喉元過ぎれば熱さを忘れる
カイが来て七日目の朝。
足下にちょーんと座って、ふさふさの尻尾を揺らしているカイを眺めて、私は無言になった。
カイは毎朝会うたびに、どんどん大きくなる。朝の挨拶も忘れて、思わず無言になってしまうほどに。とうとう今日は、ツキノワグマの大きさを超えた。……と思う、たぶん。あんまりツキノワグマの大きさに詳しくはないんだけれど。とにかく、たった七日でこの成長。恐るべし、彼岸の犬。
四つ足だから、目線の高さこそ低いけれど、胴も腕も足も、最早、私のそれより太くて大きい。
しかも、うちのカイちゃん、ちっちゃい時も、そりゃあもう可愛かったけど、大きくなったらなったで、格好いいったらないのだ。
尖った耳、強そうな顎、きらりと煌めく真っ黒い瞳の、お顔はハンサム。つやっつやの灰色の毛は触り心地がいいし、体も均整がとれていて、どこの血統書付の犬かと思うくらい気品がある。
そんな子が、すっごく懐いてくれているんだよ!! これは飼い主馬鹿になったってしかたないよね!
「おはよー、カイちゃん!」
「ワッフ!」
尻尾がぶんぶんと千切れんばかりに振られ、お返事してくれる。
カイちゃん、賢い!! たった七日で、ご挨拶までできるようになった! 今では取ってこいもできるようになったしね! 私が教えたんじゃないけどね。八島さんが一言、取ってこい、と言ったら、それ以来できるようになっだけなんだけどね。うちはやっぱり、八島さんが一番すごいのだ。
いつもなら、これから如意棒(伸び縮みする便利な棒)で引っ張りっことか、乾坤圏(円盤状の飛ぶ玩具)で取ってこいをするのだけど、今日は八島さんが一緒だ。隣で、大きなバスケットを持って立っている。
「これからピクニックに行きますよ!」
「ワッフ!」
私は張りきって宣言した。高天原に来てから、初めてのお出掛け!! 嬉しいな!!
「足元が悪いといけませんので、おつかまりください」
八島さんが空いている方の腕を、常とは違って体から離して肘を張るようにした。
……腕を組めってことですか? そんなの、異性とは中学校のクラスマッチの二人三脚以来、やったことないんですが。いや、あれは肩を組んだんだっけ?
でも、八島さんが当然っていう顔をしているから、私もなんでもないみたいに、彼の腕に腕を絡めた。
そっと横を見上げると、優美に微笑まれ、私もつられて、へにゃりと笑う。いつもよりまなざしが近くて、照れてうまく笑えない。胸のあたりがこそばゆい。
「参りましょうか」
「はい!」
腕を組んだまま、ゆっくりと歩きはじめた。庭の大きな池にかかった橋を渡り、美しい散歩道を辿る。そうして、背の高い木がそよ風にさわさわと揺れ、木漏れ日が地面の上で踊る中を、三十分ほどかけて抜けた。そうしたら急に視界が開けて、私たちは小高い丘の上に立っていた。
「うわあ……」
思わず感嘆の声がもれた。
空はどこまでも青く、地上は見渡すかぎりの緑。そこここに鮮やかな色を挿して、花々が咲いている。そのどれもが生気にあふれていて、草の一本、花の一輪まで見分けられるほどだった。圧倒的な存在感を示してひしめくそれらに、世界が埋め尽くされている。
なんて、なんて、綺麗な世界。
たとえようもない景色を前にして、足がうずうずむずむずしてきた。
今すぐ丘を駆け下りて、この世界に飛び込みたい!
私はそわそわと八島さんを見上げた。
「お気に召しましたか?」
「はい、はい、とっても綺麗です! あの、下の草原まで走ってみてもいいですか? ……あ、危険な動物とか植物とかなければ、ですけど」
なにしろ、彼岸だもんね。何がいるかわからない。
「この一帯に危険なものはございません。ご自由になさって大丈夫ですよ」
「はい! ……カイ!」
八島さんの肘から腕を抜きつつ、カイと一緒に駆け下りようと呼びつけたら、お待ちください、と呼び止められた。
「こちらをお召しください」
ふわりと首のまわりに薄布が巻かれる。そのままもう一周して、首の横で蝶々結びにされた。
「天の羽衣でございます。少し体が浮きますので、これで酷く転ぶことはないでしょう」
ああ、童話とかで天女がひらひらと両腕に掛けて、ふわふわ浮いているやつ! おおー、これがそうかーと、試しにぴょんと飛び上がってみると、降りる時が、ふわりとする、気がする。
「これ、伸ばすと飛べるんですか?」
「飛ぶというより、浮くだけでございますが」
なるほど。小さくたたむと、浮力も小さくなるらしい。よくできている。
「ありがとうございます。……いってきますね!」
「はい。いってらっしゃいませ」
八島さんは慇懃に見送ってくれた。
「カイちゃん、おいで! 追いかけっこだよ!」
走りだしたら、羽衣の効力がいっそう感じられた。体が軽くて、飛ぶように走れるの。思いきり強く地面を蹴ったら、ぴょーんと飛んで、前を走るカイの横に降り立てた。それに気づいて、カイがいっそう速度をあげる。
「競争だよ!」
私は風を切って、いっきに斜面を飛び下りた。
走って、走って、走って、抜きつ抜かれつ、最後はカイに飛びついて、一緒にごろごろ転がった。楽しくて、おかしくて、息切れするほど笑って、頬とお腹が痛くなってきたから笑うのをやめて、バタンと草原に仰向けに寝転がった。
カイが傍で、のそりと伏せる。草や花が体のまわりで風に揺れて、吸い込まれそうに青い空を縁取っていた。
目の前に広がる空があんまり綺麗で、胸の奥がぎゅっとなる。
その瞬間に、帰りたい、という思いがわきあがっていた。
空の色はいつかどこかで見たことのあるものだった。一歩踏み出せば空の底に降りていけそうな色合い。幼い頃に、兄や友達と一緒に見たそれと、同じ色。
でもここに、あの人たちは誰一人といない。迂闊に会いにいくことすらできない。
会社に退職願を書いて、菓子折りと一緒に八島さんに届けてもらった時に、これからしばらくはここで生きていくんだと、覚悟を決めたはずだった。
早く慣れて、この世界のことを知って、ここで私のできることを探して、この美貌をごまかす術も探して、あっちにも帰れるようになれたらなって。
もしかしたら二度と帰れないかもしれない、帰れたとしても、時間がかかりすぎて、誰一人として知っている人はいなくなっているかもしれない、……そっちの可能性の方が高い、そういったことをちゃんとわかっているつもりだった。
けれど、あんなに簡単に覚悟ができたのは、本当にはわかっていなかったからなのだと、今、思い知らされていた。
今すぐ、ものすごく家族や友人や同僚に会いたかった。急に、暗闇に落ちてしまったように、寂しくてたまらない気持ちでいっぱいだった。泣きたくなんかないのに、勝手に涙が滲んでくる。
私は下唇を噛みしめて、空を見据えた。
「千世様」
空が遮られ、人影が現れる。
「八島、さん」
私はとっさに、涙声で彼に向って両手を伸ばした。すぐに手が握られ、引かれて体を起こされる。引き寄せられ、頬が彼の胸に当たり、すっぽりと腕の中に囲いこまれた。頭に柔らかいものが触れ、彼の頬が寄せられたのだとわかる。
八島さんに触れた場所から、安堵が体に広がった。そうして、心にも染み込んできて、ふわりとした温かさで身も心も包み込まれる。
「千世様。いかがなさいましたか?」
甘やかな呼び声に、私は吐息をつき、鼻の頭を彼の胸にこすりつけた。
「……はしゃぎすぎました。疲れました」
それも嘘ではなかった。こんなに手放しで笑ったのも、走ったのも、どのくらいぶりだろう。ちょっとすぐには思い出せなかった。
「では、ちょうどようございました。昼食の用意が整いました。休憩がてらお召し上がりになりませんか?」
言われて気付く。お腹がペコペコだ。……そうか、きっとそれで、少しセンチメンタルな気分になっちゃったんだな。
「はい。いただきます」
伏せていた目を上げれば、優しい瞳が私を見つめていた。私はそれに、ニコリと笑い返した。……笑うことができた。彼の微笑みに応えるように、自然と心の奥から浮かびあがってきたから。
八島さんの微笑に見惚れながら、本当にすごい威力だなあと、改めて思う。だって、目にするだけで、心の中がほわんほわんになっちゃうんだよ。あんなに心を覆っていた暗闇も寂しさも、もう、欠片も残っていなかった。
「ご飯楽しみです」
私は馬鹿みたいにニコニコ笑いながら、付け加えたのだった。




