落花流水の情
「さて、我は帰ろうかのう」
のんびりとした声に、はっとした。
ああっ、いけない、お客様をぜんぜんもてなしてなかった! 床が陥没しているわ、床の間には刀が刺さっているわで、最早もてなすもなにもないけれど、せめてお話だけはうかがわないと!
「申し訳ありません、女神様、まだご用事を承っておりませんでした!」
「はて。用事とな?」
女神様は首を傾げた。心底不思議そうに。
「ご用事があって、わざわざ訪ねていらっしゃったのではないのですか?」
「ああ、そんなことか」
女神様は、呵々と笑った。
「気にするにはおよばん。嫌がらせにきただけぞ!」
「は?」
いい笑顔で、高らかに言い放ってくださったあまりの理由に、私はつい不作法に聞き返してしまった。
「ああ、小娘にではないぞ。神域の支配者の常日頃の無礼への返礼じゃ」
「はあ……」
いったい八島さん、いつも女神様とどんなやりとしをしているのだろう。八島さんも八島さんなら、女神様も女神様だから、……想像できそうだけど、したくない。絶対心臓に悪いことになる。
「小娘のことは気に入った故、また遊びに来ようぞ」
「はい、ぜひおいでください。……あの、私からうかがってもよろしいですか?」
「もちろんじゃ。我が恵みの下に生まし子は、すべて我が庇護に値する。来るがよいぞ」
「ありがとうございます」
お言葉に甘えて、近日中に必ずうかがおう。手土産持って、今日の来訪のお礼を言って、それで、畏れ多くも女神様にも相談相手になってもらえたらいいな……。
そうして、嵐のような女神様は帰っていかれた。
萌黄さんとお詩さんも。
がらんと一気に静かになるお屋敷内。
……で、未だ抱っこしている八島さんと、抱っこされている私。
急に、夢から覚めたかのような気分になる。
うわああああっ、平常時にこれは恥ずかしすぎる! 掌に触れているパリッとしたスーツの布地とか、その下の張りのある体の感触とか、私の短い腕の分しか顔が離れていないとか、さっきまで安心をもたらしていたものが、全部裏目に出てる、変な汗出てくるよーっ!!
「も、もう、大丈夫ですよね! おろしてください! ありがとうございました!」
言いながら室内を眺めまわして、危険は去った感をアピール。ついでに、腕も伸ばせるだけ伸ばして、指の先が肩に触れているだけにして、顔も遠ざける。数センチの差に何の意味があるって、気持ちの問題って大事だと思うの!
「こうしているのはお嫌ですか?」
「そ、そんなことないですよ!」
とても申し訳なさそうな声に、思わず口走りつつ彼を見てしまった。胸がドクン、ズキイッといつものごとくくる。あああ、私、何回この罠に引っ掛かっている!? そして、どこまでこの顔に弱いんだろう!?
「そうじゃなくて、私を抱っこしてるなんて、重いんじゃないかと思ったんです」
「そのようなことはございませんよ。千世様は羽のように軽くていらっしゃいます」
ふっと微笑んだのに見惚れるのまで様式美のごとくなってしまったこの言葉、私が気にしないように気遣ってくれてるのかとずっと思ってたけど、そうじゃなかったんだと、今さらながらに納得した。
涼しい顔で、萌黄さんの頭をテーブルに打ち付けて、そのまんま床下まで打ち抜いてしまったくらいだもんね。それにだいたい、『 』種は元々神の力の器で、世界を壊しかねない力も身に宿せるのだ。私一人ぐらい、本当に羽のようにしか感じていないのだろう。
「お嫌ではないのなら、どうぞお楽になさってください」
体を支えてくれている腕に背中を押されて、あれっと思う間に、傾いた体が彼に寄り添った。顔は彼の首元にくっつき、近くなって行き場のなくなった腕は、二重にその首にまわる。
額の生え際に優しい感触が降ってきて、軽いキスと、その跡に頬を寄せられた。それで八島さんは動かなくなった。……つまり、さっきよりしっかり私を抱きしめた状態で。
私は息をひそめて固まっていた。
なんなの、どうなってるの、この密着ぐあいはーっっ!!!
こ、これまでの抱っこと何かが違う!? こう、無防備感が半端ないというか。……あ、そうかっ。腕が上がっているせいで、ガードできるものがないせいだ!
おかげで、む、胸が。たいしてないんだけど一応ついている肉がっ。彼の胸に押しつけられて、すっかりつぶれてしまっているよー!
……胸でも彼の体の温かさと硬さを感じるよぅ……。
自覚したとたん、じわっと滲むように感覚が鋭敏になって、一瞬で全身の血がガーッと沸騰した。
わざとじゃないです、痴女じゃないです、なりゆきなんです~~~っ。心の中で絶叫していたら、クスリと八島さんの喉が音をたてるのを、触れている肌から直に聞いた。
「私のことを考えておいでですか?」
そうですよ!! この状態で、他のことなんか考えられるわけないじゃないですか!! これまでずっと男の人になんて触ったこともなければ触られたこともない、非モテ女子だったんですからーっ!!
と、心の中で、これまた力のかぎり怒鳴り散らしたんだけど、なぜか口から出てきたのは違う言葉だった。
「違います」
しかも無意識に、顔をぷーいと八島さんからそむけていた。
……だって、なんか、ムウッときたんだもん。
「さようでございますか。それは残念です」
さらりと、たいして残念でもなさそうに言った八島さんは、顔を寄せてきて、……耳を柔らかいもので挟まれたぁっ!
びくっと体が震えて、羞恥が十倍煽られる。
「な、なに、なっ」
「これではいかがですか?」
人の耳に唇をくっつけたまま、しゃべるんじゃありませーん!! 一音ごとに体が反応しちゃうじゃないですかーっ!!
八島さんったら、絶対わかってやってる、わざとやってる、確信してやってる! それでまだ確認とるって、この人、どこまで性悪なのーっ!!
「八島さんのことなんか、なんっにも考えてませんっ。おろしてください!」
苛立ちまじりに語気荒く言ったら、八島さんはゆっくりと屈んで、腰を支えていた腕をはずした。そうして下ろされた私の爪先が、床の上に着く。
あ、とヒヤリとしたものが心にさしこんだ。
私が、強く命じた、から?
それでも、背中を抱く腕は離れることなく巻きついていて、おかげで踵が着かないものだから、私は彼の首にぶら下がる両腕を解けない。
この背中にまわっている腕は、萌黄さんがお詩さんの名を呼ぶのをやめつつも、けっして歩みを止めようとしなかった、あれと同じなんだろうか。
「口惜しいです。これほどうねって押し寄せてくる生気が、私が触れているからではないとは。いったい何を考えておいでなのですか?」
深刻な痛みを宿した声で、嘘を真に受けているとしか思えない質問をされて、私は、おや? と困惑した。
や、八島さんたら、私のことを、欠片も疑わないんだろうか? あんな、売り言葉に買い言葉で、いかにも嘘だってわかる言葉だったのに。
ぎゅっと背中から締めつけてくる腕が熱い。そのせいで、さっきよりももっと密着度が増して、胸から腿まで全部ぴったり触れている。重なった彼の体のすべてが熱かった。
……ここにいるって、今、触れているのは自分だって、もっと感じて、自分のことで頭の中までいっぱいにしてほしいって。
彼の熱さが、雄弁に語っている気がした。
きゅうっと、胸の奥が引き絞られる。
……時々、こんなふうに、こちらが切なくなるくらいに求めてくる。それはどうしてなんだろうって、ずっと思っていた。
私は元々美人でもなければ、頭がいいわけでもない。性格だってどっちかっていうとずぼらだし、取り柄といえば、おおらか(物は言いよう)なのと、健康なこと。平凡を絵に描いたような私に、こんなに優秀な執事さんが仕えてくれるなんて、どう考えてもおかしい。
だけど、今日、お詩さんや萌黄さんに出会って、わかった気がした。
それは、私が彼に名前を付けてしまったからなんだろうって。
ちょっと聞き間違えて、八島さん、って呼んだ。……それだけ、のはずだったのに。
「八島さんは、どんな主を探していたんですか?」
たしか、彼岸と此岸を巡り歩いて、ずいぶん探し歩いたって聞いたことがある。
「千世様です」
私は苦笑した。今の八島さんはそう答えるにきまっている。私の質問の仕方がいけなかった。もう一回聞きなおす。
「私に会う前です。どんな主がいいと思って、探しに出たんですか?」
「強いモノが良いと思っておりました。戦闘に向いた体を持ったモノが良いと」
やっぱり、と思う。『 』は神域の支配権を争奪するために生まれてきた種族だもの。お詩さんを奪われて、萌黄さんが反撃できなくなってしまったように、一番の弱点になる主は、強い方がいい。
「ですが、あさはかな考えでした。肉体など、やろうと思えばいくらでも強化できるのですし、」
「私が天仙の位階になったみたいに?」
説明の途中だったけど、私は口を挿んだ。どうしても聞かずにはおれなかった。
「はい」
「もっとこれから変えていくの?」
悲しい気持ちで尋ねた。八島さんの足を引っ張るくらいなら、その方がいいと思うのに。……私みたいな者なんか、本当は望んでいなかったのだと言われているみたいで。
「いいえ」
きっぱりと言われた思いがけない否定に、息が止まった。引かれたみたいに、つ、と顔を上げると、八島さんが優しく目を細めて見下ろしていた。
「老いと病を退けるため、最低限の処置としていたしましたが、大きな肉体の変化は精神にも変容をきたしてしまいます。千世様は、千世様のままでおいでくださればいい。そのようなことをせずとも、私がお守りすればよいのですから」
急に、胸の中に熱いものが膨らんで、喉元をせりあがってきた。喘ぐみたいな息をしたとたん、目頭も熱くなって、ボロボロボロって涙がこぼれ落ちた。
ぼやける八島さんの顔が近付いてきて、目尻に唇を寄せられる。
私は堪らなくなって、もっと爪先立って、できるかぎり伸びあがり、彼の首に回した腕に力をこめて、ぎゅうっと抱きついた。
……萌黄さんは、お詩さんが望むのなら、滅ぶのさえ、それでいい、と言った。
八島さんは、何度も誓ってくれた。『千世様の望むままに』と。『永遠にお仕えします』と。
そういうこと、なのだ。
疑いようがない。変えようがない。共に生きるか、諸共に滅ぶか、私たちにあるのは、その二つだけ。
はあ、と八島さんが吐いたかすれた息が、頬に熱く触れる。
「今、何を考えておいでですか?」
私は鼻をすすりあげながら、素直に答えた。本当は、初めからたった一つしかなかった答えを。
「八島さんのことです」
「千世様」
八島さんが譫言みたいに囁いた。そうして、抱く手をゆるめて私の頭を支えると、涙の跡をたどってキスを落としていく。
いくつも、いくつも。右の頬にも、左の頬にも、鼻の頭にも、優しく触れては涙を吸い上げて、しまいには唇の上にもチュッとやって、彼は吐息で無邪気に笑った。
「ああ、ここが一番さざめくのですね。……もっと触れてもいいですか?」
私は黙って仰向いて瞳を閉じ、ついばむだけのキスを受け入れた。




