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異世界執事  作者: 伊簑木サイ
第一章 起
3/50

暖簾に腕押し

「高遠さん、これの清書、お願いできませんか?」


 うちの会社は、大きな建物から個人の住宅、上下水道まで請け負う、設計会社だ。私はそこで、設計事務を担当している。見積書の作成とか、企画書の製本とか、積算書の入力とか、設計図の折りたたみとか、簡単に言うと、建築士の方々を補助する雑用係だ。


 私は入力の手を止めて、営業さんへ顔を向けた。差し出された手書きの書類を受け取る。見積書だ。書式はあるから、金額と工事名と宛名と日付を変えれば済むだけの話だ。できたら忙しいから、自分でやってもらいたいけど、出掛ける用意しているから、時間がないんだろう。

 入社三年目で好成績挙げている人だもんね。手間隙惜しまず、お客さんと設計士さんの間を取り持って、だから彼の取ってきた仕事は仕様変更が少なくて、事務からも好評だ。たった一つの仕様変更で、数百枚単位の書類の差し替えとか、悪夢だからね。


「あ、はい、えーと、期限はいつまでですか?」

「月曜入札で直行するから、退社時まででいいんですけど」


 うん、今日は金曜だもんね。今日中にやらないと、月曜には持っていけないね。


「わかりました。やっておきます」

「忙しいのにすみません。帰ってきたら、お礼させてください。じゃ、お願いします! 行ってきます!」


 え、そんなの、いいですよ、仕事なんだから、という私の返事は、彼の元気な挨拶にかき消され、颯爽と出掛けていってしまった。

 隣の席の加藤さんが、椅子をがらがらがらと滑らせて、私の真横に、ぴたりとやってきた。


「高遠さん彼氏いるのに、北村君もチャレンジャーだなあ」

「いえ、彼氏いませんから」

「またまたー。この頃、がさがさだった唇が、ぷるぷるですよ」


 だから、それがどうして彼氏の存在に繋がるのかがわかりません。


「それは、食生活が改善されたからです」


 前は、コンビニ弁当とレトルト食品と冷凍食品のヘビロテだったけれど、今は、うちの執事の手作り料理だからね!

 口に入れたもので体が作られるんだから、食事は命の源、おろそかにしていけないものなのだ。一人だけの体じゃないしね! 美味しい食事と、清潔な環境、それに充分な睡眠。この頃の私は完璧だよ。そりゃあ、唇だって、ぷるぷるにもなるさ。


「ふーん。じゃー、年下君だけど、北村君、いいかもよ。入社三年目で、あの売り上げだし。でも、ちょっと年上だけど、前田さんも捨て難いか」


 朝一で、今やっている仕事を置いていった一級建築士さんの名前も上がる。


「何言ってんですか。仕事請け負っただけじゃないですか」

「三浦さんはやめておきなさいよ。この前、前カノから会社に電話掛かってきて、すっごいこじれてるみたいだからー」


 加藤さんはさらに寄ってきて、二番目に仕事持ってきた若手建築士さんのことを、こそこそっと私の耳に囁いた。私は困惑して加藤さんを見返した。加藤さんは、にこーっと笑った。


「毎日のデザートのお礼」


 そして、がらがらがらと自分の席に戻っていく。

 お礼? どのへんが? 単なる誤解だと思うんだけど。だけど、まあ、三浦さんには引っかかるなと忠告してくれた気持ちは受け取っておこうかな。


 それもこれも、八島さんの持たせてくれるデザートのおかげだし。二度とお弁当本体が毟られないようにと、女子の幸せの象徴スイーツを、事務員総勢六名分用意してくれているのだ。

 これが評判良くて、なんか、前より皆の結束が強まったみたい。やっぱり、同じ釜の飯食べると、連帯感わくんだね。


 さてさて、お昼までもう少し。この仕事を終わらせて、八島さんのお弁当食べるぞー!!

 私はやる気満々でパソコンに向き合った。




 午後一番に、午前に終わらせた仕事を、建築士さんのところへ持っていった。


「えっ。もうできたの?」


 前田さんは驚いたように受け取り、次いで、垂れ目をさらに垂れさせて笑顔になった。目尻の横に笑い皺ができる人の良さが滲み出たこれ、結構好きだ。


「高遠さんの仕事は速くて間違いがないから、いつも助かるよ。ありがとうね」

「いえ、当然ですから」


 大きな仕事で数字を間違うと、千万単位で損失が出たりする。そうでなくても、きっちり揃えて間違えないのは、基本中の基本だ。


「あ、そうだ」


 前田さんが、足元のバックを持ち上げて、ごそごそと探し始めた。


「知り合いからもらったんだけど、こういうの好き?」


 出てきたのは、恋愛映画の試写のチケット。私、あんまり興味ないんだよねえ、恋愛映画。あ、でも、


「これ、加藤さんと岡山さんが、この前見たいって言ってました」

「そう。そうなんだ。じゃあ、二人にあげて」

「ありがとうございます。喜ぶと思います」

「うん。喜んでもらえるなら良かった」


 私はチケットを二枚とも受け取って、事務の島に戻った。両隣の加藤さんと岡山さんに、はい、と渡す。


「前田さんが二人にくれるって。知り合いからもらったんだって」


 どれどれ、と向かい合わせの席の三人も、ちょっとその場で立ち上がって、二人の机の上のチケットを見る。


「ああー。行きたいって、この前、騒いでたよね、それ」

「よかったねー、行っといでー」


 特に執着することもなく、皆元通り席につく。このメンバーで恋愛映画が好きなのは、この二人だけだもんね。うんうん。


「んじゃ、私、製図折りに行ってきます」


 皆に声を掛ける。


「いってらっしゃーい」


 五人が揃って答えてくれた。




 設計図っていうのは、大きな紙にコピーされるから、A4とかB5サイズまで折りたたまれなければならない。その大きさは、納入する積算書の大きさに揃えられる。最後に付録みたいにして付けて、一冊の本にするから。ちなみに、A判かB判かに決めるのは、施工主の好みだ。最近はほとんどAだけどね。

 一番大きいA0は、一辺が一メートル強と一メートル弱あるから、折るにはけっこう大きな作業台がいる。そこで、設計士さんたちの島の向こうにプリント室があり、広い作業台も用意されていた。


 電気をつけて、折りたたみ用の拍子木みたいな棒を持つ。全部の角が丸くつぶれているのは、年季が入っているせい。でも、この適度な丸みが使いやすいのだ。

 台の上に、A2の設計図が積まれて置いてある。飛ばされないように置いておいた文鎮をどけ、下の自分のメモを確認する。A判用、と。


 私は黙々と折りはじめた。角を揃えて、直角に。折り目は潰しきるのが鉄則だ。そうでないと、畳んだ時にふわふわに持ち上がって、えらいことになる。

 頭を使わない慣れた肉体労働は気楽な作業だ。頭の中からっぽで、しゃーっ、しゃーっと折っていくのは、楽しいといえば楽しい。あんまり多いと、屈みっぱなしで腰も腕も痛くなってくるんだけどね。

 一心不乱にやっているところへ、高遠さん、と急に声を掛けられて、びくっと顔を上げた。ああ、びっくりした。


「は、はい。なんでしょう?」


 三浦さんが様子を見にやってきていた。あ、それとも、


「もしかして、規格変更ですか!?」


 もう七割がた折っちゃったよ!


「違う、違う、ちょっと手があいたから、手伝おうかと思って」

「あ、そうですか。ありがとうございます。でも、もう少しですから、大丈夫ですよ」

「気分転換になるから。半分貸して」


 紙の端が掴まれて、半分の量がふわっと浮き上がり、三浦さんの手元に落ちていく。そこまでしたいと言うのなら、私にとやかく言う権利も義務もない。私は黙って自分の作業に戻った。


「ねえ、高遠さん、彼氏できたの?」


 突然なんの脈絡もなく聞かれた。どうしてそんなことを聞くんだろう。個人情報なんですけど。だけど、無碍に扱って建築士さんとの関係が悪くなるのも、仕事上、困る。……まあ、同期入社だ。冗談めかして、いないと答えるくらい、いいか。


「どうせ、い、ま、せ、ん、よ。敏感なお年頃ですから、聞かないでください」

「気悪くしないで。この頃、綺麗になったなあと思ったから。それに料理も上手になったって、女の人たちも言ってたし」


 それはすべて、八島さんのおかげです。私の努力ではありません。


「そっか。いないのかー。でも、自分を磨くって、あ、じゃあ、好きな人でもできた?」


 私は手を止めて三浦さんに視線を向けた。明らかに不愉快です、という顔で。


「そういうの、答えたくありません」

「うん、ごめん。潔くなかった。……高遠さんが気になってしかたないです。仕事も手に付かないくらいに。試しでいいんで、付き合ってもらえませんか」


 は?

 私は固まった。仕事場で、仕事中に、何言ってんの、この人。

 しかし、目が本気だ! 何、その真剣な目! 怖い!

 冷や水を浴びせられたみたいに、一瞬で心が冷えた。駄目だ。この人が嫌いなわけじゃないけど、ぜんぜんちっともまったくその気になれない。

 今すぐきっぱり断らねば! と、私はべこりと頭を下げた。


「すみません。好きな人がいます」


 大嘘を吐いた。いや、だって、そうでも言わないと、諦めてくれそうになかったから。


「そっか。そうだよね。こう言っちゃなんだけど、高遠さんって、あんまり自分にかまわない人だったでしょ。それが、急にこんなに変わったって、よっぽどその人のこと好きなんだろうなと思ってたんだけど。一応、言っておきたくて。……はい、こっちの分、できた」


 三浦さんは、棒を設計書の上に置いた。


「ごめんね、変なこと言って。……頑張って。今の高遠さん、すごく魅力的だよ」


 なに、その捨て台詞! さっきの告白より、どきりときたよ!! 恥っずかしいーっ!!!

 三浦さんが部屋から出て行くと、私はどっと疲れて、設計図の上に両手をついて、ぜーはーと息をついた。




 私は早く帰りたかった。うちに帰って、八島さんの控え目な素敵笑顔に癒されたかった。

 それで、おいしいご飯を食べながら、今日あったことを愚痴りたかった。

 そしたら、それはお疲れでございましたねと、いつもより丹念に頭を洗ってくれるに違いない。あの頭皮マッサージ、すごく気持ちいいんだよねー。

 今日は製図折りもしたから、ベッドの上で、足も揉んでもらおう。あの痛気持ちよさ、たまらないんだー。

 ふふふ、と笑いがこみあげてくる。いっぺんに気持ちが浮上した。ああ、帰るのが楽しみ。執事がいるっていいなあ!

 その後も私は、ばりばりと仕事を続け、残業無しで仕事を仕上げた。ほほほ。私、有能!


 さあ帰るぞーっ、と帰り仕度をしているところへ、営業の北村さんが帰ってきた。まっすぐに私のところへとやってくる。走ってきたのか、はあはあと息をしていて、言葉にならないようだ。私は、わかってますと頷いた。


「見積書は机の上に置いてあります。変更が出たときのために、データも置いてあります」

「ありがとうございます。あの、お礼を」

「お礼なんて、お仕事なんですから、いらないですよ」

「いや、でも、これから飲みに行きませんか。……その、いつもお世話になっている事務の皆さんと、親交を深めたいんです」

「ああ。そうですね。とてもいいことだと思うんですけど、すみません、今日、私、どうしてもはずせない用事があるので、皆さんと行ってらしてください」


 私は、まだ帰る用意をしている皆に振り返った。


「ごめんなさい、用事あるので、私、帰りますね! お疲れ様でした!」


 それから、少し遠くにいる建築士の方々にも、お先に失礼しまーすと声を掛ける。

 おうちでご飯と八島さんが待っているというのに、寄り道なんてしてられない。ああ、今日の夕飯何かなーっ?

 スキップしたいのを我慢して、私は足早に会社をあとにした。

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