第7話「夜更けの看病」
冷たい石の床から這い上がってくる冬の冷気が、足の指先からゆっくりと体温を奪っていく。
分厚い毛織物の布を肩から被っていても、体の芯に巣食う微かな震えを止めることはできない。
あの日、黄金色の瞳を持つ皇帝から明確な拒絶の言葉を叩きつけられて以来、時間の感覚はひどく曖昧なものになっている。
窓の外に広がる灰色の空は、朝も昼も夜も同じような重苦しい色合いを保ち続けている。
部屋の隅に置かれた暖炉の炎が薪を食むかすかな音だけが、今の自分を取り巻く世界で唯一動いているもののように感じられる。
喉を通る食事は砂のように味気なく、どれだけ噛み砕いても舌の上にざらついた感触を残すばかりだ。
突き放された瞬間の彼の冷酷な眼差しが、まぶたの裏側に焼き付いて離れない。
床に放り投げられた金貨が硬い音を立てて転がる光景が、何度も何度も頭の中で再生される。
用済みだと言い放つ彼の声の響きが、耳の奥で粘りつくように繰り返されている。
両手で耳を塞いでも、記憶の中の冷ややかな声は容赦なく脳髄を揺らし続ける。
唐突に、分厚い木製の扉の向こう側で複数の重い足音が響く。
金属の鍵が乱暴に鍵穴にねじ込まれ、摩擦音を立てて回される。
勢いよく押し開かれた扉の隙間から、冷え切った廊下の空気が部屋の中へと流れ込んでくる。
そこに立っていたのは、いつも静かで洗練された身のこなしを崩さない銀髪の青年、シオンだ。
しかし、今の彼の姿にいつもの平穏な気配はない。
衣服の肩口は大きく乱れ、青い瞳には隠しきれない焦燥と深い恐怖の色が渦巻いている。
シオンは激しく肩を上下させて呼吸を繰り返し、何かを必死に堪えるように唇を強く噛み締めている。
そのただならぬ様子に、胸の奥で嫌な動悸が跳ね上がる。
シオンは部屋の中へ転がり込むように足を踏み入れると、そのまま床に膝をつき、両手を床にすりつけるようにして深く頭を下げる。
彼の喉の奥から、絞り出すようなかすれた声が漏れ出ている。
言葉の意味はわからなくても、それが誰かの命を繋ぎ止めようとする必死の哀願であることは十分に伝わってくる。
シオンは顔を上げると、自分の胸元を強く掴み、苦しげに顔を歪める動作をする。
次いで、皇帝がいつも身につけている黒い軍服を示すように両手を動かし、そのまま床に崩れ落ちる様子を身振りで伝えた。
皇帝が倒れたのだ。
あれほど強大で、周囲の空気を歪ませるほどの熱気を内包していた彼が、限界を迎えて崩れ落ちたのだという事実が、冷水を浴びせられたように頭を覚醒させる。
突き放された時の悲しみや恐怖よりも先に、彼を助けなければならないという強い衝動が全身の筋肉を弾き飛ばすように動かす。
肩から被っていた毛織物の布を床に落とし、裸足のまま扉へと駆け出す。
シオンは驚いたように目を見開いた後、すぐさま立ち上がって先導するように走り出した。
冷たい石造りの回廊を、足の裏の痛みも気にせずに無我夢中で駆け抜ける。
城の奥深くへ進むにつれて、空気の質が明らかに変わっていく。
肌を刺すような冬の冷気はいつの間にか姿を消し、代わりに息苦しいほどの熱と湿気が空間を満たし始めている。
肺に吸い込む空気が熱を帯び、喉の粘膜を焼け焦がすような感覚を覚える。
廊下の壁に飾られたタペストリーが、熱を孕んだ風に煽られて不気味にうねっている。
皇帝の私室へと続く巨大な両開きの扉の前には、数十人の兵士たちが武器を構えたまま立ち尽くしていた。
誰もが顔を青ざめさせ、扉の隙間から漏れ出す異常な熱気から逃れるように後ずさりを繰り返している。
兵士たちの一人がこちらに気づき、鋭い声で制止の言葉を投げかけてくる。
交差された槍が目の前で壁を作り、行く手を阻む。
しかし、今の自分には彼らを恐れる余裕すらない。
「どいて」
無意識のうちに喉から飛び出した声は、自分でも驚くほど低く、確かな強さを持っていた。
兵士たちがその気迫に一瞬だけ怯む。
そのわずかな隙を突いて、槍の間をすり抜けるようにして重厚な扉の取っ手に手を伸ばした。
取っ手の金属は触れた皮膚が焼け焦げるかと思うほどに熱を帯びていたが、構わず体重をかけて扉を押し開く。
隙間から噴き出した灼熱の突風が、髪を乱し、肌を容赦なく打ち据える。
部屋の中は、まるで火山の火口に迷い込んだかのような凄惨な有様だった。
豪華な絨毯は至る所で黒く焦げ跡を作り、木製の調度品からは白い煙が細く立ち昇っている。
天蓋付きの巨大なベッドの傍らで、皇帝レオニダスは床に倒れ伏している。
彼の体からは、陽炎のように歪んだ高熱の波が絶え間なく放射されていた。
漆黒の髪は汗で額に張り付き、苦痛に歪んだ横顔は血の気を失って蝋人形のように白い。
荒々しく空気を求める呼吸は途切れ途切れで、その胸の上下動は今にも止まってしまいそうなほどに浅い。
焼け付くような空気を押し分けて、彼のもとへと這い寄る。
膝をついた床の石板すらも、熱を蓄えて皮膚をじかに焼く。
彼の傍らにたどり着き、震える両手をその広い背中へと伸ばした。
拒絶された記憶が一瞬だけ指先を躊躇わせるが、彼の苦悶の表情がその迷いを吹き飛ばす。
熱を放つ彼の背中に両手をしっかりと押し当てる。
皮膚の下で暴れ狂う暴力的な魔力の奔流が、手のひらを通して直接叩きつけられる。
その熱量に思わず呼吸を止めるが、逃げずに自分の内側にある静かな波長を彼の中へと注ぎ込んでいく。
冷たく澄み切った水脈を、干上がった荒野に流し込むような感覚を研ぎ澄ませる。
途方もない時間が経過したように感じられる。
手のひらから流れ込む熱が、ほんの少しずつだが確実な温度を下げていく。
レオニダスの体から立ち昇っていた陽炎の揺らぎが収まり、焦げた匂いの奥に隠れていた彼自身の気配が戻ってきた。
暴風のように荒れていた呼吸が、ゆっくりと深く穏やかなリズムへと変わっていく。
それでも彼の体は未だに高い熱を帯びており、油断すればすぐにでも再び魔力が暴走しそうな不安定さをはらんでいる。
姿勢を変え、彼の頭を自分の膝の上に乗せる。
汗に濡れた彼の前髪を指先で優しく梳き、額に触れて熱を確かめる。
彼は深く目を閉じたまま、こちらの体温を貪るように身をすり寄せてくる。
その無防備な仕草は、あの冷酷な皇帝の仮面を被っていた男と同一人物とは思えないほどに幼く、弱々しい。
痛みを堪えるように眉間に寄っていたしわが、指先で撫でるたびに少しずつほぐれていく。
夜の闇が深まり、窓の外から吹き込む風が冷たさを増しても、彼から手を離すことはしない。
やがて、熱に浮かされた彼の唇がわずかに開く。
ひび割れた唇から紡がれたのは、皇帝としての威厳ある命令ではなく、どこか頼りなげな、震えるような微かな音の連なりだった。
「アオイ……」
それは間違いなく、自分の名前を呼ぶ響きだった。
異世界に召喚されてから誰にも呼ばれることのなかった自分の名前が、彼の口からこぼれ落ちたのだ。
胸の奥で何かが静かに弾け、熱い塊となって喉元に込み上げてくる。
突き放したあの冷たい言葉の裏側に、彼自身も耐え難い痛みと孤独を抱えていたのだという事実が、その微かな呼び声から痛いほどに伝わってくる。
彼の熱い手を両手で包み込み、決して離さないという誓いを込めて強く握りしめる。
夜明けの光が窓枠を薄青く染め始めるまで、静寂に包まれた部屋でただ彼の寝顔を見守り続けた。




