目から鱗が落ちる
「狼の背に乗れ」
草原を見まわし、萌黄さんが言った。カイの耳も立っている。風が渡るだけに見える草葉の陰に、なにかがいるらしい。私はおとなしく従った。
「振り切るぞ」
言うが早いか、飛ぶように駆けだす。それをすぐにカイが追いかけだした。いきなりぎゅんってあがったスピードに、危うく後ろに転げ落ちそうになる。あわてて首輪をつかみ、体を伏せた。
カイの背は揺れに揺れた。時々、周囲で獣の奇声や大きな物音が聞こえるものだから、何が起こっているのか尋ねたいし見たいのに、喋れば確実に舌を噛むし、顔を上げればバランスを崩す。とにかく、必死にしがみついているしかなかった。全力疾走の狼の背に乗るって、想像していたのと違って、あまり乗り心地のいいものじゃなかった……。
「着いたよ、千世さん」
手も足も強ばり、痛みを感じるようになってずいぶんたった頃。
唐突に止まったカイの背で、いつ再び走りだすのかと息を凝らしていたら、お詩さんに肩を叩かれた。私は恐る恐る顔を上げた。
にこにこと、あそこが女神様のお屋敷だと、指さして教えてくれる。お屋敷というか、青々とした緑に囲まれた立派な神社だった。
私はカイの背から、よろよろと地面に降りた。
「ありがとう、カイちゃん」
頭を撫でてねぎらう。ぺろりと手を舐め返してくれた。
萌黄さんとお詩さんにも向き直ってお礼を言う。
「案内、ありがとうございました」
「いいさあ、気にせんでええ。おらたちも女神様んところで世話になってんだ。帰るついでだあ」
お詩さんが、人懐こく笑った。……萌黄さんに抱きあげられながら。ちゃんと連れてきた俺に惚れなおしただろうと、頬ずりされている。ちょっと煩げに彼の顔を押しやったけれど、基本されるがままだ。逆らったって無駄だって、わかってるからなんだろうなと思う。あいかわらず、スキンシップの激しいカップルである。
そんなのを見ていたら、頭の中に、最後に見た八島さんの表情がちらつき、キリキリと胸が痛くなった。
……本当は、さっきから、ずっとそう。彼の姿が頭から離れない。酷い言葉をぶつけて、逃げ出してきたくせに。
しかも、彼が念入りに張ってくれていたという結界まで、勢いでぱあにしてきてしまった。
もっと穏便にすませられなかったの、私! せめて結界を壊さないですむ出入り口から出てくるとか!
だけど、その出入り口を知らないのに、どうやって? と、不機嫌に反論する声が、どこか頭の隅でしている。八島さんに聞けば教えてくれただろうけど、きっと捕まって、気持ちよく、心地よくされて、ぽやーんとなっちゃうに決まってるのに、と。それでいいように丸め込まれてしまうのまで、いつものことだ。
……そうなのだ。それだけは、駄目なのだ。あんなの、絶対受け入れられない。だから、戻らないし、謝らないもん。……解決策が見つかるまでは。
うう。八島さん、今頃どうしてるかなあ。結界張りなおしてるのかな。もしかして、今度こそ愛想つかされちゃってたりして……。
うっ。うわあああんっ、だったらどうしよう。
不安で悲しくなってきて、じわあっと涙が滲んできそうになる。
「あ。扉が開いた」
お詩さんが呟いた。つられて見れば、立派な格子戸が開け放たれて、ぱあっと光があふれだしてきた。それがどんどん強くなって、注視していられなくなる。
まぶしい。このキラキラには見覚えがある。
「小娘ども、遅い! なにしておる、はよう入らんか!」
不機嫌であってもなお目の覚めるようなお美しさであると、よく見えもしないのになぜかわかる女神様が姿を現し、こっちへ来いと、せわしなく手招いた。
「それで、なにをしたのじゃ?」
草で編んだ座布団(?)の上で片膝を立て座った女神様は、ずい、とこちらへ体を寄せてきた。
女神様ご自身の案内でだだっ広い板の間に通され、さあ座れ、遠慮はいらん、ああもう、まどろっこしい、挨拶もいらん、とにかくはよう座らんか、と急かされて、ようやく腰を落ち着けた途端だった。
お美しいし、まぶしいしで、近すぎて目がつぶれんばかりである。それに、尋ねていらっしゃることがわからない。もう、しどろもどろである。私は反射的に目をすがめて、顰め面になってしまうのを堪えられなかった。
「な、なにって……?」
「支配者の張ったでかい結界が見事に消えよった。神域に揺るぎの一つも与えずにな。閉じる時は、あれほど軋ませたにもかかわらず、だ。何をどうした。誰がやったのじゃ」
お詩さんと萌黄さんと、それに傍らに伏せたカイまで、いっせいに私の顔を見る。
「小娘か! やはりおぬしは面白いのう!」
女神様は膝を打って、呵々と笑った。
「私のせいじゃありません! あ、いえ、私がしたんですけど、」
「なんじゃ、いったいどっちじゃ」
「あの、ええと、その、八島さん、じゃなくて、八島、が、私が望めば、どの呪も簡単に解けるようにしてくれてあったので、開けって、出たいって言っただけで、ああなりました」
「なんじゃと?」
女神様は、急転直下不機嫌になった。
「これはしたり。小娘の仕業でなく、あれの腕だったか。見事などと褒めてしもうたわ」
ぬぬう、と唸っている。しかしすぐに、私の顔をじろじろと見て、ん? と眉を顰めた。
「涙の跡があるの。なんじゃ、あれに泣かされたのかえ?」
「泣かされたというか」
勝手に泣いて怒ったというか。……たぶん、彼は彼なりに、私に良かれと思ってやってくれているのは間違いないわけで、それが気に入らないからって、あの態度は、やっぱりなかった……。主としてもそうだけど、人としてどうなの。今さらながら、どよんと落ち込んでくる。人目がなかったら、頭を抱えこみたい。
「千世さん、反省せんで、ええんじゃぞ!」
お詩さんが蹴っ飛ばすように萌黄さんの膝から降りてきて、私の横に膝をつくと、手を取って握った。
「いっつもかいがいしくうるさいくらいに面倒見てくれるから、つい、申し訳ないって思ってしまうんじゃろ? だがなあっ、そんな必要はないんじゃ! こいつら、自分のしたいことをしたいようにしたいだけしているだけで、結局のところ、こっちの迷惑も顧みない、自分勝手なんじゃから!」
私は目を瞠って彼女を見た。思い当たる節が多々ある……て言うより、八島さんには申し訳ないけれど、むしろ、そのとおりって思ってしまったから。
私の目に浮かんだものを見て、お詩さんが深く頷く。それに、我が意を得たりって気持ちが強くなる。
私も彼女の手を握り返し、そうですよね、そうなんですよね! って、深く深く頷き返した。




