第8話「決壊の兆し」
彼の手を握り続けて夜を明かしたあの日から、数日の時間が静かに流れ去った。
熱が下がり意識を取り戻した皇帝は、再び冷徹な仮面を顔に貼り付け、重厚な扉の向こう側へと姿を隠してしまった。
離宮の自室に戻された後、彼からの呼び出しは一度もない。
夜の闇の中で聞いた自分の名前の響きも、膝の上で感じた彼の確かな重みも、すべては幻だったのではないかと疑いたくなるほどの徹底した隔絶だった。
暖炉の火が燃え尽き、冷え切った灰だけが残る部屋で、窓の外の鉛色の空を見つめ続ける。
胸の奥には、彼が必死に隠そうとしている痛みの気配が、見えない糸で繋がっているかのようにかすかに響き続けている。
唐突に、足元の石造りの床が不気味な震動を始めた。
それは地震のような横揺れではなく、大地の底から湧き上がるような、微細で圧倒的な縦の震動だ。
部屋の隅に置かれた水差しの中で水面が激しく波打ち、壁に掛けられた絵画が額縁ごと軋む音を立てる。
空気が急激に重みを増し、見えない巨大な手に胸部を押し潰されるような圧迫感が部屋全体を満たしていく。
窓枠にしがみついて外を見下ろすと、城の敷地内を歩いていた人々が次々と地面に膝をつき、耳を塞いで苦しげにうずくまる姿が見える。
空の色が異常な変化を見せていた。
鉛色だった冬の雲が、まるで内側から炎で炙られているかのように赤黒く変色し、渦を巻いて不気味にうねり始めている。
大気を震わせるほどの低い唸り声のようなものが、城の中心部から四方八方へと放射されている。
重厚な石造りの離宮全体が、その未知の圧力に耐えかねて悲鳴を上げるように微小なひび割れを走らせる。
天井からパラパラと漆喰の粉が舞い落ち、視界を白く濁らせる。
廊下の向こうから、人々の切羽詰まった叫び声や、鎧がぶつかり合う鈍い音が幾重にも重なって聞こえてくる。
部屋の扉に近づき、外の様子を伺おうとした瞬間。
鍵がかけられていたはずの分厚い木製の扉が、目に見えない衝撃波を浴びたように内側に向かって弾け飛ぶ。
蝶番が砕け散り、巨大な木の塊が床を滑って激しい音を立てて壁に激突する。
舞い上がる土煙の向こう側に、城を脱出しようと我先にと廊下を駆けていく貴族や使用人たちの姿が見えた。
彼らの顔には一様に死の恐怖が貼り付いており、誰一人としてこちらの部屋に視線を向ける者はいない。
きらびやかな衣装を引きずりながら、彼らは互いを押し退けて安全な場所へと逃げ惑っている。
廊下に飛び出し、逃げ遅れた使用人の腕を掴んで引き留めようとするが、相手は狂乱したような力でその手を振り払い、足早に視界から消え去っていく。
完全に孤立した空間で、熱風を含んだ突風が回廊を吹き抜ける。
この異常な事態の中心がどこにあるのか、考えるまでもなく理解できる。
皇帝の私室がある本宮の方角から、空気を歪ませるほどの凄まじい熱波が、目に見える波紋となって押し寄せてきているのだ。
彼の体内に封じられていた竜の魔力が、限界を超えて完全に決壊してしまったのだ。
あの日、必死に彼を遠ざけようとした貴族たちの懸念が、最悪の形で現実のものとなろうとしている。
逃げなければ命はないと、全身の細胞が危険を知らせて警鐘を鳴らす。
今すぐ背を向けて城壁の外へ向かえば、この熱波から逃れることができるかもしれない。
しかし、足はその場に縫い付けられたように動かない。
彼の黄金色の瞳の奥にあった、誰にも届かない深い孤独と恐怖の色が、逃げることを許さない。
自分の名前を呼んだあの頼りない声が、巨大な熱波の奥から助けを求めているように聞こえる。
肺いっぱいに熱い空気を吸い込み、決意を固めて前を向く。
逃げ惑う人々の波とは逆行するように、荒れ狂う魔力の中心へと向かって歩き出す。
一歩踏み出すごとに、大気中の熱が皮膚を容赦なく焼き焦がそうと牙を剥く。
呼吸をするたびに気管が焼けるように痛み、目を開けていることすら困難なほどの乾燥した風が網膜を刺す。
それでも、決して立ち止まることはしない。
回廊の石柱が次々とひび割れ、砕けた破片が容赦なく降り注ぐ中を、ただ彼のもとへたどり着くことだけを考えて歩みを進める。
城の奥深くへ進むにつれて、熱はさらに凶暴さを増し、衣服の裾が触れた端から黒く変色してボロボロと崩れ落ちていく。
汗をかくそばから水分が蒸発し、喉は砂漠の砂を飲み込んだように干からびている。
視界が熱による陽炎でぐにゃぐにゃと歪み、正常な空間認識すら奪われていく。
遠くから、獣の咆哮のような、しかし紛れもなく人間の苦悶を含んだ絶叫が鼓膜を激しく震わせた。
彼が今、どれほどの痛みに耐えているのか想像するだけで、足取りを急がせずにはいられない。
誰もいない焦熱の回廊を、ただ一つの魂の救済を目指して、孤独な歩みを進め続けた。




