第1話「星降る夜の闖入者」
登場人物紹介
◆アオイ
現代日本からソラリア帝国へと突然召喚された人間の青年。
オメガ。
特別な魔法の力は持たないが、他者の荒れた気配や魔力を静かに鎮める不思議な波長をその身に宿している。
見知らぬ世界に落とされた不安を抱えながらも、他者の痛みを見過ごせない芯の強さと優しさを持つ。
◆レオニダス
ソラリア帝国を統べる皇帝であり、竜の血を濃く引く強大なアルファ。
その身に余るほど膨大な魔力と竜の闘争本能を常に抑え込んでおり、焼かれるような内なる苦痛を冷徹な仮面で隠している。
アオイが自身の「運命の番」であると本能で気づくが、己の力が彼を壊すことを恐れている。
◆シオン
レオニダスに忠誠を誓う側近の青年。
ベータ。
皇帝の抱える苦悩を誰よりも近くで見守り、心を痛めている。
背中から伝わる硬く冷たい感触に、閉じていたまぶたを開く。
視界を覆っていた暗闇がゆっくりと退いていくと、そこには見慣れた部屋の白い天井の代わりに、どこまでも深く澄んだ藍色の夜空が広がっていた。
夜空には大小二つの月が浮かんでおり、それぞれが銀色と淡い金色の光を放って、見知らぬ空間を静かに照らし出している。
身を起こそうとして床に手をつくと、指先が滑らかな石の表面を擦った。
指の腹から伝わるわずかなざらつきと、夜露に濡れた冷たさが、これが夢ではないことを静かに告げる。
上半身を起こして周囲を見渡すと、見上げるほど高い大理石の柱が幾本も等間隔に立ち並び、その奥には白亜の壮大な建造物がそびえ立っている。
精緻な彫刻が施された壁面は月の光を浴びて青白く浮かび上がり、どこからか甘く重たい花の香りが夜風に乗って鼻腔をくすぐった。
自分がなぜここにいるのか、ここがどこなのか、手がかりとなる記憶は頭のどこを探しても見当たらない。
最後に覚えているのは、帰宅途中の夜道で強い光に視界を奪われたことだけだ。
立ち上がろうと足に力を入れると、膝が細かく震えて力が入らない。
足元は裸足のままであり、自分が身に着けている服も見慣れたものではなく、ゆったりとした薄手の白い布を幾重にも重ねたような見知らぬ衣装に変わっていた。
冷たい風が吹き抜けるたびに薄い布が肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。
寒さに両腕で肩を抱きながら、誰かに助けを求めるため、歩き出すことにした。
柱の影から影へと移動しながら、巨大な建造物へと続く大理石の回廊を進む。
周囲は深い静寂に包まれており、自分の素足が石を打つかすかな音と、布が擦れる音だけが耳に届く。
どれほど歩いただろうか、回廊を抜けた先には、色とりどりの植物が茂る広大な庭園が広がっていた。
庭園の小道は白く輝く小石で敷き詰められており、両脇には鋭い剣のような形状の葉を持つ植物や、夜の闇の中で淡く発光する花々が密生している。
歩を進めるごとに、周囲の空気が次第に重みを増していくのを感じる。
ただの気圧の変化ではない、肌の表面を微細な針で無数に刺されるような、特異な圧迫感が全身を包み込み始める。
呼吸をするたびに肺の奥が熱を帯び、目に見えない粘度の高い液体の中を歩いているかのように足取りが重くなる。
空気に混じる甘い花の香りが、いつの間にか焦げた鉄のような鋭い匂いへと変わっていた。
その圧迫感の源を探るように視線を巡らせると、庭園の中央に位置する巨大な噴水のそばに、一つの人影が立っているのが見える。
月の光に照らし出されたその人物は、長身で肩幅が広く、金の糸で複雑な刺繍が施された黒い軍服のような衣服を身にまとっている。
顔はうつむいており表情は読み取れないが、その男の周囲だけ不自然に空気が歪んで見えた。
真夏の舗装路から立ち昇る陽炎のように、男の体から目に見えない強烈な熱と力が放射され、周囲の空間を歪ませているのだ。
男は顔を歪めて片手で額を覆い、もう一方の手で大理石の噴水の縁を強く握りしめている。
堅牢なはずの噴水の縁が、男の握力によって悲鳴を上げるように細かな亀裂を走らせ、砕けた石の粉が月の光に照らされて舞い落ちる。
男の喉の奥から、傷ついた獣のうなり声のような、低くかすれた音が漏れ出ている。
それが、内側から湧き上がる熱を無理やり押し殺している音であることは、言葉が通じなくても容易に理解できた。
男の首筋には太い血管が浮き上がり、黒い衣服の背中は汗で色を濃くしている。
逃げなければならないという生存本能が頭の中で激しく警鐘を鳴らす一方で、苦しむ人間を見捨ててはおけないという衝動が足を前へと動かす。
気づけば、男に向かって数歩近づいている自分がいた。
『大丈夫ですか』
声には出さず、心の中でそう問いかけながら、さらに一歩を踏み出す。
その瞬間、足元の小石が擦れてかすかな音を立てた。
男が顔を跳ね上げ、鋭い視線がこちらを射抜く。
男の瞳は、燃え盛る炎のような鮮烈な黄金色をしていた。
その瞳孔は人間のそれではなく、爬虫類のように縦に細く裂けており、捕食者としての本能をむき出しにしている。
恐怖で心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。
しかし、男がこちらを睨みつけた直後、男を取り巻いていた空気の歪みが、まるで冷水を浴びせられたかのように急速に収まっていく。
焦げた鉄のような匂いが薄れ、周囲の空気が元の清涼さを取り戻す。
男自身もその変化に気づいたのか、黄金色の瞳をわずかに見開き、信じられないものを見るような顔でこちらを見つめていた。
男の粗かった呼吸が次第に落ち着きを取り戻し、噴水の縁を握りしめていた手から力が抜ける。
静寂が戻った庭園で、二人の視線だけが交差している。
「何者だ」
男の口から紡がれたのは、聞いたことのない未知の言語だった。
低く響くその声は、冷たい刃物を喉元に突きつけられたような鋭い威圧感を持っている。
喉がひきつり、声の出し方を忘れたかのように言葉が喉の奥でつっかえる。
後ずさりをしようとした足がもつれ、バランスを崩して地面に膝をついた。
冷たい小石が膝の皮膚をすりむき、鋭い痛みが走る。
男はゆっくりとした動作でこちらへ歩み寄ってくる。
革靴が小石を踏む音が、静かな庭園に一定のリズムで響き渡る。
逃げ出したいのに、黄金色の瞳に縫い付けられたように体が動かない。
男は目の前で足を止め、見下ろすように視線を落としてくる。
近くで見ると、男の顔立ちは彫刻のように整っており、月光に照らされた肌は青白いほどに透き通っていた。
しかし、その瞳の奥には冷たい氷のような拒絶の光が宿っている。
男がゆっくりと右手を持ち上げ、こちらに向かって伸ばしてくる。
首を絞められるのかと身をすくめるが、その手は空中でピタリと止まる。
男の視線が、こちらの首元や手首など、露出している肌を順番にねめつけるように動く。
何かを探っているような、あるいは値踏みをしているような冷徹な視線だ。
しばらくの沈黙の後、男は伸ばしかけていた手を下ろし、顔をしかめる。
そして、吐き捨てるように短く言葉を発する。
言葉の意味はわからないが、そこに込められた感情が明確な拒絶と不快感であることは伝わってきた。
男は背を向け、黒いマントを翻して歩き去っていく。
残された庭園には、風が草木を揺らす音と、遠ざかっていく革靴の足音だけが響いている。
恐怖と安堵がないまぜになり、その場にへたり込んだ。
自分が途方もない場所に来てしまったのだという現実が、冷たい夜風とともに骨の髄まで染み込んでくる。
冷え切った両手で自分の腕をさすりながら、男が去っていった暗がりをただ見つめている。
夜空に浮かぶ二つの月は、そんなこちらの戸惑いを気にする様子もなく、ただ静かに冷たい光を降り注ぎ続けていた。




