第4話「静寂の波長」
突き飛ばされた拍子に地面に擦りつけた手の甲の痛みが、冷たい風に吹かれるたびに鋭く蘇る。
豪華な鳥籠である離宮の自室に戻されてから、すでに何時間もの時が経過していた。
窓の外の空は完全に赤く染まり、やがて深い藍色へと沈み込んでいくのをただ無言で見つめ続ける。
あの黄金色の瞳に浮かんでいた猛獣のような敵意と、それを上回るほどの深い恐怖の色が、何度まぶたを閉じても鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。
彼を助けたいという純粋な思いで伸ばした手は、彼にとってただの脅威でしかなかったのだという事実が、胸の奥に冷たい鉛のような重さを残している。
ふかふかとした長椅子に体を丸め、両腕で膝を抱え込むようにして体温を逃がさないようにする。
部屋の隅に置かれた精巧な細工の施された時計が、規則的な金属音を刻み続けている。
重厚な木製の扉の向こう側で、布が擦れるような微かな足音が立ち止まる気配がする。
金属製の鍵が鍵穴に差し込まれ、重々しい摩擦音を立てて回転した。
分厚い扉がゆっくりと内側へ押し開かれ、廊下の松明のオレンジ色の光が部屋の絨毯に細長い影を落とす。
「……」
そこに姿を現したのは、いつも食事を運んでくる怯えた様子の使用人ではなく、銀色の髪をきっちりと撫でつけた見知らぬ青年だった。
青年は濃紺の簡素だが仕立ての良い衣服を身にまとっており、その立ち居振る舞いには隙のない洗練された気品が漂っている。
青年の瞳は澄んだ湖のような青色をしており、あの皇帝のような肌を焼くほどの熱気も、空気を歪ませるほどの圧迫感も持ち合わせていない。
ただ静かで穏やかな、水面のような平穏な気配だけが青年の周囲を漂っている。
青年は部屋の中央まで静かに歩みを進めると、長椅子で身を縮めているこちらの姿を確認して足を止める。
そして、両手を胸の前で交差させ、深く頭を下げるという、この世界での敬意を示すらしい動作をゆっくりと行った。
青年が顔を上げると、その青い瞳には敵意ではなく、どこか切羽詰まったような悲痛な色が浮かんでいる。
青年は脇に抱えていた古びた革表紙の書物を、部屋の中央にある低い机の上にそっと置く。
こちらに警戒されないように両手を広げて見せ、ゆっくりとした動作で書物のページをめくり始める。
警戒心を解ききれないまま、長椅子から少しだけ身を乗り出して机の上の書物に視線を落とす。
そこには、文字ではなく精密な線画で描かれたいくつかの図解が並んでいる。
最初のページに描かれているのは、天を焦がすような炎を吐き出す巨大な竜の姿だ。
次のページには、その竜の血杯を飲み干す人間の姿が描かれており、その人間の体から激しい炎が噴き出している様子が表現されている。
青年は細く長い指でその炎に包まれた人間を指差し、次に皇帝がいつも身につけているような黒い衣服の特徴を手振りで示す。
言葉は全く通じないが、青年が何を伝えようとしているのか、その必死な身振りから少しずつ理解の糸口が見え始める。
あの皇帝は、竜の血という強大な力をその身に宿しており、その代償として常に内側から体を焼き焦がすような魔力の暴走に苦しんでいる。
青年はさらにページをめくり、炎に苦しむ人間の傍らに、両手を広げて静かに寄り添う別の人物の姿を示す。
その寄り添う人物の周囲には、炎を鎮める水波のような文様が描かれている。
青年はその水波の文様を指差した後、真っ直ぐにこちらの目を見つめ、両手を合わせて懇願するような仕草を見せる。
自分の存在が、あの皇帝の苦痛を和らげる唯一の手段であると、青年は全身全霊で訴えかけているのだ。
あの時、庭園で出会った瞬間に空気を歪ませるほどの熱気が収まったのも、中庭で手を伸ばそうとした瞬間に彼が恐怖に顔を歪めたのも、すべては自分の持つ不思議な波長が原因だったのだと合点がいく。
皇帝は自分の力が人間を傷つけることを恐れ、だからこそ激しい拒絶によって遠ざけようとしたのだ。
青年は突然、床の絨毯の上に両膝をつき、額を床にすりつけるようにして深くひざまずく。
その背中は小刻みに震えており、彼がどれほど皇帝を敬愛し、その苦痛を取り除きたいと切望しているかが痛いほどに伝わってくる。
『わかりました』
言葉が通じないことを承知の上で、心の中でそうつぶやきながら、ひざまずく青年の肩にそっと手を触れる。
青年は驚いたように顔を上げ、こちらの表情から意図を汲み取ったのか、青い瞳から大粒の涙をこぼして何度も頷いた。
青年は立ち上がり、扉の方を手で示して案内するように歩き出す。
夜の冷気が立ち込める石造りの回廊を、青年の背中を追いかけるようにして足早に進む。
回廊の壁に等間隔に掲げられた松明の炎が、風もないのに激しく揺らめき、不規則な影を床に投げかけている。
皇帝の私室へと近づくにつれて、空気が次第に重みを増し、息をするたびに肺が焼け焦げるような熱を帯び始めた。
巨大な両開きの扉の前にたどり着くと、そこにはすでに何人もの兵士や使用人が集まり、恐怖に顔を引きつらせて遠巻きに中を見ている。
扉は半開きになっており、そこから漏れ出す空気は真夏の砂漠のように乾燥し、肌を突き刺すような熱気を含んでいた。
青年が兵士たちを下がらせ、重い扉をさらに大きく開け放つ。
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、凄まじい熱波が全身を打ち据え、思わず目を細める。
広大な部屋の中央にある天蓋付きのベッドのそばで、皇帝はうつ伏せに倒れ込み、苦痛に身をよじっていた。
彼が身につけている白い寝巻きは汗で完全に透け、背中には赤黒い文様のようなものが皮膚の下で不気味に明滅している。
周囲に置かれた木製の家具は熱に当てられて表面が黒く炭化し、床に敷かれた絨毯からは焦げ臭い煙が立ち昇っている。
皇帝の喉の奥から、人間のものとは思えない、獣が引き裂かれるような悲痛なうめき声が途切れ途切れに漏れ出ている。
恐怖で足がすくみそうになるのを必死に堪え、熱を帯びた空気を両手で押し分けるようにして彼へと近づいていく。
一歩進むごとに肌が焼けるように痛み、喉が干からびていくのがわかる。
ベッドの傍らにひざまずき、荒れ狂う魔力の中心にいる彼に手を伸ばす。
あの時拒絶された記憶がフラッシュバックし、指先がわずかに震える。
『大丈夫、もう逃げない』
心の中で強く念じながら、震える両手で皇帝の熱い背中をしっかりと包み込むように触れる。
その瞬間、火の粉が爆ぜるような鋭い痛みが手のひらを襲うが、決して手を離さない。
自分の体の奥底から、冷たく澄んだ水のような感覚が湧き上がり、指先を通して彼の体へと流れ込んでいくのをはっきりと感じる。
波紋が広がるように、荒れ狂っていた熱気がみるみると静まり返り、周囲を包んでいた歪な圧迫感が嘘のように消え去っていく。
皇帝の背中で明滅していた赤黒い文様がゆっくりと色を失い、肌の下へと沈んで見えなくなる。
苦痛に歪んでいた彼の呼吸が、少しずつ深く穏やかなリズムを取り戻し始める。
熱を失った部屋に、静寂だけが降り積もっていく。
ゆっくりと皇帝が顔を横に向け、閉じていたまぶたを重そうに開く。
黄金色の瞳が焦点を結び、目の前にいるこちらの顔をはっきりと捉えた。
その瞳から敵意は消え失せ、代わりに深い安堵と、信じられないものを見るような微かな光が宿っている。
彼から伝わってくる穏やかな体温を感じながら、ただ静かに彼の背中を撫で続ける。
言葉はなくても、波長を重ね合わせたこの瞬間だけは、二人の間にある見えない壁が少しだけ薄くなったような気がした。




