老人性健忘症
山中幸盛の孫の一人が、日本人として二人目の国連事務総長に選出された。
その最大の理由は、彼がハーバード大学在学中に書いた論文『国連主導で進めるサハラ砂漠緑地化による世界食糧危機からの脱却プログラム』が世界十六言語で出版され、多くの支持を得たことだといわれている。幸盛の血を引いているにもかかわらず彼は生まれながらの天才だった。
幸盛が昼食後にウトウトまどろんでいると、看護師がやってきて耳元でささやいた。
「山中さん、山中さん、先月お見舞いに来られたお孫さんが正式に国連事務総長になられたみたいよ」
「はあー?」
「いまテレビのライブチャンネルに出てるわ。見る?」
「補聴器はどこだ?」
「座った方がよく見えるわね」
看護師は幸盛の上半身を起こし、枕を腰にあてがった。
「いてて、また避難訓練か?」
「点滴を持ってくるわね、ほら眼鏡」
看護師は幸盛の両手に眼鏡とテレビのリモコンを握らせて部屋を出て行った。
「いったい何を見ろというんだ?」
幸盛は眼鏡をかけてテレビを見た。どこかで見た顔が記者会見をしているようなので、補聴器を耳にセットした。日本人記者の一人がその男に質問した。
「十年前に出された本のあとがきに、国連の仕事をするようになったのは、お祖父さまの影響だと書かれていますが?」
「私が七歳の時に、ユネスコ憲章前文の『戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない』との一節を教えてくれたのが祖父でした」
日本人記者が大げさに目を見開いて確認する。
「七歳の時にですか?」
「はい。その頃の私は、高校入試の問題集を解いて遊んでいましたから」
その時看護師が点滴パックをかかえて戻ってきた。
「山中さん、よかったわね」
幸盛は看護師にたずねた。
「私にそっくりな、あのクソ生意気な若造はいったい何者なんだ?」
* 文芸同人誌「北斗」 第574号(平成23年1・2月合併号)に掲載
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/