐怖に、ひゅっと音をたてて息を吸い込む。
「や、……め、て」
必死に吐きだした声は、囁きにしかならなかった。でも、それで体が声の出し方を思い出してくれた。やめて、と簡単に次の言葉が出てくる。
「やめて、やめてください、やめて、二人とも、なんでそんなことしてるんですかっ、やめてくださいっ」
私の声は、ぜんぜん二人に届いていないようだった。それどころか、蹴った床板が剥がれ飛び、踏み込んだ足元が陥没し、勢いあまってぶつかった壁が四散していく。
飛んできた木端を、カイが前に立ちはだかって遮ってくれた。見れば、お詩さんも女神様が庇ってくれている。
今のところ、私たちに配慮して避けてやりあってくれているようだけれど、いつ何がどうなるかわからない。それほどに彼らの戦いは激しかった。もう、目で追えない。音と刃の散らす火花と、壊れていく部屋が、彼らの居場所を伝えてくれるだけ。
どうしよう。どうしたら。
八島さんに命令して急停止したら、萌黄さんにやられちゃうだろうし、それは萌黄さんを止めたとしても同じだ。今度は萌黄さんが殺されてしまう。
私は、考えて、考えて、考えて、震える手で、首元からロケットペンダントを引きずりだした。八島さんに、いざまさかの時はこれがお守りしますから、肌身離さずお持ちください、と言われていたと思いだしたのだ。
本当に危ない時は、この蓋が敵を撃退してくれるって言っていた。気味の悪い顔状のものが貼りついた盾、アイギス。が、発動条件が私の身の危険なので、今は使えない。だいたい発動したら、見たものは息が絶え、石に化してしまうと言うんだから、これが発動する前にどうにかしないとならない。
私は迷った末に、覚悟した。
「グングニル!」
蓋が開いて、小さな槍が出てきた。狙った獲物を絶対にはずさない神器。威力は、魚獲りで実証済みだ。それを持ちやすい大きさまで引き伸ばし、私は肩に担ぎあげた。
失敗は許されない。強く強く念じる。グングニルが、何を仕留めるべきなのかを。血に飢えたこの槍に、迷わせてはいけない。
「グングニル、八島さんと萌黄さんの間の床を貫け!」
命じて適当に放り投げる。込めた以上の力で、びゅんっと飛び去っていく方向を目で追いながら、今度は乾坤圏を呼び出す。
グングニルが二人の間に突き立ち、床が砕け落ちた。跳び退った彼らの動きが、新たな脅威の確認に、一瞬止まる。
よし、見えた!
私は握った乾坤圏を、力の限り投げつけた。
「大きくなあれ、乾坤圏ー!!」
乾坤圏が、ずんずん大きくなっていく。豆粒ほどがCDくらいに、CDくらいがバレーボールほどに、バレーボールほどがバルーンより大きく……。ずんずんずんずん大きくなって、やがて床と天井に閊えて、それでも止まらず、バキバキとめりこみ、部屋の半分ほどを遮って、ようやく止まった。
こっち側にいるのは、八島さん。萌黄さんの姿は見えない。
私は、一応ペンダントヘッドを首の後ろに回してから、八島さん目指して走った。
「八島さーん!!」
彼が振り返る。
あちこちにあいた穴を避け、大きな木くずを跨いで走る。時々何かを踏んづけて足の裏が痛くなったけど、かまっていられなかった。
彼が右腕を開いて、抱き留める仕草をしてくれる。私は安堵して彼の胸元に飛びこみ、思いきり抱きついた。
「危ないことは、しないでください!」
私は絶対離れまいと、彼の背にまわした腕に、ぎゅうううううっと力を込めた。




