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異世界執事  作者: 伊簑木サイ
第五章 まだまだ転

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及ばぬ鯉の滝登り

 八島さんは私の前で片膝をつき、無造作に玉手箱を畳の上に置くと、私の顔を下からのぞきこんできた。


「ずいぶん怖い思いをさせてしまいましたね。申し訳ございません」


 右手をとられ、握られる。温かな、確かな感触に、心に急に何かがこみあげてくる。私はその手を、ぎゅっと握り返した。

 ……そう。本当に、本当に、怖かったのだ。八島さんが怪我したらどうしようって。……死んじゃったら、どうしようって……。


「ごめんなさい。勝手に、玉手箱を開けてしまって」


 途中で涙声になってしまい、口を噤んだ。うつむいて瞬きを繰りかえす。おかげで涙はこぼれなかったけれど、そのかわりに鼻に全部流れ込んでしまったみたいで、息が苦しくなった。私はみっともなく何度もずるずると鼻をすすった。


「あのような場所に置いておいた私の落ち度です」


 横に首を振った。無責任な好奇心で、彼を危ない目に合わせてしまったのは私だ。でも、今は言葉にしたら、嗚咽になってしまいそうだった。

 そういえば、と、握って握られている彼の左手を、指先だけに握りなおして開かせる。持ち上げて、もう片方の手で掌をなでて、しっかり確かめる。どこも切れていない。皮膚の一枚すら。赤い線もついていない。私は大きく息をついた。


「よかった」


 それと一緒に、ぱたりと涙が畳に落ちた。いけない。安心したら、ゆるんでしまった。謝らなければならないのは私の方なのに。泣いたりなんかしたら、八島さんは全力で慰めてくれようとするのに。

 私は彼の手を離して、あわてて目元をぐいとこすった。


「そのようにされたら、痛くなってしまわれますよ」


 八島さんは、さっとハンカチを取り出して、そっと目元に押しあててくれた。その気遣いと優しさに、よけいに泣けてくる。

 おかげで、とうとう目と鼻が決壊した。いっぺんに、ぶわっといろんなものがあふれだしてきて。


「うぅぅぅぅぅ~」


 私は目元を押さえてくれている上からハンカチを押さえつけ、目と鼻に押しつけた。けれど、泣き声だけは唇を噛んで押し殺した。それが、不甲斐ない涙に対する精一杯の抵抗だった。


「千世様」


 甘やかに名を呼ばれて、かすかな衣擦れの音が耳に届く。上半身全体が温かいものに包まれて、馴染みの感覚に抱きしめられたのだと知れた。大きな手が、慰めるように穏やかに後頭部をなでてくれる。


「はやく申し上げておけばよかったですね。ご心配にはおよばないのです。支配地のものは、上位に位置する支配者を、けっして傷つけることはできません。布津御霊(ふつのみたま)も例外ではありません」


 なんだ、そうだったのか、と少しだけほっとした心持ちになった。なにも危ないことなどなかった。そう思ったら、ようやく彼の体温が体に染み入ってきた。

 それでも、泣いているせいだけでなく、顔を上げることはできなかった。だって、合わせる顔がないよ。

 馬鹿なことやらかして、自分では収拾できなくて、呼びつけて助けてもらった上に、ろくに謝ることもできずに、グズグズ泣いている。大人だとかご主人様だとか言う前に、人として駄目すぎる。


「千世様。どうかご自分を責められないでください。あなたのために、私がいるのです。あれほどに一心に呼ばれて、どれほど私が嬉しかったか、おわかりになりますか?」


 頭をなでていた手が、滑り降りてきて頬を包みこんだ。あたたかい。


「千世様」


 呼ばれて、私はハンカチを押し付ける手に力をこめた。とてもではないが、今は人様に見せられる顔じゃない。というか、鼻水が。これを取られたら、したたり落ちる。


「千世様」


 八島さんの体が少し動いた気配がして、こめかみに柔らかいものが触れた。ちゅ、と音がして、一拍おき、今度はもうちょっと眦に近い場所に、また柔らかいものが触れる。


「千世様?」


 頬に、吐息がかかった。

 ……ななななななにしてんだろう、この人!?

 かーっと胸から熱がのぼってきて、耳まで熱くなる。

 ふっと笑ったような息が聞こえて、その声がなんだか妙に色っぽく耳朶から入って首筋をくすぐり、私は反射的に身をすくめた。


「千世様、どうか名を呼んでいただけませんか?」


 チセサマ。砂糖でまぶされたような囁きとともに、おでこに唇が降ってくる。一回じゃない。左と真ん中と右と、それからまた名前を囁かれて、ハンカチの上から瞼にも。

 ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっと待ってー!!

 なんなの、どうしたの、なにしてるの!?

 左右の瞼が終わった後にやってきた鼻の頭の上に、私はパニックに陥った。

 そこには大量の鼻水が染み込んでますー!!!


「八島さん!」


 一歩後ろに引いて、思わず彼を制止する声をあげた。いや、片腕でがっちり上半身を抱かれているので、足が畳の上を滑っただけだったけれども。


「はい」


 ハンカチの上から覗き見れば、至福とでもいいたげな笑みに、心臓がズキューっと引き絞られた。胸から体中に痛苦しい疼きがはしる。


「あなたの笑みを誰にもくれてやりたくなくて、こちらにお連れしましたが、もうあのように私だけを求めて呼んでくださることもなかろうと、諦めていたのです」


 え? こっちに来たのは、私が美女になっちゃって、此岸では働けそうになかったからじゃなかったの?

 あ、それは私の理由で、八島さんは、

 そこまで考えて、その理由とやらの意味に理解が追いついて、私はさっきの比にならないほどの、疼きと熱さにみまわれた。

 あなたの笑みを誰にもくれてやりたくないって、どどどどどうして、この執事は、無自覚に女殺しな口説き文句を吐くのかなーーーっ!?

 口説いてないって、わかってはいるけどね!

 怒るだけマヌケだって、何度も思い知っているけどね!!

 それでも何度だってキュン死しそうになるのは、しかたないじゃん、口説かれ慣れてないんだからさー!!

 八島さんが笑みを深める。頬に添えられた手に軽く顔を押されて、右に向かされた。何かなと思いながらもおとなしくされるがままにしていたら、左耳に、ごく小さく、くすりと笑う息遣いが聞こえた。


「そんなお可愛らしい顔をなさると」


 ぴちゃ、と濡れた音がして、耳たぶがくすぐったくなる。んん!? と肩をすくめたとたん、硬いものにはさまれて、熱く濡れたものがチロチロとはった。

 顔をしっかり押さえられていて動かせないので、目だけで確認するけど、やっぱり見えない。でも、私の首筋に顔を埋めている八島さんの耳元は見えて。

 まさかね、まさかねええええ!? と思っているうちに、硬いものが角度を変えて当たり、大きく耳の後ろを、……舐められたぁぁっ!?


「あっ」


 首筋から背中に、ぞくう、ときて、あ、というか、は、というか、なんだか変に息の抜けた、聞きようによっては悩ましい声が、勝手に口からこぼれでた。びっくりして、自分の口をふさぐ。

 それから、どん、と八島さんの胸を叩いた。どん、どん、どん、どん、と何度も。焦燥にかられて。

 だって、味見されてる。味見されてるよぉおおおおっ。


「お、おいしくないですよ、私!」

「おいしいですよ」


 何言ってる、この人外ーーーーっ!!


「まろやかで、あまやかです」


 いやあああああああっ。


「た、食べないで、食べないでぇ……」


 うぇぇぇぇぇ、と半泣きになりつつ、言わずにはおれなかった。


「大切な千世様を食べたりいたしません。お約束したではないですか」


 うん。したよね、したよね、だけど、言ってることとやってることが違うと思うんだよ、首噛まないで、舐めないでぇぇぇぇっ。

 怖いのに、なんだか噛まれているところから変なざわめきが広がって、体にうまく力が入らない。一舐めされるたびに、すう、すう、と力が抜ける。おかげで、押しのけたいはずの八島さんによりかかってすがってる状態で、もう、何がなにやら。


「や、八島さぁんっ」


 私はわけがわからなくなって、八島さんを呼んだ。

 ただし、呼んでからはっとした。私、馬鹿かもしれない。困った時の八島さん頼みは、時と場合を選ばないと。今呼んでどうするの。


「はい。千世様」


 しかし、奇跡的に効いた、らしい。彼が首筋から顔をあげ、私の瞳を覗きこんだのだ。

 この好機を逃してはいけない。私は強く思った。彼の意識をそらすモノを、何か、何か言わなきゃ。


「お……」

「お?」

「おやつ食べてお茶飲んでから、お昼寝したいです!」

「かしこまりました」


 彼がニコリと笑って、体を立てた。通常運転のその微笑みに、私は心底脱力して、くたくたとへたり……こむつもりが、引き寄せられて支えられるままに、彼の胸元によりかかった。

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