油断大敵
「いつ、ですか? いつそんなことしてたんですか? 危ないことはしないって言ったのに」
お客様の前だとか、私に彼のしたいことをさせない権利なんかないだとか、頭の隅ではわかってるのに、だんだん詰問口調になるのを止められなかった。
「一つは、まだ千世様が此岸におられた頃に。他の四つは、ピクニックにお連れする数日前に。お約束どおり、何も危ないことはしておりません」
八島さんは後ろめたい様子もなく、さらっと説明してくれた。それに、カッと怒りがわきあがる。
「だって、神域の奪い合いは、激しい争いになるじゃないですか! 危なくないなんて、そんなわけないでしょう!?」
八島さんの自由を奪いたいわけじゃない。従わせて支配したいわけでもない。八島さんは八島さんの好きなことをすればいい。いくら執事だからって、私の言うことばかり聞く、お人形みたいな何かになってほしいわけじゃない。
そう思ってる。そう思ってるのに。
気付けば、私は声を荒げて言い返していた。激昂しているせいで、目元にうっすらと涙が滲んでくる。
八島さんはそんな私に、なぜかほわりと微笑みかけた。とても嬉しげに、細めた目尻や、弧を描いた唇の端から、妖しいくらいの色気をだだ漏れにしはじめる。
うっ、ときたけど、眉間に力を入れて頑張った。誑かされたりしない! そんな場合じゃないのだ! ちゃんとお話しないと!
睨みつける勢いで、気合を入れてしっかり見つめ返す。
しかし、鉄壁天然で空気を読まない八島さんは、笑みを深くして、すっと顔を近づけてきた。反射的に目をつぶったら、右の目尻を、ちゅうと吸われた。触れる優しい感触に、焦りや、焦りからくる怒りが、なだめられてしまうのを感じる。
ダメダメダメ! 私は怒ってるんです、言いたいことがあるんです、わかってほしいことがあるんですーっ!!
「本当に、ご心配にはおよびませんのに」
その言葉とともに、左の目尻にも口づけられ、これ以上は流されてなるものか! とクワッと目を開けると、真っ黒い綺麗な瞳にのぞき込まれていた。
「千世様のお傍にいられなくなるようなことは、けっしていたしません」
「……でも、わかんないじゃないですか。八島さんが強いのは知ってますけど、絶対いつも勝てるなんて保障ないじゃないですか。『 』同士の争いは、どちらかが完全に消滅するまでやるんでしょう? もし、……もし、八島さんが」
負けちゃったら。
私は最後まで言えなかった。そんな不吉なことは、言葉にして口に出せなかった。
私たちの生まれた国には、言霊というものがあるんだと、小さい頃におばあちゃんに教わった。吐きだされた言葉に力が宿り、本当になってしまうことがある、と。それがたとえ、本心から望んだことでなくても。
だから、悪いことを口にしてはいけないよ。口にしていいのは良い言葉だけ。お兄ちゃんに意地悪されて、お兄ちゃんなんか死んじゃえと叫んだ私に、おばあちゃんはそう言った。
特に、ここは彼岸だ。神様の住まう地だ。言霊を意識せずにはおれなかった。
消滅って、どんななのだろう。知りたいけれど、聞くために声に出すのも怖い。字義の通り、滅して消えるのなら、体すら残らないのかもしれない。
八島さんの姿の消えてしまった光景を想像したら、じわじわと涙が盛り上がってきそうになって、私は口をへの字にして、うつむいた。
「ふふ」
そんな私の頭の上に、溜息に似た響きが降ってきた。これまで聞いた覚えのない八島さんの声。溜息にしてはとても楽しげな、……まさか、笑い声だろうか?
声につられるようにして八島さんを見上げたら、はたして予想に違わず、輝かんばかりの笑顔で見下ろしていた。
視線が合うと、はあ、と吐息を漏らし、私の体を引き寄せる。私は為されるがまま、コトリと彼の鎖骨に額をくっつけざるをえなかった。彼の笑顔が眩しすぎて、目が合った一瞬だけで、頭がくらっくらになってしまっていたのだ。
「本当に千世様はお可愛らしい。私のために泣いてくださる涙の、なんと美味なことか」
うっとりとこぼされる脳髄からしびれがくるような声に、びしゃーっと打たれて、一発で陶然となった。そうして、彼の体温に包まれ、何もかもが遠くなっていく。
「……ああ。今のあなたを齧ったら、どれほどの美味を味わえるのでしょうね……」
ほにゃほにゃとしたいい気分で、八島さんが何か言ってるな、と思った。すっかり鈍くなった頭でゆっくりと意味を咀嚼する。周回遅れでようやく理解が及んだ瞬間、がちん、と体がこわばった。
ややや八島さん、また、食欲に駆られているの!? いったい、急に、どうしてなのーっ!?
内心泡を食っているうちに、彼の手がゆるゆると背中を滑り、のぼってきた。うなじをつかまれる。少し右に体を傾けられ、首筋が無防備になった。そこに彼が顔をうずめてくる。けれど、緊張にかたまった私は逃げることもできず、逆に指に触れる彼の上着を、ぎゅっと握りしめてしまっただけだった。
首の肌に柔らかいものと共に硬いものが押し付けられ、びくっと勝手に体が震えた。ひうっと息を吸い込み、必死に訴える。
「や、齧らないで……」
「ああ、こんなにも私を誘っておきながら、酷いお方だ」
嘆きとも戯言とも聞こえる一音ごとに、彼の唇が肌の上で動き、たまらず、くすぐったさに身をよじった。その反応に、ふふ、と満足げな笑い声と一緒に息を吹きかけられ、体が戦慄いて、ざわめきが手足の指先まで急速に広がっていった。
疼きに耐えかねて、喘ぐ。
「や、あ、んん……」
時折歯が当たり、ぐぐ、と肌に食い込んでくるのがわかった。唇で食み、舌で味見し、確かめるように甘噛みしては、肌の上を彷徨っていく。
次々に与えられる疼きから逃げたくて、私はもがいた。けれど、体をとらえる腕から一ミリたりと動けない。むしろ、逃れようとすればするほど、押し付けられる彼の体の硬さと熱さを感じて。
……その強引さに、八島さんに、もっと、と言われているような気がした。
もっともっともっと貴女を知りたい、もっともっともっと感じたい、……もっともっともっと、味わいたい……。
肌を通して、体の奥底、そこにある心とか魂とか、そこまで触れようと必死になっているのが、伝わってくる。
彼の持ちうるものすべてで、全身全霊で、求められているのがわかる。
そうしたら。それが、わかってしまったら。なんだか、あらがう気持ちがどこかへいってしまった。
ああ、しかたのない人だなあ、と心の底から思った。いや、人じゃないんだけど。そんなふうに、自分で冷静に突っ込みながら、なぜか、可愛いくてたまらない人だなあ、という気持ちがわきあがる。
私はそろそろと手を動かして、彼の背中に移動させた。掌をぺったりくっつけ、私のできるかぎりで腕いっぱいに抱きしめて、伝われ、と思う。
ここにいるよ。逃げたりしないよ。傍にいるよ。大好きだよ。私もあなたが大切だよ。とてもとても大切だよ。
「八島さん……」
呼びかけに、彼は私の喉の中心の少し横で、小さな溜息を吐いた。千世様、そう呟いたのかもしれない。強く、ぐぐぐ、と歯が押し付けられ、言葉にならずに肌に刻み込まれる。
本能的な震えが背筋を駆けのぼり、恐怖とも歓喜ともつかないものが心を切りつけるように奔り抜けた。
なすすべもなく、ただただ八島さんの体にしがみついた、その時。
「心を強く保たんか、小娘!!」
「やめろ!! 食ったらその女は死ぬんだぞ!!」
女神様と男の人の切羽詰まった怒鳴り声が響き渡り。
あ。あれ?
あれえええええっ!? お客様のこと、忘れてたーーーっ!!?
思わず声のした方へ目を向けてしまって、視界に入った二人(?)の姿に、ぼむ、と顔が真っ赤になる。
もしかして、一部始終見られてた!?
ややや、や、やだやだ、恥ずかしーーーーっっ!!!!
私はとにかく隠れたくて、八島さんの胸元に顔を伏せて、体を縮めた。




