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砂ヶ森さんと「立入禁止区域」

作者: i.

 この学校には奇妙な噂が多かった。無人である筈の教室をうろつく人影といったありがちなものや、昨日まであった筈の掃除用具が消えるといった不注意が原因だろうといった類まで種々様々。それ以上にこの学校は校舎そのものが奇妙から成っているので、そんな風聞も当然と言えば当然だった。

 私立紅ヶべにがおか高校。

 歴史はそれなりに古く、今年で創立百周年を迎える中高一貫校だ。

 しかしながら積み重ねてきたのは歴史だけではない。そう、その校舎もであった。

 創立者は明治を代表する豪商で、晩年は何かに取り憑かれたかのように校舎の増改築にご執心だったそうだ。遺言にまで記すほど。

 結果、気品ある西洋建築の校舎はあっという間に原型を失い、何十年か経過した現在では適当に組み立てた積木のようで、広大な敷地の一部は観光名所にすらなっている。

 増改築は今も続いており、正月が明けたばかりの晴れ雪降る日に、どこからともなく雑多な音の聞こえる廊下を一人の男子生徒が歩いていた。

 彼、袰月ほろづきユウヤの吐く息は白く、足取りはにぶい。手もかじかむ。絆創膏の貼られた右手甲を大事そうに撫でながら、D棟三階の暖房設備が存在しない廊下を忌々しげに踏みつけていた。

 とても紅ヶ丘高校では計画的とはいえない増改築の弊害か、校舎の中で設備格差が生じているのだ。冷暖房や無線LANまで完備の棟もあれば、老朽化が進んで雨漏りから軋む床、開かずの扉まで完備した棟もある。実習教室の多いD棟は、後者においてその最たるものであった。十年以上放置され、埃が積もって久しい教室もある。



 ユウヤは突き当りにある階段前で足を止めると、階上にある灰色でところどころ錆の浮いた掃除用具入れを視界に収めた。さらにその先には屋上へ出る扉と広い踊り場があり、明り取りが少なく薄暗いD棟では貴重な陽光が射していると記憶していた。しかし実際は雑然と積み上げられた椅子と机が場を占領しているようで、階下に届くのは微々たるものであった。

 校舎も雑ならばその中身も雑なものだと、ユウヤは大きく息をついて階段に足を掛けた。その瞬間、彼は階上の机が白い息を吐くのを見た。

 そんなバカなと自身の目を疑い、暗がりに慣れていたせいだろうと言い聞かせた。

 校内には、補講や部活で少なからず生徒は残っているが、D棟三階にはその用をなす教室は無い。男女が逢引きするにしてもわざわざ寒く埃っぽい場所を選ばないだろうし、隠れて煙草を喫むにしても臭いはしないし煙も少ない。彼は気のせいということにして階段を踏んだ。

 全部で十三段の階段を上りきる直前で、視線が触れた。机でも椅子でもなく、人間と。

 彼女はサイズの違う机を器用に組み合わせ、その上に座していた。

 マフラーから覗く頬、唇は紅、細い指と吐息は白。息を吐く毎に、肩へかかった髪と涙っぽい眼の黒が揺れた。錆ついた背景に、陽に照らされたその三色が特に際立っていた。

 手には本が握られ、傍らにはへたれたスクールバッグとそこから取り出したのであろう十数冊が乱雑に積まれていた。

 第一声はユウヤのほうであった。寒さではっきりと声が出せるか不安に思ったものの、なんとか振り絞ることができた。もし何かがいた場合に備え、ぼんやりと用意しておいた科白だ。

「すみません。人がいるとは」

 彼女は驚きで丸めていた眼を細め、視線をそらすと、本を口元に当ててくすりと笑った。

「まさか、人が来るとは」

 硝子細工を小突いたように可愛らしい、心地よく響く声だった。

 その時ユウヤの眼に本の表紙が映り、彼はその表紙に見覚えがあった。男がギリシャ彫像のようなポーズを決めている。漫画だ。タイトルは、ジョジョの奇妙な冒険。略称はジョジョ。

 彼は以前、その漫画本を友人から借りて読み進めた事があるが、数巻で頓挫していた。グロテスクな絵とわけのわからないキャラクターの調子が、どうしても好きになれなかった。

 ユウヤが言った。これは用意してなかった科白だ。

「ジョジョ、お好きなんですか?」

 赤色のラインがデザインされた上履きをぱたぱたと動かし、彼女は鼻をすんと鳴らした。

「質問を質問で返すなとこの漫画に描いてあったけど、どうしても言いたくなってくるね。君も読んだ事があるのかい?」

 上履きにデザインされたラインが赤色の場合、それは第三学年のものだ。ユウヤのものは青色で、第二学年を示す。彼は肩をすくめ、正直に言った。

「一度だけ。自分はどうにも絵になじめなくて、読んだのは最初の数巻だけですね。先輩はお好きなんですか?」

 彼女は愉快そうに頷いた。

「わたしもはじめはそう思っていたね」そして、ユウヤに漫画を貸してくれた友人と同じ言葉を言った。「でも、十数巻あたりまで読み込むとなかなかクセになるよ」

 ユウヤは笑った。

「その漫画が好きな人は、皆そう言いますよね。わかりました。読んでみます」

 彼女はまた頷き、「それがいい」と言った。顔を傾ける姿は、行儀の良い猫のようだった。黒目がちな眼と、窮屈なスペースに寒そうに丸まっているので、そんな印象が余計強調されている。

 椅子と机に埋もれかけた用具入れに、ユウヤが手を伸ばそうとして振り返った時だった。

「ここへはバケツ、いや、箒を取りに来たのかな?」

 ユウヤはぎくりとした。

「よく分かりましたね」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「おお、当たった。やった」

 ユウヤは疑問に思った。

「なぜ分かったんですか?」

 たしかに、殆ど物置に近いこの場には掃除用具入れの他に、机と椅子くらいしか置かれていない。もとより屋上は出入り禁止で、鍵もかけられている。それでも自分が取りに来たものを断定した彼女に、ユウヤは驚いた。

「ほぼ、勘のようなものだけどね」彼女は漫画本をぱたんと閉じた。その様子は少し得意気だった。

「ここには机と椅子、掃除用具入れと、屋上への扉しかない」漫画本の角で、椅子の足をこんこんと叩く。「それと今は、わたしもか。しかし普段屋上への出入りが禁止なのは、ここの生徒ならだれでも知っているし、冬で雪も積もっているから危険だ。見た目で人を判断するというのは好きじゃないけど、君はとてもそんな危険な真似をするようには見えなかったからね。わたしは人を見る目はあるんだ。次に机と椅子だけど、ここに置いてあるのは埃が積もった古いものばかりで、最早忘れられているだろうさ。持ち出すにしても、急を要するならもっと近場の教室なり保管庫に沢山あるしね。

 残る候補の掃除用具入れについても同じことは言えるけど、掃除用具なんてのは持ち運ぶことを前提に作られているしね。それに君は手に怪我をしているようだし、この寒さだ。加えて学休期だというのに、バケツや雑巾を必要とするのは考えづらい。そんなわけで箒かモップあたりでも捜しに来たのではと考えたのさ」

 そこまで一気に言い切ると、彼女は満足気に漫画本のページをパラパラと鳴らした。

 ユウヤは息を呑んだ。

「言われてみればたしかに、そうですね」

 そして少しばかり皮肉を込めて言った。

「では、先輩はなぜここに?」

 彼女はううんと唸り、愉快そうにしていた。

「キョウコでいいよ。わたしの名前は砂ヶすながもりキョウコ。呼び捨てで構わないよ」

 いくらなんでも上級生を呼び捨てにするのは、ばつが悪すぎる。

「自分は袰月ユウヤと言います」ユウヤは続けた。「キョウコ先輩はなぜここに?」

「君もなかなかどうして、珍しい名字だね」キョウコは漫画本を弄びながら言った。「わたしがここにいるのは、なんというか、現実逃避かな」

「受験ですか?」

 言って、ユウヤは少し後悔した。キョウコは少しだけ眉を寄せ、背後の壁にもたれかかった。

「きみねえ……」

 ユウヤはそれを遮る。

「すみません」

 キョウコはふふんと鼻を鳴らし、マフラーを口元に当てた。

「いいんだよ」彼女は手をひらひらと振った。「どの道、避けられるものじゃなし」

 端麗な容姿とミスマッチな、キョウコのどこか年寄りくさい仕種に、ユウヤはなぜか見とれそうになった。会釈をすることで、それを振り払う。

「本当にすみません。では、自分はこれで」

 彼は踵を返し、掃除用具入れに手を伸ばした。幸い扉の前には少しだけスペースがあり、重い机と椅子を移動させる面倒な作業を強いられることは無さそうだ。

 錆でガリガリと鳴る扉を開け、カビ臭い内から、茶色の古いシダ箒を取り出した。長さも十分。

 後は戻るのみ、というところで背後から声がした。

「最近はよく、校内から掃除用具が無くなるそうだね」

 ユウヤが振り返ると、微かな笑みを浮かべたキョウコの顔が映った。吸いこまれそうな漆黒の瞳を、向けられている。

 彼は小首をかしげた。

「らしいですね」

 キョウコはくしゅん、と小さなくしゃみをした。

「いやはや、お恥ずかしい」

「大丈夫ですか?」

「うん大丈夫。心配してくれてありがとう」うやうやしく言い、キョウコは続けた。「でも、忘れられた場所の忘れられた掃除用具入れなら、そんな噂も立ちにくいよね」

 ユウヤは笑った。

「キョウコ先輩まさか、疑っているんですか? 自分を?」

 キョウコはスクールバッグから取り出したものか、タンブラーを両手で持っていた。中身を胃に流し込み、満足気に白い吐息をくゆらせた。

「あくまでも噂は噂。掃除用具程度がひとつふたつ無くなったところで、この学校で気に留めるのは掃除当番の生徒くらいだ」

 ユウヤは少しむっとした。

「だから、自分がここから持っていくと?」

 キョウコはタンブラーをくるくると回し、弄りながら言った。

「違うのかな?」

 彼女の涙っぽい眼を向けられて、ユウヤはため息をつき、額に手を当てた。

「自分が……それも馬鹿馬鹿しい話ですけど、犯人だとして、まず動機がないじゃないですか。なんのために箒を集めるんですか」

 キョウコはもったいぶるように言った。

「それはきみが一番よく分かっているんじゃないかな、ユウヤ君」

 ユウヤは眉間に皺をつくる。

「何だっていうんですか?」

 キョウコは、んふふと意地悪そうに笑った。

「たとえば、床に散らばった猫砂を掃除するためとか」

 ユウヤははっとして下を見た。ここに来る途中、足下に感じていた違和感の正体を見つけた。その瞬間、十二分に気温の低いこの場が、キョウコの「ほらね」という言葉で殊更増幅されたかのように、ユウヤは全身から血の気が引くのを感じた。

 両手を挙げ、かぶりを振るのは、彼の精一杯の自己主張だった。

「最初にここにきた理由を当てられた時に、さっさと箒を取って退散すれば良かったですね」ユウヤはため息をついた。「よく気付きましたね」

 キョウコは積まれた漫画本を、スクールバッグに収めながら言った。

「眼は良いほうなんだ」

 ユウヤは渇いた笑いを出した。

「なぜこれが猫砂と分かったんですか」

 彼女は横目でちらりとユウヤを一瞥し、くすりと笑った。

「右手の絆創膏は、猫ちゃんに引っかかれてできたものじゃないかな」

 ユウヤはどきりとし、右手を抑えた。

 漫画本を収め終えると、彼女は机を降りた。

「さて、猫ちゃんのところへ行こうか」

 ユウヤは観念したように笑った。

「学校で飼っている事も、お見通しですか」

「開かずの教室のうちのひとつは、きみが箒でつっかえ棒を作ったものだろう?」

 座っているとそうは感じなかったのだが、キョウコはユウヤよりもずっと背が小さかった。おまけに、マフラーとコートの上からでも分かるほどのやせ型だった。

 ユウヤは皮肉を込めて言った。

「自分がもし、バレたと知れて、襲いかかるような人間だったらどうするんですか?」

 キョウコは紅いマフラーを整えながら言った。

「最初にいっただろう? わたしは人を見る目はあるんだ」思い出したように付け加える。「それに、猫好きに悪い人はいない」

 ユウヤは笑うしかなかった。

「わたしは軽い猫アレルギーだけど」キョウコは鼻をすんと鳴らした。「だけども、猫は大好きだ。さあ早く案内しないと、先生に言いつけちゃうよ? 箒泥棒のユウヤ君?」

 階下で急かすキョウコに、ユウヤは言った。

「キョウコ先輩、声が大きいです」

 彼女はどうやら聞く耳を持ってくれないようだった。

「その猫ちゃんの毛並みは何色かね?」

 

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