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異世界執事  作者: 伊簑木サイ
第六章 もう一回、転

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30/50

無理も通れば道理になる

「千世様、ジャムがお顔に付いていらっしゃいますよ」


 きらきらとした朝の光が天窓から射しこむ爽やかな朝のダイニング。

 今朝のごはんは、ふわふわのスクランブルドエッグと噛めばぱりっと音のするウィンナーソーセージ、それに幾種類もの野菜をふんだんに使ったフレッシュサラダが添えられていて、お皿の上がビタミンカラーで、とっても可愛いらしかった。

 米粉を使ったもちもちの食パンとプレザーブタイプの苺のジャムも絶品だったし、よく炒めて煮込まれた玉ねぎのコンソメスープは、まさに臓腑にしみいる美味しさ。

 今はその締めとなる、フルーツのヨーグルトあえを食べているところだったんだけど。

 私は八島さんの指摘に、スプーンを持った手で、思わず口のまわりをさぐろうとした。そうしたら、当然と言おうか、握ったせいで縦になったスプーンから、付いていたヨーグルトがボトリと手の甲へ落ちてきた。


「あ」


 しまった。二次被害が。

 とっさのことに迷って、動きを止める。手のヨーグルトをまず綺麗にすべきなのか、顔のどこかに付いているジャムを優先すべきなのか、それともこれ以上粗相をしないためにスプーンを置くべきなのか。


「失礼いたします」


 そんな私の手から、八島さんがスプーンを抜き取っていった。すみやかに器の中に戻される。空になった彼の手が戻ってきて、私の手を取った。流れるような仕草で持ち上げられて、彼の口元に持っていかれる。そうして、躊躇なく彼の舌が手の甲を這い、ヨーグルトが舐め取られた。

 ぬるりなんて嫌な感じはしない。ただただ熱く感じるものが、肌の上に濡れた感触を残していくだけ。何度されてもむずむずとして慣れないその感覚を、私は息をつめてやり過ごした。


 すっかり手を綺麗にした八島さんは、今度は私の口元に視線を移してきた。

 う。明らかにロックオンされたぞ。かがめる体を支えるためにテーブルの上に手をつき、顔を寄せてくる彼を直視していられなくて、目をつぶる。

 だって、キスされるみたいなんだもの! そうでないとわかっていても、パーソナルスペースがゼロになる瞬間というのは、恥ずかしさが爆発する。それが自分のほっぺたと、異性(人じゃないけど!)の舌先となれば、よけいに。

 緊張MAXのわずかな間の後、唇の左端のところに熱いものが触れ、ぺろりとされた。今日はそれだけでどうやら取れたようだ。離れていく気配に目を開ければ、満ち足りた猫のような微笑みが見られた。


 うん。八島さんが喜んでくれてよかった。

 ……たとえ、私の羞恥心がガリガリ削られ、実は内心瀕死の状態であろうと。

 自分で言いだした手前、努めて何でもないふりしてるけど、うわああんっ、ほだされてあんなこと言うんじゃなかったなぁぁぁっ。

 ときどき、って私ちゃんと! ちゃんと言った! はずなのに! どういうわけか、なし崩しに二度も三度も同じでしょうみたいな状況になっちゃってるんだよぉぉぉっ。

 だけど、拒むと悲しげな顔するんだもん。イケメンの憂い顔は、それだけで心臓握りつぶすんだよ。拒んでも拒まなくても、どっち選んでも結局悶絶するんだったら、彼を悲しませない方が、まだマシじゃん、という心境に到達してしまった今日この頃なんですー!


「千世様、ヨーグルトをもう少しいかがですか?」


 現実逃避ぎみに遠いどこかへ心を飛ばしかけていたのに、いっきに現実に引き戻された。ヨーグルトと何かのフルーツをスプーンにのせて、あーんする気でスタンバっている八島さんに、心臓がでんぐり返る。

 ……なんだか最近、八島さんがますます過保護になってしまった気がする。

 ただでさえ甘いのに、これでは身がもたない。なにしろ八島さんは、中身も外見も超一流だからね! ついでに声も一級品だから! へたすると耳元で囁かれるだけで腰ぬけるんだよ! そんな執事に、四六時中甘やかされたら、ある意味天国が見えてくるよ! そのうち、心筋が疲労断絶起こすんじゃないかって、本気で思う。そしたら、心臓バラバラだよ! はじけとんじゃうよ!


「千世様?」


 だから、お願いだから、そんなに甘い声で呼ばないで……。

 最早、はいと声を出すこともできずに、こくりと頷き、ごくりと唾を飲み込む。おそるおそる必死の思いで口を開け、ヨーグルトののったスプーンを口にしてみたのだけれど。

 大きく開けきれずに震えた唇に当たって、またもやヨーグルトが口周辺にべったりと付き。

 『ふりだしにもどる』。

 極上の笑顔で微笑みかけてくる八島さんを見上げながら、私はすごろくでそんなマスに止まってしまった時の、ああああああ、という焦燥と諦念がマーブル模様になった気分に襲われた。




 朝からいろいろと濃い朝食をとった私は、食休みに、よろよろと居間に向かい、最高級革張りソファに座った。どっぷり体を沈める。

 ……結局、今日は上下の唇を舐められてしまった。

 思い出して、恥ずかしさに、ううううう、と顔を両手で覆う。

 だけど私は、あれをキスとはカウントしない! あれがキスだって言うなら、私のファーストキスは、ゼロ歳でお座りができるようになった時だ! 記憶にはないけど、実家に、飼い犬に顔じゅう舐められて泣いている証拠写真がある!


 キスって言うのは、愛する男女がするもので、間違っても、異世界産執事の言う基準のわからない「お可愛らしい顔」を見ると齧りたくなる代わりに、せめて舐めさせてほしいとかいうのとは、断じて違うと思うのだ!

 ……だというのに、今日はとうとう、唇で唇を食まれちゃったよ。上唇をゆっくり舐められた後、下唇をはさまれた感触が、すっごく柔らかくてびっくりしたんだ。背筋がぞくぞくっとして……。って、ちがう、ちがう、ちがーう!

 私は一人で赤くなりながら、目についた携帯端末を手に取った。

 ぼんやりしているから、執事の過剰なスキンシップのことばかり思い出してしまうのだ。こんな時は、メールのチェックでもしよう。このところすっかり忘れてさぼっていたし、ちょうどいい。


「あれ?」


 待ち受け画面に表示された日時を見て、私は声をもらした。

 もう七月の終わり!? いつの間に!?


「うわぁ~~~~~」


 愕然とする。

 いけない。また日にちが飛んでいる。

 彼岸に来てからというもの、会社はないし、家事も八島さんに任せきりで、することと言えば、カイの相手か、その後の昼寝か、読書か、読書からの寝落ちか、長風呂か、その後の八島さんの手による時間をかけた髪や肌のお手入れと全身マッサージか、素敵に美味しいお食事か、という感じで、すっかりお気楽生活になってしまっている。つまり、毎日がお休み状態。

 それで気付くと、いつのまにか何日も流れ去っていたりするのだ。そんなにすごした気が、ぜんぜんしないのに!

 突然気になり、こちらで過ごした日々を、指折り数えてみた。

 確か、年度末の駆け込み特需の修正が終わり、年度初めの発注ラッシュも一区切りついた四月の終わりくらいだったから、……ひー、ふー、みー……みっ!?

 目をむいた。彼岸に来て、もう三か月も過ぎようとしているの!?


「あ、ありえない……」


 不吉な数字に、私は呻いた。これでは、リアル浦島太郎だ。彼は、竜宮城で面白可笑しい日々を過ごしていたら、あっというまに三年が過ぎていたという。私もこのままでは、知らないうちに三年どころか、三十年も三百年もたってしまっているということになりかねない。

『千世様の喜びが我が喜びなのです』

 そんな言葉を口にする八島さんの微笑みが、ぽんと頭の中に浮かんで、ぶるぶると横に首を振った。

 おそらく浦島さんも乙姫様に、同じような台詞を何度も囁かれていたに違いない。人外の美貌で、にっこりと。その妄想は、ほとんど確信に近かった。

 嘘偽りのない純粋な好意と気遣い。しかしそれを口にしているモノは、年月のスパンがまるっきり違う異界の住人なのだ。なにしろ標準が永遠。口車に乗っていたら、とんでもないことになる。浦島さんのように、家族にも友達にも二度と会えないうちに死別コースまっしぐらだ。


 それに、我が家では盆と暮には実家に家族で集まるのが恒例なのだ。今回のお盆は仕事が忙しくて、とかなんとか一度くらいはごまかせるとしても、それが二度、三度となれば、どんなブラック企業に勤めているんだと心配されるにきまってる。そのうち、家族の誰かが様子を見に来るだろう。

 そうしたら、アパートは引き払われているし、会社も辞めているしで、メールや電話は時々あるけど、果たしてそれが本当に本人からなのか疑わしい、ぐらいのことは考えるだろう、いくら呑気なうちの家族でも。となれば、警察沙汰になってもおかしくない。


 彼岸に来た当初は、早くこちらに慣れて、お仕事見つけて、その傍らで、この美女っぷりをごまかす術を探し、なるべく早く人間界に復帰、なんて意気込んでいたのに、すっかり楽ちん甘々生活に流されて、浦島さん二世になりかけている。

 いけない、いけない。ちゃんと初心を取り戻さなきゃ。このままではただの、ものぐさ太郎になってしまう。……ものぐさな美女。美しくない。というか、みっともない。

 それは八島さんの主として、いかがなものか。

 思いがけないくらい、胸の真ん中に、ぐ、ときた。それは駄目だ、と思う。できないのは仕方ないとしても、できる努力すらしないのは、絶対駄目。


「八島さーん」


 私は携帯端末を置き、彼の仕事の邪魔をしちゃいけないとか、よく考えてからなんていう、後回しも言い訳もやめて、すぐに行動に移すために、彼を呼んだ。

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