過ぎたるは猶及ばざるが如し
赤やオレンジや黄色のチェック模様が可愛い毛織物の上に座り、まず、水筒から注がれたばかりのミルクティを手渡された。温かくて、濃くて、お砂糖が入っていないのに少し甘く感じられる。お腹に滋味のあるものが入って、ほっと一息ついた。
八島さんが籐のバスケットから、ランチボックスを取り出した。中にはサンドイッチが入っているはずだ。私のリクエストである。ピクニックといったら、やっぱりサンドイッチだと思うんだ。遠足といったら、おにぎりだし、登山といったら、……ええと、今時は携帯食料なのかな?
蓋が開けられる。彩も美しく詰められたそれが、あんまりにも美味しそうで、いっきにテンションが上がった。
「お待たせいたしました。どうぞお召し上がりください」
「いただきます!!」
待ってましたー!!
手前にあったものから手に取った。一口齧って、咀嚼すれば、カリカリに焼かれたベーコンの旨みとトマトの爽やかさが口いっぱいに広がって、いやーん、これ、すごくおいしーい!!
ぱああああっと輝いた私の表情を見て、八島さんが優しく目を細める。
次のハムエッグには、私の好きなマスタードをちゃんと利かせてくれてあって、美味しさと幸福感に、ふーっと魂が抜け出そうになった。
一口サイズのサンドイッチは、どれも全部種類が違っていた。定番のハム&レタス。大好きなタルタルソース。忘れてはいけないツナマヨネーズ。それに、昔懐かしいカツサンドにポテトサラダ。
そして、一番奥に在していたのは、デザート的位置づけのフルーツクリームサンドだった。パン屋さんの棚の隅で時々見かけるけれど、予算とカロリー的にいつも諦めていた、あの憧れのフルーツクリームサンドが! さすが八島さん、私の好みを知り尽くしている!
八島さんお手製の、最早芸術と言っても過言ではないサンドイッチの数々を独り占めして、広々とした戸外で食べる、この贅沢!!
「ごちそうさまでした。美味しかったです!」
ああ~、幸せ~。
後ろに手をついて、体を反らした。屈んでいるとお腹がいっぱいで苦しいんだもの。
満たされたいい気分で、風になびく草原の草花を眺めた。うーん、眠くなってきた……。と思っていたら、一か所だけ葉っぱがざわざわと揺れて、思わず目を凝らす。草をかき分け、ひょっこりとカイが現れた。口にピチピチと光る何かをくわえている。
「カイちゃん?」
敷物の上を這っていって近くでよく見れば、掌ほどの大きさのお魚だった。まだ生きている。ぽとん、と敷物の上に落とし、褒めてと言わんばかりの顔つきで、尻尾をぶんぶん振っている。この魚をくれるらしい。
あの、ボールさえ咥えて逃げ回って、なかなか持ってこなかったカイちゃんが!? 自主的に獲物を捕まえ、私にくれるなんて! なんて立派に成長したの!!
私は感動して、カイの首に抱きついた。
「ありがとー、カイちゃん! いい子ねー!!」
首筋の柔らかい毛に顔をこすりつけて、もふもふ具合を堪能する。
「千世様」
「あ、はい、すみません」
八島さんに声をかけられ、私はあわててカイから離れた。服に付いた毛をパタパタと払う。ご飯の前にも、念入りに取ってもらったばかりだったのに、またやっちゃった。
八島さんが手を伸ばしてきて、襟ぐりあたりの自分では見えない毛を丁寧に摘み取ってくれた。
「それほど魚が気に入られたのでしたら、獲って帰って、夕食にお出ししましょうか」
「え、この魚、食べられるんですか?」
「はい。少々小さいので、唐揚げにして南蛮漬けにしたら美味しいかと思いますが」
おおう。獲れたての川魚で南蛮漬け!! 涎が出そう。
「はい! 食べたいです。でも、獲る道具はあるんですか?」
「ええ。ちょうどよい槍を手に入れましたので、それでと思っております」
「槍、ですか?」
銛じゃなくて?
「はい。投げれば必ず標的を仕留め、しかも持ち主の手元に戻るようになっています」
「へえ。すごく便利なんですね」
八島さんは内ポケットから布に包まれたものを取り出した。掌の上に出されたそれは、ぐんぐん大きくなり、二つの古ぼけた槍になった。
「こちらでございます」
細くて小さい方を手渡してくれた。よく使い込んだ木の柄に、鋭い光を放つ金属製の穂先がついている。
八島さんの手に残された方は、柄まで不思議な材質でできていて、太くて大きい。木でもなければ金属でもない感じ。穂先にも返しがついていて、なんとなく、学生時代に博物館で見た、大昔の骨や角で作った銛を思い出した。
「さあ、参りましょう」
私たちは靴を履いて、カイが来た方へと向かった。
それほど離れていない場所に、幅三メートルくらいの川が流れていた。流れは速くないし、浅いようだ。
岸辺で中をじっと覗き込むと、おお、いるいる。メダカみたいに小さいのから、少し深くなっている中ほどには、私の掌より大きそうな影が、群れをつくって滑り抜けていく。
魚の大きさに対して槍がちょっと大きい気がするけど、背に腹は代えられない。私の南蛮漬けを捕まえるためには!
私はいそいそと靴に手をかけた。裸足になって、もう少し深い所で、大きいの獲らなきゃ。初めてだけど、頑張るぞ。
「千世様、水の中に入る必要はございません」
「そうなんですか?」
「はい。狙いを定めて投げていただければ、仕留められますので」
ああ、そういえば、そう聞いていた。彼岸の不思議道具なんだっけ。
「わかりました」
踵を靴の中に戻し、槍を右手で肩の上に水平に構えておいて、水の中の影を探した。
大きいのー、一番大きいのー。心の中で唱えながら、探して、探して、探して……、よし、あれだ!!!
少し振りかぶってから、獲物に向かって投げる。たぶん気のせいでなく、私の投げた力以上に速く飛んで、びゅんと風を切り、そうして音もなく水に突き刺さった。
水に穂先をつっこんだ斜めの姿勢で制止したかと思ったら、今度は映像を巻き戻すようにして槍が戻ってくる。あわてて出した両手の中に、最後にしずしずと降りてきた槍の穂先には、心臓を中心に一突きにされて、尻尾の先だけフルフルさせている魚が刺さっていた。
私は、あまりのすさまじさに言葉を失って、魚を見て瞬きを繰り返した。……な、なんか、怖い。槍から、殺す、絶対殺す、標的を必ず仕留める、っていう念がにじみ出ている気がする。雑魚の血ごときじゃぜんぜん足りないって、言ってる気がするー!!
呆然と、触るに触れずに立ちつくしていたら、八島さんが魚を引き抜いて、ランチボックスの中に放りこんでくれた。
「こ、この槍、どちらの神様からお借りしてきたんですか?」
「オージンでございます。お気に召しませんでしたか?」
「いえ、あの、これの持ち主は、ずいぶん怖い神様なんだろうなと思ったんです」
神器は、昔の『 』のなれの果ての姿だと聞いた。神様の力を宿して変形してしまったのだと。だとすれば、まっさらなただの器であるはずの『 』を、こんなものにしてしまう神は、それ相応の本性を持っているにちがいない。
「ああ、そうでございますね、戦と死の神でございますから。千世様は敏くていらっしゃる」
私を褒めてニコニコしてるけど、私じゃなくったって、これがおっかないものだってわかると思う!! だって、なんか、手の中でカタカタ揺れてるよ。血ー、血が足りねー、て貧乏ゆすりしている、パンクな感じの殺人鬼のお兄さんの姿が思い浮かぶんだけど、なんでかなー!?
これ以上、血を与えてはいけない気がする。
私はとりあえず、槍を逆さにして地面に突き立てた。うん。これでよし。穂先が出てるから、獲物が欲しくなるんだよ。こうしておけば、すうすうしないから、少しは落ち着くんじゃないかなあ。ダメ押しに、柄頭に手をのせ、押さえてみた。
この槍は駄目だ。強力過ぎて、私には扱いかねる。
「八島さんの槍は、なんて神様のですか?」
「セタンタです。通り名はクランの猛犬と申しましたか。神ではなく、半神です」
半神って、半分だけ神様ってことかな? だったら、本当の神様のよりは扱いやすいかもしれない。
「そっちも使ってみたいです」
「申し訳ございませんが、おそらく、千世様には重くて持つことができないかと」
それでも八島さんは、柄を下にして私の前に槍を立ててくれた。上の方で軽く支えてくれている。私はそれを片手で持ち上げようとして……、諦めた。びくともしない。
「私には無理ですね。それも、これみたいに勝手に仕留めて自動的に戻ってくるんですか?」
「いいえ、ゲイ・ボルグは、……そうですね、説明するより、使ってお見せいたしましょう」
八島さんは軽々と槍を持ち上げると、二、三歩助走をつけて、槍を投げ放った。ゴオッと、私が投げたものより重い音がして飛んでいく。かと思ったら、空中でバカッと割れて、無数の細い槍に変化した。そのまま、まるで傘のように川面に到達し、あたり一帯をくまなく貫く。
八島さんは水の上を歩いて行って、槍を引き上げた。その先には、たくさんの魚たちが刺さっており、皆断末魔の動きで、ビチビチのたくっていた。
さ、さっきのより、怖いっ!! なんか、無表情な将軍様が、殲滅せよ、と冷たく言い放っている姿が思い浮かんじゃったよー!!
槍を肩に担いで、八島さんが戻ってくる。私はこわばりそうになる顔で、せいいっぱい笑顔をつくった。
「そ、それだけあれば、夕飯にはじゅうぶんそうですね!」
「そうでございますね」
「じゃあ、魚獲りはお終いにしましょうか!」
「承知いたしました」
「この槍もお返ししますね! ありがとうございました!」
「いいえ、グングニルは千世様がお使いください」
どすん、と魚がぶらさがったままの槍を地面に突き立てた彼は、私が持っていた方の槍を引き抜いた。
「他の玩具と一緒に、ロケットに入れておくとよろしいでしょう」
八島さんの片手が伸びてきて、天の羽衣をよけて首筋に触れた。反射的に息を止める。触れられているところから熱くなってきそうなのを、八島さんに他意はないから! 女だとすら思われていないから! と心の中で自分に言い聞かせる。
彼は、首に掛けている鎖を辿り、服の中に落とし込んである銀色の大ぶりなロケットをひっぱりだした。それをパチンと開き、槍先を近づける。すると、如意棒や乾坤圏がそうなるように、しゅるしゅると小さくなって吸い込まれ、中に納まってしまった。またパチンと閉める。そうしてご丁寧に、再び服の下に戻してくれようとする。
……少し冷たくなったロケットが、八島さんが鎖を繰り延べるたびに肌の上を滑って、何とも言えない感覚をもたらして……。
うあああああっ、もうっ、この人はーーーーー!!!!!
わかってる! わかってるよ! 八島さんは何にも考えてないよね! 私だけが、ドキドキしてるの!! だけど、ドキドキしたってしかたないじゃん! 胸の間を、冷たいものが滑り落ちていくんだよ、ドキドキするなって方が、無理だよね!?
ロケットがすっかり下まで落ちても、八島さんの手は首元に留まって、なぜか、つつっと肌を辿って顎先へと移動した。ほんの少しだけ力を入れられ、視線が合うように顎を上げられる。
「……千世様、もう少し控えていただけるとありがたいのですが」
「な、何を、ですかっ?」
目をそらしつつ、聞き返す。だって、さっきの今で、気恥ずかしい。するとまた、今度は大事そうに頬を包まれ、こちらを見てくださいと無言で懇願された。
しかたなく視線を戻して、私は深く後悔した。
目が合うと、彼は仄かに微笑んだ。それはそれは綺麗な、……壮絶に色っぽいまなざしで。
それが目に入った瞬間、腰から背中にかけて、ぞくりとしたものが奔りぬけた。お腹の底と胸と顔が同時に熱くなって、体が勝手にふるりと震える。み、見るだけで体が反応するって、どんだけ女殺しなのー!!
混乱する私に、八島さんの笑みがますます深く妖艶になった。
「千世様は、ご自分が今、どれほど美味しそうな顔をしていらっしゃるか、わかっておいでですか?」
蕩けそうに目を細めて、頬を包んでいた指が移動して、魅入られて動けない私の唇を、すうっと撫ぜる。
まるで、そこを本当は齧りたいのだとでも言うように。
私は反射的に真っ赤になって、弾かれたように飛びのいた。
逃げられるわけがないと思っていたのに、簡単にあっけなく彼の手が離れていき、意外さに一瞬狼狽える。自分で逃げたはずなのに、どうしてか急に自分のまわりがスカスカした感じがして心許なくなった。どうすればいいのかわからなくなって、八島さんを見上げる。……彼は残念そうな表情をするでもなく、悠然と私を見ていた。
それに、わけもなく、ムカアッとした。真っ赤に燃えるような苛立ちが脳天を突き抜けていく。
「そ、そそそんなの知りませんっ!! 私は普通ですっ!! 八島さんが変態なのがいけないんでしょう!?」
湧きあがるままに怒りをぶつけ、身をひるがえして走りだす。
もーう、やだやだやだやだ、天然女たらしの無自覚口説き魔お色気執事なんてーーーっっ!!!!
無駄に人をドキドキさせて、なのに、その全部に本当は意味がないなんて。
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、八島さんの、人迷惑ーーーっっ!!」
私は息を切らして、いつの間にか隣に並んで走っていたカイちゃんと丘を駆け登り、八島さんを置いて、先にお屋敷に帰ってやったのだった。




