可不可は一条
「やれやれ。まったくもって見ておれぬ。これだから男は」
女神様がぶつぶつ呟きながら、手を振った。領巾がしゅるしゅると伸びていき、萌黄さんに巻きつく。彼の口に。それで彼は、わめくこともキスすることもできなくなってしまった。おお、女神様やるなあ! それから目のまわりをふよふよ漂いだす。
「そこな小娘、早う来い」
女神様は優雅に手招きした。お詩さんは、もがもがと領巾を引き剥がそうとしている彼の膝から降りて、タタタタタッと女神様の背後に駆けこんできた。
数拍おいて、彼がゆらりと立ち上がる。肌に食い込むのもかまわずに、力まかせに領巾を引き千切った。領巾の下から現れた顔は無表情で、まだ巻きつこうとする領巾を見もしないで、左手だけで的確に掴み取っている。その、感情が抜け落ちた緑の瞳は、お詩さんだけをひたすらに追っていて、右手がすうっと彼女へとさしのべられた。
「詩」
うわあっ。ぞぞっときたあっ! 静かな声なのに、聞いただけで、そこにつまった重い何かに鳥肌が立っちゃったよ!
「帰らん! おらは帰らんからな! おらは、おらはもう、ヘルのとこに行くんだぁ!」
お詩さんは女神様の背中にしがみついて、顔を見せることすらしないで叫び返した。
「おまえを、ヘルのところへは行かせない」
さっきのよりもっと重い、地を這い絡みつくような声に、うひーっとなる。
萌黄さんは、だらんと立っているように見えるのに、今にも爆発しそうな力でいっぱいって感じだ。……怖い。何するかわからない感がとてつもなく怖すぎる。
そんな感じなのに、お詩さんは彼を見ていないせいか、それともいつものことで慣れているのか、さらに煽るようなことを言う。
「じゃあ、伊邪那美大神様のところへ行くからいい!」
「他の何であっても同じだ。おまえを、別の何かの許へなど、行かせるものか」
言いながら、彼は一歩踏みだした。一歩。また一歩。ゆっくりとお詩さんへと近づいていく。
ということは、ひいては女神様の傍にいる私たちにも近づいてくるということで、私は八島さんに身を寄せた。怖いよー!!
ふわんと浮遊感がして、慌てて近づいてきた八島さんの首にしがみつく。うっかり彼の瞳をのぞきこんでしまって、ドキリとした。いつもより近い。どうしてかと思ったら、首に腕をまわしているからだと気がついた。……もしかして、抱き上げられて彼の首に腕をまわしたのは、はじめてかもしれない。これまでは、抱き上げられた時点で安定安心の居心地の良さでそうするまでもなかったし、なにより、遠慮して縮こまってもいたから。
こうすると、当然ながら自分から顔を寄せている状態になる。ものすごく恥ずかしい。……でも、目を離せない。ぼけーっと意識を奪うほどの整った顔が、瞬きの音さえ聞こえそうな距離にあるのだ。見惚れずにおれるだろうか。いや、ない、と、反語表現を握り拳で使いたくなる。これは不可抗力だよね、と自分で自分に言い訳しつつ、見惚れ続ける。少し憂いを帯びた様子の彼を。
「退室なさいますか?」
どうやら心配させてしまったようだ。私は横に首を振った。そうしたいけれど、お屋敷の主であり、お詩さんの主でもある私が、この場の責任者だ。何ができるかわからないし、結局八島さんに頼ることになるとしても、見届けないわけにはいかない。
問題の彼らに意識を戻すと、憑りつかれたように、萌黄さんは彼女だけを見つめて呼びかけていた。
「詩、詩、詩、詩……」
彼の頭の中には、彼女のことしかないのだろう。純粋で真実混じりっ気のない呼び声は、正しく彼女を表し、だからこそ、無視できない強制力をもって、彼女にはたらきかけているのがわかった。
女神様の背後で縮こまっていた彼女が、たまりかねたように身じろぎした。大きく鋭く息を吸いこみ、悲鳴のように叫ぶ。
「呼ぶな!!」
ぴたりと彼が口を噤んだ。
あ、と私は驚いた。あれほど求めて呼んでいたのに、主のたった一言で、それができなくなってしまった。それだけでなく、命令されていない歩みさえ、若干ぎこちなく遅くなっている。
初めて目の当たりにした、主と『 』の関係。お詩さんの本気の意思に、彼は逆らえなかったのだ。これほど強制力のあるものとは、思ってもみなかった。
お詩さんは、女神様の背中に貼りついたままで言葉を続けた。
「もう、おらのことは捨てろ! おらはこの瞬間に塵になったってかまわん。ずいぶん生きた。生きすぎた。おまえは新しい主を探しに行け。もっと、神域を手に入れるのに向いた主を見つけるんだ。……おらを守るのに、おまえはずっと精一杯だったじゃないか。それで今度は、何を失った? 左目だけでなく、とうとう神域まで失ってしまったんじゃないか? ……なあ、いいかげん、こんな役立たずの主なんか見切れ。おまえの望みを叶えるのに足る者のところへ行け!」
聞こえているだろうに反応を示さず、無言のままのろのろと進んでいた萌黄さんは、ようやく床の間の前まで来ると立ち止まった。正面に立つ女神様と目を合わせる。両者とも黙ったままだ。二、三秒見つめあって、彼からふいっと顔をそらした。そのまま女神様をよけて床の間へのぼり、背後へとまわる。女神様は見て見ぬふりのようだ。彼は、お詩さんのすぐ傍に立った。
「お前の願ったとおり、俺の望みを叶えに来たぞ。俺の望みは、おまえと在ることだ。おまえが俺の望みを叶えるに足るモノだ」
「おらじゃない誰かを探せと言っとるんだ! おらとじゃ、おまえはそう遠くない先に滅びてしまうじゃろうが!」
「おまえが望めば、俺は滅びる。だが、おまえが望めば、俺は滅びない。俺はどちらでもいい。おまえが望む姿が、俺の在るべき姿だ」
「わけのわからんことを言うな! おまえはおまえだろう!」
お詩さんは必死に女神様にしがみついて顔を背中に伏せている。女神様のお召し物は、つかまれたあたりがしわくちゃで、彼女が力いっぱい叫ぶたびに、前へ後ろへ右へ左へと、女神様の上半身も、ぐらぐらと揺れるありさまだ。
女神様が溜息をこぼした。
「『 』どもは、どうも言葉が足りんでいかん。……のう、背中に貼りついている小娘、そこな『 』は真実を言うておるぞ。こやつらは、主の望む姿に姿を変える。小娘は、これに人間のようであれと望んだのじゃろう? ずいぶん人間臭くなっておるの。力を損なったのは、小娘の想像の範囲でしか、力を振るえぬようになってしもうたからじゃ」
「だ、だから、おらでは、」
「しかし、だからこそここまで保ったのじゃ。人間のように食物から力を取り入れ、主の生気が切れている間も、力を補充できたおかげでな。でなければ、とっくに消滅していたであろうぞ。たとえ、そこな霊果を食らうておったとてな」
沈黙が落ちた。お詩さんは動かない。固まってしまったみたいに、女神様に貼りついている。
萌黄さんは金髪をさらりと揺らして屈んだ。お詩さんの顔を覗きこむようにして、言う。
「なあ。おまえの名を呼びたい」
お詩さんの袖をつまみ、つん、と引っ張る。
「なあ。おまえの名が呼べないのは口寂しい。俺は、おまえの名を呼びたい。なあ、呼んでいいか? なあ、……なあ」
つん。
もう一回引かれて、お詩さんの腕が、だらりと落ちた。それほど強く引っ張ったようには見えなかったにもかかわらず。
とたんに萌黄さんはニッと笑うと、彼女の腕を引き、女神様からひっぺがし、両手を彼女の両脇の下へ、ずぼっと入れた。それで、上へひょいっと抱え上げる。
「詩!」
子供を高い高いするみたいにして、真下から彼女の顔を覗きこんだ。
「詩! 顔が酷いことになってるな! そんなに泣くな!」
どす。
とっさに、という感じで、お詩さんが右足を後ろに引き、萌黄さんの腹に蹴りこんだ。
……わかる。わかるよ! 彼のためを思っていろいろ悩んで泣いているのに、それはない!
「ははは、いい蹴りだ!」
萌黄さんは痛がるどころか、輝く笑顔で大喜びした。お詩さんの右足が、躊躇いなく再び後ろに引かれる。けれど。
「詩が元気で、よかった!」
前に振りだされた足は、ぽすっと当たっただけで、さっきみたいな威力はなかった。お詩さんは代わりに手を振り上げて、バタバタと彼の腕を叩きだした。
「下ろせ、下ろせ、下ろせぇ!! この馬鹿力があっ!」
「わかった、わかった」
すぽん、て感じで彼の胸元に下ろされ、お詩さんは流れるように羽交い絞めにされた。足先なんて、床に着いてすらいない。……あれは下ろすって言わないのでは、と思うが、ツッコむのはやめた。ツッコんだところで、徒労に終わるだけだろう。
そのまま、萌黄さんはこちらに向き直った。
……? 視線があっているぞ? 八島さんに用かと思ったら、違うのかもしれない。どう見ても私を見ているように思える。
私は八島さんの首に回している腕に力を込めて、ぎゅぎゅーっと彼に抱きついた。
も、文句があるなら、八島さんが受けて立つんだからね!
見つめ合う。ぐっと眉間に力を込めて。見つめ合って、見つめ合って……、唐突に背中を支えてくれていた腕が動いて、目の前をふさがれた。寄り目になっちゃうようなところで、八島さんのそろえられた指が並んでいる。長くて、すらりとして、八島さんたら、指の形まで完璧だ。
「おまえたちに用はない。どこへなりと行くがいい」
八島さんの言ったことに、私はあわてた。
「え!? ちょ、ちょっと待ってください! お願いが!」
一所懸命伸びあがって、八島さんの指の上から目を出そうとしながら引きとめる。
「詩への命令なら、俺が受ける。詩はただの人間だ、たいしたことはできないからな。俺でかまわないだろう?」
「いえ、命令じゃなくて、できたらでいいのでお願いがあるんです! お詩さんじゃなきゃダメなんです!」
お詩さんじゃなきゃ、と言ったところで、上へ下へ右へ左へと動いても見えなかった前が、急に開けた。萌黄さんの腕の中で、目をぱちくりとしている彼女に、あの、と語りかける。
「できたら、お友達になっていただけませんか! ああああの、あの、こちらに知り合いがいなくて、色々お聞きしたいんです! あと、できれば相談とか、その、えっと、その、その、」
『 』との付き合い方とか、とは言えなくて、口ごもる。
喧嘩のやり取りを聞いていたかぎりでは、なんとなく二人は恋人同士なのかな、と感じたわけで、それって、いつ、どんなふうに始まって、それで今はどうで、って事細かに聞きたい……。
なんてことは八島さんの前で言えるわけもなく、焦って、あうあうと口だけぱくぱくする。
お詩さんは、くすっと笑うと、こくりと一つ頷いてくれた。
「おらでいいなら、喜んで」
「ありがとうございます!!」
わああああっ、嬉しい、よかった、よかったよおおおおっ。愛を教えるとかハードル高すぎるし、八島さんはどんどん激甘になって心臓過労死しそうだしで、もう、一人でどうしようかと思ってたーーっ!!!
「あの、ご連絡はどうすれば」
「あー、んー」
お詩さんは、考えるように視線を彷徨わせて首を傾げた。
「……たぶん、呼んでくれれば、わかると思う」
今度は、私が目をぱちくりする番だった。それに、彼女が苦笑する。
「んー。なんていうのか、不思議だなあ、あんたの言葉は、胸に響くんだあ。耳じゃなくて、ここで聞いてる感じ」
お詩さんは、自分の胸に手をやった。
「あ……」
それは、私が彼女に名付けたから? 支配してしまったから?
さあっと、浮き立っていた気持ちが冷えていく。
「どうしたんだあ?」
「いえ、あの、……あの、……ごめんなさい」
私は申し訳ない気持ちでいっぱいになって、うつむいた。
「なにを謝ってるんだ?」
不思議そうに聞かれるけれど、答えられない。
「千世様」
八島さんに優しく呼ばれて、条件反射で、そろりと目を上げた。そこにあるのは、ひたすらに優しい微笑み。
「謝られることなどなにもないのですよ。主からの言葉は、どんなものであろうと、それだけで至福をもたらすものなのですから」
……そうだった。一番初めに私が名付けたのは、この人だった、のだ。
いつも大仰だと、くすぐったく思うだけだった言葉の意味を、今、本当に知った気がした。
私はその重さに、言葉を失った。




