豌豆は日陰でもはじける
「八島さーん。……八島さん?」
いつもなら一回で事足りるのに、数回呼んでも現れない。あれ、おかしいな、と私は首を傾げた。
作業の途中だろうと、千世様より優先することなどございません、と来てくれるから、かえって申し訳なくて、あんまり呼ばないようにしているくらいなのに。
なにかよっぽど手の離せないことでもしているのだろうか。それとも、ちょっと所用で外出でもしているのかな。それだったらいいけれど、返事ができないほど困ったことになっているんだったらどうしよう。
私は気になって、ダイニングルームに行くことにした。まずは朝食の片付けからやっているんじゃないかと思ったのだ。手早な八島さんのことだから、もう次の場所に移動してしまっているかもしれないけれど、少なくとも、いつも私が過ごす表のお部屋ではなく、裏方のお部屋のどれかにいる可能性が高い。
襖に手をかけ、ついっと数センチ開く。その時。
どーん!!
屋敷中に響き渡る大きな音がして、空気が震えた。まるで、花火を真下で見ているかのような轟音。
「きゃっ」
思わず手を引っ込めて、身をすくめる。
「な、なに?」
そう呟いた瞬間、また、どーんっ、と振動した。どうしたらいいのかわからなくて、おろおろと立ちつくす。そうしているうちにも、音は断続的に何度も鳴り、そのたびに、ぐわんぐわんと空間ごとたわんでいるのを肌から感じて、怖くなってくる。
まだ、神様が建ててくれたというお屋敷は柱も床も小ゆるぎもしていない。でも、音の正体が不明なだけに、どんどん不安が大きくなってきた。
「や、やだ。八島さん、どこ?」
恐ろしさに涙ぐんで、八島さんを呼ぶ。大きな声で呼びたいのに、喉がきゅっとしまってうまく声が出せない。半ばべそべそ泣きながら彼を探して足を進め、居間の横の小部屋に入りこんだ。
ふと考えついて、裏手のお部屋を探しに行く前に、もう一つ隣の朱塗りの部屋も確かめていこうと、そちらの引き戸を開けてみる。すると。
「たのもー!!」
突然大きな男の人の声が聞こえて、びっくりした。一歩後退る。恐怖で体がすくんで、それ以上動けない。息を止めたまま、見開いた目で、開かれた戸の向こうを凝視してみるが、……誰もいない。
少しほっとして、力が抜けた。ところが、そんな状態で再びどーんっと音に襲われたもんだから、驚きのあまり反射的に飛び跳ねてしまった。……人間って、驚くと本当に飛び跳ねるもんなんだね。しかも、ぎゃっ、とか可愛くない悲鳴がでた。そんな場合じゃないのに、ちょっと恥ずかしくなる。
「たのもーっ!!!」
うわん、と朱塗りの小部屋の中で声が反響した。
……理屈はわからないけれど、どこか別の場所の声が、ここに運ばれているような、気がする。
そう思いついたら、思い出したのは、もう一つの真っ黒い漆塗りのお部屋だった。一度しか通ってないけれど、たしか玄関の次に黒光りする部屋があったはず。
ということは、あそこに誰かいるのかもしれない。それで、たのもう、てことは、……訪ねてきているということだよね、時代劇でしかお目にかかったことのない古い言いまわしだけど。
あ、そうか!
私は、ぽん、と手を打って、なんだ、そうだったんだと納得した。
彼岸の生き物はどれも規格外だから、きっと訪問方法も大仰になってしまうのだ!
だったら、八島さんは、今、手を離せないみたいだし、ここは私が応対しないと!
「たのもーーっっ!!!!」
どぉぉぉーんっっっ。
怒声と一緒にすっごい音がして、私は反射的に耳をふさぎ、叫び返した。
「どちらさまですかーーーっ」
私はインターホンに声を吹き込むがごとく、朱塗りの小部屋に向かって言ってみた。
急に、しん、とお屋敷中が静まりかえる。
あれ。お客様はどうしちゃったのかな?
朱塗りの部屋に首を突っこもうとしたら、ふわりと背後から抱きしめられて、私は真上を見上げた。
「千世様」
「八島さん!」
微笑んだ彼が見えて、次いで、ちゅ、と額の生え際に口づけが落とされる。
「な、な、なに」
いきなりなんでしょうか、照れくさいじゃないですかーーっ。
にこりと返され、へらりと笑い返した。……照れくさいけれど、すごく安心した。だから、背中をまかせて、彼に体重をあずけた。密着度が増し、安定感も増す。
「何故お返事をなさったのですか?」
八島さんは優しい笑顔のまま尋ねてきた。なのに、どことなく声に不穏さがまぎれこんでいる感じがして、高揚していた気分が、しゅんと縮む。
「お返事?」
「何とも知れぬモノからの呼びかけにです」
う。やっぱり責められている気がする。いけないことをしてしまったのだろうか。そういえば、このあいだ玉手箱を勝手に開けて、八島さんを危ない目にあわせたばかりだ。
私は言い訳めいたものを、小さな声で答えた。
「……八島さんが手を離せないようだったから」
「あのようなモノに、千世様御自答えてやる必要はございません。そのお声は、私にだけ聞かせてくださればよいのです」
……うん? へマをしたんじゃなくて、まさか、単に嫉妬されているだけだとか?
上を見て考えているのに首が疲れて、顎を引いた。そうしたら、体に巻きつく腕が、きゅうと締まった。それがまるで答えのようで。
「千世様?」
お話はまだ終わっていませんよとばかりに、耳元で囁かれる。びくう、と背筋が勝手に震えて、腰にまで痺れがきた。
むう。これはあれだ! 耳を噛まれたり舐められたり、いい声で囁かれて腰砕けになっているうちに、つい、ハイとかウンとか返事をしてしまうパターンだ!
それに気づいた私は、すばやく体をよじって、八島さんに向きあった。
……日常的な何でもないことなら八島さんの望みどおりにしてもいい。けれど、他の人に声を聞かせてはダメなんて、きけるわけがない。だいたいそれでは、こっちでお仕事をしたり、美女っぷりをごまかす術を探すことができなくなる。
あ! それに、カイちゃんともお話できなくなるってことだ! それは絶対、受け入れられない。
「そういうことはお約束できないですよ。実はそれにも関係するお話があって、八島さんを探していたんです」
「はい。呼んでおられるのは、聞こえておりました。すぐに参ることができず、申し訳ございませんでした」
「いいんです。八島さんがいつも忙しいってのは、わかっています。私ばかりを優先してくれなくてもいいんですよ」
「そのようなことを仰らないでくださいませ。千世様のお傍にあることが、私の最大の喜びなのです。どうかそれを拒まないでくださいませ」
憂い顔で懇願されて、ぐうっときた。なんか論点がおかしい気がするんだけど、この顔で言われると、何にも反論できなくなる。だって、切ない感情が引っぱり出されて、わかったからそんな顔しないでと、慰めたくなるのだ。
見つめあう。痛みを宿した瞳に誘われて、手をあげる。自分でもどうしようとしているのかわからないままに伸ばして、彼の頬に人差し指と中指の先で触れた。
彼がふっと嬉しそうに笑って、私の指に頬をあずけてくる。指の腹全体に彼の頬が触れ、温かい疼きが腕をはしりぬけた。びくりとして、反射的に手を離してしまう。あ、と思う。名残惜しさに、もう一度触れようかどうか逡巡する。でも、改めて触れるのは、やっぱり恥ずかしくて……。
「いいかげん、そこまでにせよ。我は待ちくたびれた」
唐突に、玲瓏とした女性の声が聞こえて、私は息を吞んで振り返った。
いつのまにか、朱塗りの部屋の扉が開け放たれていた。そうすれば見えるのは、御太鼓型の渡り廊下で。真正面のその向こう、大きな方のお屋敷の端の廊下で、仁王立ちしている古めかしい姿の美しい女性と、……その左足に踏みつけられている金髪の男性と。
唖然と見ている先で、その男性が、渾身の力を出しているかのように、ぐぐぐ、と震えながら上半身を起こした。
「頼む! この実を我が主に食べさせてやってくれ!」
先程、たのもーっ、と言っていたのと同じ声で叫ぶと、彼はオレンジ色の実をさし出して、力尽きたように、べしゃりとつぶれた。




