尾を振る犬は叩かれず
半ば抱えられるようにして居間に戻り、おやつを用意してまいりますね、と部屋を出ていく八島さんを見送った。
どうやら彼の食欲は去ったらしい。
ようやく本当に危機が過ぎ去ったのを実感して、背もたれにだらしなくよりかかった。はぁぁぁぁぁぁと大きなため息が出る。
……まろやかで、あまやかって評したよ、あの人。いや、人外。
と思い出したら、一緒に肌の上の感触もよみがえって、私は脱力状態からはね起きた。舐められて齧られたあたりに手をやり、体の中の渦巻く感覚に、今度は大きく屈んで、膝の間に頭を落とす。
にゃあーーっ、まだ体の中が、ざわざわするよおおおおおっ。どくどくというのか、もやもやというのか、ぞわぞわというのか。なんなの、これえええっ。じっとしていられないーっ!!
私は立ち上がると、縁側に出て、靴置きにあるデッキシューズをつっかけた。庭先で中学の部活でやっていた準備運動をはじめる。
いちに、さんし、ごーろく、しちはちと、まずはアキレス腱を伸ばして、膝の屈伸運動をして、腿の内側を伸ばし、腰を前後に屈めた。肩をまわして、脇を伸ばし、首をまわして、大きく体を左右にひねる。何年たっても、体で覚えたものは、あんがい忘れないものだと我ながら感心する。
そんなことをしていたら、カイがたったったったとやってきて、傍に座った。何してんのかなーて感じで、不思議そうに見ている。犬は準備運動なんかしないもんね。
うん。よしよし、体がほぐれてきたぞ。今ならいい感じに遊んであげられそうだ。
私は胸元からロケットペンダントを取り出して、パチンと蓋を開けた。
「如意棒」
呼ぶと中から小さな棒が飛び出してきて、つかんだとたん、ぐーんと大きくなる。でも二十センチくらい。それに、ちょっと伸びろー、と命令すると、二メートル半くらいになった。
「カイちゃん、勝負!」
カイと少し距離をとり、如意棒をかまえて向き合った。そして、棒先をゆらゆら揺らす。上に下に、右に左に、急に飛び跳ねさせたり、くるくるまわす動作も混ぜながら、数センチずつ近づいて。
それを目で追っていたカイは、間合いに入った瞬間、びょんっと飛び上がった。ぱくんと咥えようとして空振りし、かぽん、と顎が間抜けな音をたてる。
そこからはいっきに集中して、棒を追っかけはじめた。私が先にばててしまわないように、私のまわりをカイが円をえがいてめぐるように棒を大きく動かし、翻弄する。
やがてこっちの息がきれだした頃、たたっと助走をつけたカイが、まるっきり重力を無視したジャンプをした。
すごい。空を飛んでるみたい。目を丸くして眺めていたら、地面近くにあった棒の上に降り立たれてしまった。
重みに耐えきれず、棒を取り落とす。カランと転がった棒に、カイが我が物顔で噛みついた。ウウウウと呻って、首を振りはじめる。
「あーあ、負けちゃった」
私は苦笑して、しばらく好きに如意棒で遊ばせた。
飽きてきたのを見計らって、棒のすみっこに触れて、小さくなあれー、と唱えた。急速に縮まった如意棒は、カイの口から抜け出て、掌に納まる。それをペンダントにしまった。ペンダントに近づければ自動的にしゅるしゅると小さくはなるんだけど、しまう前に小さくしておかないと、今度出した時に、いきなりしまう前の大きさになってしまうのだ。
カイは、はっはっはっと舌を出して息をして、久しぶりに見る無邪気なまなざしで満足そうにしている。傍にしゃがんで、カイの頭をなでた。その手をベロリと舐められる。私は笑い声をあげた。
「くすぐったいよ!」
ベロン、ベロン、ベロン、ベロンと、肉厚で長い涎まみれの舌で、指の間まで舐めあげられる。
「おいしいの?」
冗談で聞くと、カイが最後に小さくぺろりと指に舌をはわせて、私を見た。鼻先を何度か突き上げるようにして、あうあうと口を開閉する。
どうしてしまったのかと戸惑って見ていたら、うお、と喉の奥から呻き声を出した。続けて、変な鳴き方をする。
「う、うお、う、ういしー」
あれ、と思う。目はとても理知的で、気のせいでなければ、何かを訴えかけるような色をしている。それは、人の形になった時のカイを思い出させて。
そうだ。カイちゃんは姿は狼だけど、中身は思春期の少年だった。あの時だって、拙いけれど言葉をしゃべっていたのだ。
「う、を、をいしー」
「あっ。おいしい!?」
カイの表情が、そうだと言わんばかりに笑ったものになった。
「おいしいんだ!?」
「うぉいしー」
「あまい?」
カイは首を傾げた。というか、考えるように鼻面を上げた。
「んがー、んぎー」
んがんぎ?
「がーぎー」
私は考えた。脳ミソフル回転で考えた。カイの知ってる味覚の中で、似た響きのもの。
「あ、ジャーキー!」
ワフン!! カイが吠えた。
「だよねぇ」
あれは甘くない。肉の匂いと、ほとんど味付けしていない犬用のだって、どちらかと言えば塩味だ。
私はまたカイの頭をなでてあげながら、頭の中は他のことを考えていた。もしかしたら、『 』種の味覚は、人と大きく違うのかもしれない、と。
でも、作ってくれるご飯は美味しいんだけどなあ。人の味覚を認識することはできても、美味しいと感じるものは、別なのかもしれないという可能性も。
というか、単に、生肉が好きなだけだったりして。
転がり出てきた推測に、私は無意識にカイの毛を握りこんだ。
「いつか私、八島さんに食べられちゃうのかなあ……」
齧られて死ぬのは痛そうで嫌だなあ……。
「食べないと申しておりますのに。なにゆえ千世様は、それほど私をお疑いになるのか……」
たっぷりと悲嘆にくれた声が、背後からかかった。私はとびあがって振り返った。
「八島さん!」
縁側に、八島さんが正座していた。横に茶菓を載せたお盆もある。
「いいいいいつから、そこに」
「如意棒を出されたあたりからでございます」
ずいぶん前からだったーっ! ああああ、そうだった、お茶とおやつを頼んだのは私だった。すっかり忘れてた。だって、本当はあんまりお腹すいていない。よく考えれば、さっきお昼食べたばっかりだった。
私はバツの悪さに、目をそらした。
……うわあ、我ながら悪い主の典型みたいな行動だ。いきあたりばったりに適当なこと言うから、こんなことになるんだ。八島さんにいらない手間をかけさせた上に、待たせてしまうなんて。
しかし、ここでそれを謝ったら、八島さんの骨折りが、それこそ無駄になる。
私は何でもない顔をして、お茶を持ってきてくれたお礼を言おうとし、視線を戻して口ごもった。
来たよ、美男子の憂い顔! 母性本能わしづかみの破壊的な魅力に、ぐらりとくる。こ、これだけは、何度見ても、慣れない。胸がキューンときて、私までズキズキ胸が痛くなる。
しかも、今回は私が悪い。100パーセント悪い。誠心誠意誓っている相手に、それでも疑われるなんて、とても酷いことだ。
だけど、だからって、食べられないって信じられるかっていうと、どうしても信じられなかった。
だって。だってさあ。肌に残る感触が、どう捉えても、もっともっともっと、しゃぶって齧りたそうだったんだもん!
「千世様、どうぞこちらへ。お手を洗う用意をしてございます」
八島さんは背後から、手ぬぐいの掛かった盥と水差しを出してきた。私はチラとカイを見下ろして、遊ぶのはこれでお終いね、と頭を一撫でした。
それから、緊張して八島さんの待つ縁側へ向かった。




