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異世界執事  作者: 伊簑木サイ
第三章 転

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16/50

我が口に甘ければ人の口にも甘し

 脱衣室でびしょ濡れだった頭のタオルを巻き替え、バスローブを羽織った。他はパンツ一枚身に着けていない。上がったばかりでまだ汗をかくからなんだけど、この格好が今日ほど心許ないと思った日はなかった。

 うう。足元も胸元もすうすうするよう。

 おそるおそるドレッシングルームへと通ずるガラスの扉を開ける。穏やかな光源に照らされた室内には、誰もいなかった。あの狭いアパートだったら、八島さんが部屋で待っていて、これから髪を乾かしてくれるところなのに。八島さんはどこにいるんだろう?


「八島さん?」


 少し首を伸ばして奥の方を見はるかしてみたけど、音もしないし、姿も見えない。

 実は、さっきの今で、会うのは少々緊張する。だから、なんとなくほっとしつつも、いつ現れるかとちょっとびくびくしてしまう。八島さんに会うのが嫌っていうんじゃない。かくれんぼう的などきどきだ。


 中ほどにある休憩用のテーブルセットには、彼が言っていたとおり飲み物が用意してあった。グラスが水滴をまとっていて、いかにも冷たそうだ。

 急に喉の渇きを覚えて、ごくりと唾を飲み込んだ。グラスに誘われるままに、そろそろと入っていく。辿り着くと、手に取って、きゅうっと一息に飲み干した。


「おいしい……」


 レモンの酸味に蜂蜜の甘みが優しく効いていて、すうっと体になじんできた。あまりのおいしさに、体だけでなくて心まで満たされる感じ。緊張がふうわりとゆるんでいく。

 はあー。幸せー。

 私は満足の吐息をこぼし、脱力した体を籐の長椅子に落ち着けた。

 もうちょっと味わいたくて、グラスに残った氷を、コースターの上に戻しながら名残惜しく眺める。体に水分が補給されて足りているっていうのは、感覚的にわかっているんだけど、だって、とってもおいしかったんだもの。また明日も作ってって頼もうっと。


 そこで、ふと気になった。

 こんなに美味しいのに、本当に八島さんは自分で飲んだりしないのかな、と。

 食べる必要がないから、食欲ってものがないんだって言ってた。それって、飲んでも美味しいって感じないってことなんだろうか。

 ……ううん、きっと、違う。こんなに美味しいものを、味見なしで作れるとは思えない。ということは、普段はお腹がすかないから、特に食欲がわかないってだけなのだろう。


 それって、なんだかすごく損な事のような気がした。損っていうか、残念っていうか。不幸、とまでは言わないけれど、それに近い感じ。

 美味しいって、幸せの一つだと思う。それも、美味しいものを口に入れるだけで味わえるっていう、幸せの中でもお手軽な部類のものだ。

 しかもお手軽なのに、頑張って達成できたから幸せ! とか、やりきった、くたくた、でも幸せ! とかみたいに、心だけでも体だけでもない、両方いっぺんに大満足になれる優れものだ。お昼寝の幸福感と双璧をなすと言っても過言ではない。


 人間じゃない八島さんには、もしかしたら余計なお世話かもしれないとは思う。でも、彼にも美味しい幸せを、味わせてあげられたらいいのに、と思ってしまう。

 毎日毎回食事のたびに、私が幸せにしてもらっているみたいに。

 だけど、自分を齧らせてあげるわけにはいかないしなあ。

 私は腕を組んで、ううん、と唸った。


 ……そうだ! 時間だけはいっぱいあるから、このさい料理を極めてみるってのはどうだろう。いや、うん、まあ、今の私の腕前では、かなりの精進が必要だっていうのはわかっているんだけど。『食べられる』と『おいしい』の間には、マリアナ海溝なみに広くて深い溝が横たわっているもんねえ……。

 けれど、私にも八島さんをちょっとでも幸せな気分にしてあげられる可能性があるなら、頑張ってみたい。挑戦してみるだけの価値は、絶対にある。

 おいしいですねと笑ってくれる八島さんが思い浮かんで、ほわんと心の中が温かくなった。

 よーし、頑張るぞ! まずはどうすればいいかな。お料理の本かネットで基礎を勉強、からかな。じゃあ、さっそく身支度を整えて居間に行かなきゃ。

 私はドレッサーの前にいそいそと移動した。




 鏡を見るともなく見ながら、髪を包んでいたタオルをはずした。そのタオルを使って、髪を挟んでぽんぽんと叩いて水気を取る。わしゃわしゃごしごしと拭いていたら、髪が傷みますと、八島さんがやり方を教えてくれたのだ。


 それにしても、私、美人だなあと思う。

 ただ、不思議なことに、こうしてよく見てみると、目や眉や口や頬っていうパーツごとの形はそれほど変わっていないと気づいた。なのに全体を見ると、とんでもない美人なのだ。いったいどうなっているのだろう。こうして座ってる姿だって、美女オーラがはんぱない。


 試しに、立ち上がって少し下がって、全身を映してみる。信じられないくらい素晴らしいプロポーションだった。優美で優雅、出ている所は出ていて、ひっこむべきところはひっこんでいる、……ように見える。

 私は思わずバスローブの前を持ち上げ、中を覗きこんでみた。

 ……ううん、やっぱりおかしいな。大きからず小さからずな胸と、寸胴でもないけどきゅっと締まっているわけでもない腰しかないよ。


「……魔法の鏡?」


 見る人の願望を映すとか、誰でも美女にしちゃうとか。

 首を傾げて呟いた瞬間、千世様、と後ろから声を掛けられて、私は文字通り飛びあがった。慌てて前をかき合わせ、その上から腕で押さえる。鏡を見ると、八島さんが立っていた。

 うわーんっ、自分の体を観察していたのを見られてた!?


「は、はい、なんでしょうか、八島さんっ」

「何かお困りでいらっしゃいますか?」

「ち違いますっ、これは、その、あんまり変わったように思えないのに、どうして美女に見えるのかなってっ」

「ああ、そのようなことでございますか。……どうぞお座りください」


 椅子を示され、素直に座った。鏡に映った私は首から耳まで真っ赤だった。救いは、八島さんの態度がまったく変わってないということだろうか。

 ……そうか。そうだよね。

 八島さんの様子に、すとんと腑に落ちるものがあった。八島さんにとって、私は(あるじ)ってだけで、男とか女だとか関係ないんだろう。そもそも彼は人間じゃないわけだし。

 だから、お風呂の中で私が裸だろうと、ここでバスローブ一枚だろうと、さして気にするほどのことではないのだ。

 ……なーんだ。

 体の中で破裂しそうに膨らんでいた緊張や羞恥が、ふしゅーっといっきにしぼんでいった。寂しいような、安心したような、微妙な心持ちで鏡の中の八島さんをうかがう。すると目が合って、彼は慇懃に頭を下げてきた。


「これは失礼いたしました。ご説明が遅くなりまして、申し訳ございません。千世様が(こと)(ほか)お美しくなられたのは、天仙級の位階となり、存在のレベルが上がったからでございます」


 それは前にも聞いた覚えがあった。不老長寿になったのだと説明された時だったと思う。だけどそれでなぜ美女に見えるのかよくわからなくて、私は聞き返した。


「でも、私は私、ですよね。顔だって体だって、本当はそんなに形が変わってないみたいですし」

「さようでございますが、お体が彼岸のものに置き換わり、此岸の塵芥(ちりあくた)とでもいうべきものがすべて取り払われておりますので、……そうでございますね、鉛でできていたものが、金に置き換わったと申し上げればおわかりになりますでしょうか。古来より、人が神々を光や姿無き者として表現してきたのも、そこに理由があります。人のレベルでは、神々の波長は高すぎて、そのようにしか認識できないのです。それと同じことが千世様にも起こっているのでございます」

「つまり、目がくらんで、綺麗にみえてしまう、と」

「それでは語弊がございます。目がくらむほどに美しい存在になられたのです」

「はあ、そうですか」


 私は気のない返事をした。だって、目がくらむほどに美しい存在って、所詮、私だよ。

 まったくもう、八島さんったら、


「執事馬鹿ですねぇ」


 私は生温いまなざしで八島さんを見て、無意識に呟いた。

 つと手を止め、鏡の中で視線を合わせた八島さんは、まさに破顔一笑、それは嬉しそうな笑顔となった。

 それに、私は声もなく呼吸を詰まらせた。

 な、なんでそんなに嬉しそうなんですか!? そんなに手放しに笑うと、ちょっと幼い感じが純粋さをかもしだして、乙女心と母性本能がダブルでぎゅうぎゅうと締めあげられちゃうんですがっ。うわあっ、これ以上はダメダメ、目も心も潰れるーっ!!


「お褒めにあずかり、たいへん嬉しゅうございます」


 褒めてないよ、あきれたんだよ、とは言えなかった。……なんだか、八島さんが幸せそうに見えたから。

 思わず、聞いてみたくなってしまう。


「も、もしかして、今、幸せな気分ですか」


 おずおずと尋ねたそれに、はい、とにこやかに八島さんは頷いた。


「私は、千世様にお会いしてから、常に幸せでございます」


 はうっ。

 息が止まった。たぶん、心臓も止められた。みるみる胸も顔も頭も全身も熱くなっていく。

 な、なんて殺し文句っ。もうやだ、死ぬ。本気でキュン死する。不老不死? そんなもの蹴散らかす天然女殺しな発言に、悶え死にしそうだよ。どうしてこの人、こんなに凶悪なのっ!?

 私は涙目で彼を恨みがましく見やった。


「……申し訳ございませんが、千世様、あまりお可愛らしく見つめるのはお控えくださいませ。……齧りたくなってしまいますので」


 ぎゃふん。

 とうとう、私の心は断末魔の呻きをあげて、爆発した。




 ……こうして、私の彼岸ライフは始まったのだった。

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