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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』~リメイク~  作者: アリス・リゼル


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第1話『砂場の卵焼き』 ~section5:期待と、絞首刑~

 ステラ・レジデンス月見坂。

 地上五十階建て、最高部およそ百六十メートル。新市街の中央ブロックにおいて、周囲の景観を完全に圧迫するようにそびえ立つその巨大な建造物は、如月コンツェルンが投じた莫大な資本と、最先端の建築工学の結晶であった。

 外壁の全面を覆うLow-E複層ガラスは、太陽光の赤外線と紫外線を極限まで反射し、建物の内部に対する熱エネルギーの干渉を徹底的に遮断しながら、夜の街のネオンを冷酷なまでに美しく、そして無機質に映し出している。数万トンに及ぶ巨大な質量を支える地下の免震構造は、地震波による巨大な運動エネルギーを積層ゴムとダンパーによって熱エネルギーへと変換して吸収し、ビル風という流体力学的な応力ストレスに対しても、高度な空力設計によって微動だにしない絶対的な安定性を誇っている。


 大理石の床に倒れ伏していた僕は、荒い呼吸を整えながら、乳酸で硬直した大腿四頭筋と下腿三頭筋に無理やり神経パルスを送り込み、よろよろと立ち上がった。

 目の前には、圧倒的な物理的質量を持ったタワーマンションのエントランスが、特権階級の住人を飲み込むための巨大な口を開けている。

 そしてその傍らには、漆黒のリムジン、マイバッハの横で直立不動の姿勢をとる、最強のボディーガードである黒田さんの巨体があった。


「黒田。お主はここで待機しておれ」


 如月瑠璃は、純銀のグリップを持つ黒檀のステッキを右手に握り、ボルドーのベルベット・ケープを夜風に翻しながら、背後の巨漢へと静かに指示を出した。


「この先は、物理的な暴力による制圧ではなく、高度な論理と情報を用いた交渉領域じゃ。お主のその過剰に発達した大胸筋と僧帽筋が放つ威圧感は、対象者の大脳辺縁系に不要な恐怖と警戒心というノイズを与える。車内で待機し、エンジンオイルの温度とタイヤの空気圧でも管理しておくがよい」


「はっ。承知いたしました、お嬢様。……光太郎さん、くれぐれもお嬢様の御身をお守りください」


 黒田さんは深く一礼し、リムジンのドアの傍らに静かに控えた。僕は、自分の疲労困憊でボロボロの肉体では、防弾シールドの代わりにも、コンクリートの壁の代わりにもならないと自嘲しながら、如月さんの気高い背中を追ってエントランスへと足を踏み入れた。


 自動ドアを抜けた先のエントランスホールは、外部の気温や湿度から完全に遮断された、温度二十二度、湿度五十パーセントに維持された無菌室のような空間だった。

 数十メートルはある吹き抜けの天井からは、複雑なカットが施されたバカラ製の巨大なシャンデリアが下がり、床には一切の塵も許さないまでに磨き上げられた大理石が、精緻な幾何学模様を描いている。


 しかし、その豪奢で広大な空間をエレベーターホールへと隔てるように、強固な物理的・電子的障壁であるセキュリティ・ゲートが立ち塞がっていた。

 静脈の分岐パターンを読み取る生体認証、網膜の毛細血管を走査する虹彩スキャン、そして最新鋭のAIコンシェルジュによる数万点の顔面特徴点抽出システム。居住者としてデータベースに登録されていない個体の物理的な侵入を、分子レベルで拒絶するような鉄壁の防御システムだ。


「如月さん、ここは……流石にコンシェルジュのAIを誤魔化すのは無理じゃありませんか? 訪問先の居住者からのアクセス許可がないとゲートの物理ロックは解除されませんし、アポなしで佐伯浩介の部屋番号を押しても、不審なノイズとしてセキュリティに弾かれるだけです」


「愚鈍な。力業での突破や、電子的なハッキングなど、わしの美学に著しく反する。そのような三流のクラッカーが用いる手段は、真理の探求に対する冒涜じゃ。……交渉の基本は、相手の構築したアルゴリズムに対して『絶対に無視できない致命的なエラーコード』を挿入し、システムの内側から自発的に扉を開かせることにあるのじゃよ」


 如月さんは、ガラスのゲートの横に設置された、金属光沢を放つコンシェルジュ・パネルへと歩み寄り、一切の躊躇なく通信ボタンを押した。

 高精細なディスプレイに、ホログラムで構成された極めて美しい女性のAIアバターが映し出される。


『ステラ・レジデンス月見坂へようこそ。ご用件をお伺いいたします』


「最上階、ペントハウスの居住者である佐伯浩介の端末へと取り次げ。用件は『明日の星華学園の選抜模試に関する、重大な物理的欠損の報告』じゃ」


 如月さんの声は、一切の淀みがない、絶対的な真理を告げるトーンだった。


『……申し訳ございません。佐伯様は現在、外部からの一切の面会および通信をシステムレベルで拒絶する「プライバシー・モード」を設定されております。人命に関わる緊急の要件でなければ、通信の確立は……』


「これがその緊急の要件じゃ。佐伯浩介の端末に対し、この一言だけを音声データとして直接送信せよ。『月見亭の卵焼きに込められた、黄色いゲン担ぎの供物は、無惨にも深夜の砂場に遺棄されていた。この不純物を今すぐ回収しなければ、明日の子息の精神的パラメーターに致命的な瑕疵(かし)が生じる』……と。さあ、送信するのじゃ」


 コンシェルジュAIは、入力された音声データの特異性と、そこに含まれる『居住者の極めて個人的な不利益を示唆するキーワード』の重要度を瞬時に演算した。数秒の処理遅延の後、AIの表情が機械的な微笑みから、わずかに緊迫したモードへと切り替わる。


『……例外処理を実行。指定された音声データを居住者のメイン端末へと送信しました。…………佐伯様より、ゲートの通過許可が下りました。メインエレベーターのセキュリティ・ロックを解除します』


 カシャン、という微かな電子音と共に、分厚い強化ガラスのゲートが左右に滑らかに開いた。

 僕は、彼女のソーシャル・エンジニアリング――人間の情動の最も脆弱な部分を突いた完璧な論理の暴力に、改めて背筋が凍る思いがした。

 佐伯は今、『自分しか知らないはずのゲン担ぎの卵焼き』という秘匿情報、しかもそれが『遺棄されていた』という絶望的な事実を突然突きつけられ、大脳辺縁系が完全にパニック状態に陥っているはずだ。


 僕たちは、防音材と制振材が幾重にも組み込まれた超高速エレベーターの箱の中へと乗り込んだ。

 扉が閉まると同時に、リニアモーター駆動の凄まじい推進力が、僕たちの肉体を上空へと一直線に押し上げる。床からの垂直抗力が増大し、足の裏に自分の体重以上の重みがのしかかる。

 高度の上昇に伴って気圧が急激に低下し、鼓膜が内側から押される不快感――いわゆる『耳ツン』が僕を襲った。僕は何度か唾を飲み込み、耳管を開いて中耳の気圧を外部と同期させる。

 わずか数十秒の間に、僕たちは海抜ゼロメートルの旧市街から、地上百六十メートルの特権階級の領域へと、物理的にもカースト的にも急上昇を果たした。


 チーン、という澄んだ電子音と共に、最上階(ペントハウス)の扉が開いた。

 エレベーターホールから続く廊下には、足音の周波数を完全に吸収する毛足の長い高級絨毯が敷き詰められ、壁面に埋め込まれた間接照明が、冷たくも高級感のある光を放っている。五十階という高所にも関わらず、風切り音や建物の揺れを示す不快な振動は一切感知できない。

 完璧な静寂。

 それは、富と権力が生み出した、究極の『ノイズレスな空間』だった。


 如月さんは、迷うことなく廊下の突き当たりにある、重厚なウォールナット材の扉の前へと進み出た。

 扉の横には、カメラ付きの最新式インターホンが設置されている。

 しかし、彼女はその電子的な呼び鈴のボタンを押そうとはしなかった。


 彼女は、右手に持った純銀のグリップのステッキの石突きを、ウォールナットの扉の表面へと向けた。

 そして、手首のスナップを正確に効かせ、扉を『物理的に』叩いたのだ。


 コン、コン、コン。


 硬質な物理的打撃音が、ノイズレスな最上階の廊下に、異物のように響き渡る。

 電子回路を通じた無機質なチャイムではなく、あえて物質と物質がぶつかり合うアナログな振動を空間に発生させること。それは、如月瑠璃という絶対的な鑑定士が、この完璧なスマートシティのシステムに対する『意志あるノイズ』として、自らの存在を誇示する儀式でもあった。


 数秒後。

 分厚い扉の奥から、重く、引きずるような足音が近づいてくるのが聞こえた。

 電子ロックが解除され、扉がゆっくりと内側へと開かれる。


「……君たちは、誰だ。さっきの、卵焼きの通信は……」


 隙間から顔を覗かせたのは、三十代後半の、仕立ての良いシルクの部屋着に身を包んだ男性だった。

 彼がアーク・コンサルティングのシニアマネージャー、佐伯浩介。

 年齢の割には若々しい顔立ちだが、その目元には深刻なメラニン色素の沈着――濃い隈が浮かんでおり、眼球には無数の毛細血管の充血が見られた。

 大脳の扁桃体が慢性的なストレスを危険信号として感知し、副腎皮質からコルチゾールが過剰に分泌され続けていることによる、自律神経系の著しい失調症状だ。

 エリートという社会的地位を保ちながらも、彼の精神は、来るべき明日の星華学園の模試に対する狂気的な重圧によって、千切れそうなほどに摩耗していた。


「わしは如月瑠璃。こっちは助手じゃ」


 如月さんは、一切の躊躇なく名乗りを上げ、佐伯のアメジストの瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「佐伯浩介。お主が今朝、旧市街の月見亭において、職人の情熱を金銭で買い叩き、魔術的思考によって用意した『卵焼き』。……そのルーツを解体し、真理を提示するために、わしはここへ来た」


「如月……あの、如月コンツェルンの令嬢か……!」


 佐伯の目が、極限の驚愕に見開かれた。月見坂市において、如月家の名を知らない人間はいない。それがなぜ、自分の個人的なゲン担ぎの卵焼きに関与しているのか。彼の脳内は、情報のオーバーフローによって完全にキャパシティオーバーを起こしているようだった。


「……とにかく、中へ入ってくれ。こんな廊下で聞かれたら、他の住人の噂になる」


 佐伯は周囲の空間をひどく警戒するように廊下を見回し、僕たちを招き入れた。他者の評価や世間体というパラメーターを異常なまでに気にする、エリート特有の悲しい防衛本能だ。


 僕たちが足を踏み入れた佐伯家のリビングは、広さ五十畳は下らない、圧倒的な大空間だった。

 壁一面のハイサッシからは、月見坂市の光の海――数百万のLEDが織りなす完璧な夜景が一望できる。

 しかし、その空間は、およそ『家族が暮らす家』という温もりからは完全に断絶されていた。

 ガラスのテーブル、本革の冷たいソファ、大理石の床。ステンレスのシステムキッチン。配置されているすべての高級家具が、幾何学的な直線を基調としており、ホコリ一つ、指紋一つ付着していない。

 それはまるで、人間の生活臭を徹底的に排除した、無機質なモデルルームそのものだった。


 そして。

 その巨大なリビングの片隅。ガラスのテーブルに向かい、不自然なほどの静寂を保って座っている、一人の少年の姿があった。


「翔太。……勉強の手を止めるな。明日の模試は、お前の今後の人生の軌道を決定づけるんだぞ」


 佐伯が、神経質に甲高い声で少年に声をかけた。

 翔太と呼ばれたその少年は、十歳か、十一歳くらいだろうか。一流ブランドの質の高い子供服を着せられているが、その背中は極端に丸まり、手元のタブレット端末に表示された複雑な図形問題を、虚ろな目で見つめていた。


 瞳の焦点が合っていない。

 タブレットから発せられるブルーライトが、彼の青白い顔を無機質に照らしている。彼は瞬きの回数が異常に少なく、まるで大脳皮質の情報処理機能が意図的にシャットダウンされているかのような、精神的な『過緊張』状態に陥っていた。

 これが、親の狂気的な期待という名の物理的質量を、小さな両肩で受け止め続けてきた子供の末路。


「……さて。無駄なプロトコルは省き、真実の解体を始めようか」


 如月さんは、冷たい本革のソファに座ることもなく、リビングの中央に立ち、ボルドーのケープの懐から、あの透明なポリマー製の密閉ケースを取り出した。

 そして、ガラスのテーブルの上、翔太のタブレットのすぐ隣に、それを音もなく置いた。


 ケースの中に封入された、砂と泥にまみれた一切れの黄色い卵焼き。

 無機質で完璧なこのペントハウスにおいて、その不純物の存在は、あまりにも醜悪で、グロテスクなコントラストを描き出していた。


「なっ……! そ、それは……!」


 佐伯が、信じられないものを見るように、眼球をひん剥いてケースを指差した。


「わしが、南公園の砂場の幾何学的な中心で発見したものじゃ。佐伯浩介。お主は昨日、この卵焼きを特別に注文し、息子の明日の試験のための『ゲン担ぎ』として、彼の弁当に詰めた。あるいは、強制的に食べさせようとした。そうじゃな?」


「……あ、ああ。そうだ。星華学園のSクラスに入るためには、やれることは何でもやらなきゃいけない。月見亭の卵焼きは、絶対にツキを呼ぶって……俺は、高い金を払って、翔太のために……」


「その『翔太のため』という身勝手な質量の押し付けが、この悲惨な結果を生み出したのじゃ」


 如月さんの氷のような声が、タワーマンションの冷房の効いた空気をさらに凍てつかせた。


「佐伯。お主のその極限の重圧は、翔太の精神をすでに弾性限界まで追い詰めておった。……翔太。お主が、この卵焼きを深夜の公園に廃棄したのじゃな?」


 如月さんの言葉が、タブレットの画面を見つめていた翔太の鼓膜を打った。

 少年の肩が、ビクッと跳ねた。

 虚ろだった彼のアメジストのような瞳に、急速に『恐怖』と『罪悪感』という情動の波紋が広がり始める。


「翔太……? お前、パパがせっかく買ってきてやった卵焼きを、捨てたのか……? あんなに、お前のために……!」


 佐伯の顔が、怒りと裏切られたような絶望で歪む。

 しかし、如月さんは純銀のステッキで床を軽く叩き、佐伯の言葉を制止した。


「喚くでない、愚か者。……翔太。わしは、お主を責めるために来たのではない。物質に刻まれたルーツを読み解き、この事象の真理を証明するために来たのじゃ。……お主はこれを『捨てた』のではない。そうじゃな?」


 如月さんの瞳が、少年の心の奥底にある、誰にも言えなかった重い泥を掬い上げるように見つめた。


「重圧という物理的質量に耐えきれず、深夜に家を抜け出し、お主は南公園の砂場にこれを遺棄した。……しかし、お主はこれをゴミ箱に捨てたわけではない。わざわざ砂場の中心に、綺麗に『隠した(埋めた)』のじゃな?」


 その言葉を聞いた瞬間。

 翔太の過冷却状態だった精神が、一気に融解の臨界点を迎えた。

 交感神経の緊張が解け、副交感神経が優位に立ったことで、彼の涙腺から大粒の涙がボロボロと溢れ出し、冷たいガラスのテーブルへと落ちていく。


「……う、うわああぁぁぁんっ!!」


 少年は、顔を両手で覆い、まるで張り詰めていた糸が完全に切断されたように、しゃくり上げながら泣き崩れた。五十畳の広いリビングに、子供の悲痛な泣き声が木霊する。


「パパが……僕のために、買ってきてくれたのは、わかってた……! 月見亭の卵焼きを食べれば、絶対に受かるんだって、パパが笑って言ってくれたから……!」


 翔太は、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、肺の奥から絞り出すように告白を始めた。


「でも……僕、もう……食べられなかったんだ。卵焼きが、すっごく重くて……これを食べたら、明日のテストで絶対に失敗できなくなるって思ったら、怖くて、怖くて……胃が気持ち悪くなって……」


 極限のストレスが交感神経を異常に興奮させ、胃腸の蠕動(ぜんどう)運動を完全に停止させていたのだ。物理的に、彼の消化器官は固形物を受け付ける状態ではなかった。


「ゴミ箱に捨てようとしたけど……パパが僕のために買ってきてくれたものを、生ゴミとして捨てるなんて、できなかった。だから……だから、パパの目を盗んで、夜の公園に行って……砂場に、お弁当箱ごと埋めたんだ……! ごめんなさい、パパ、ごめんなさい……っ!」


 翔太の告白は、佐伯の心臓を凄まじい物理的質量で打ち据えるのに十分すぎた。

 佐伯は、息子の泣き叫ぶ姿を前にして、自分が『良かれと思って』積み上げてきた教育とプレッシャーが、いかに息子の精神を破壊し、食事すら喉を通らない状態にまで追い詰めていたかを、ついに理解したのだ。


「翔太……お前、そんなに……。俺は、ただ、お前の将来のために……」


 佐伯は、精気を失ったように膝から崩れ落ち、大理石の床に両手をついた。

 彼の目からも、後悔と絶望の涙がこぼれ落ちる。


 僕は、その痛ましい親子の姿を見て、胸が強く締め付けられるような思いだった。

 スマートシティの最上階。すべてを手に入れたかのように見える特権階級の家庭が、たった一切れの卵焼きのルーツを追う過程で、その内実の崩壊を完全に暴露されてしまったのだ。


「……共感はせんが、事実の解析結果だけは告げておこう」


 如月瑠璃は、泣き崩れる親子を見下ろしながら、氷のように冷徹な、しかしどこか絶対的な救いを含んだ言葉を紡ぎ出した。


「佐伯。翔太は、お主の重圧に耐えかねて卵焼きを廃棄した。だが、これを単なる『生ゴミ』としてダストシュートに落とせば、証拠隠滅は最も容易であったはずじゃ。……それをわざわざ、自らの手で砂場を掘り、地中に『隠した(埋めた)』」


 如月さんは、ガラスのテーブルの上の密閉ケースを、純白の手袋で指し示した。


「心理学的なパラメーターにおいて、モノを『捨てる』という行為は、対象との完全な関係の断絶を意味する。しかし、『埋める』という行為は、物質を視界から消去しながらも、その空間座標に存在を保存しようとする無意識の表れじゃ。……翔太は、お主の愛情という重圧から逃れたかったが、お主が自分に向けてくれた『情熱』そのものを完全に棄却することはできなかった。だから、砂場に埋めて、保存しようとしたのじゃ。……これは、お主への確かな情動の証明じゃよ」


 捨てたのではなく、埋めた。

 そのわずかな物理的行動の差異の中に、如月さんは『情動の視座』を用いて、親子の関係性が完全に破綻してはいないという、確かな絆の残骸を見出してみせたのだ。

 佐伯は、如月さんの言葉を聞いて、嗚咽(おえつ)を漏らしながら、泣き崩れる翔太の小さな背中を強く抱きしめた。

 完璧な無機質の部屋に、不完全で泥臭い、人間の温かな涙の温度が広がっていく。


(……これで、一件落着だな)


 僕は、乳酸で重い足を少しだけ休ませ、深く安堵の息を吐き出した。

 一個の卵焼きが結んだ、職人の情熱、エリート父親の歪な愛、そして息子の絶望と情動。

 すべての謎は論理的に解明され、親子の関係は、最悪の崩壊を迎える前に、如月さんの冷徹なメスによって再構築の機会を与えられた。


 ――しかし。

 僕がそう確信して、安堵に包まれていた、まさにその時であった。


 泣き崩れる親子の姿を背にして。

 如月さんの、あの真理の裏側を射抜くアメジストの瞳が、親子から完全に視線を外し、巨大なリビングの奥――ステンレスで統一されたシステムキッチンの方向へと向けられていた。


 彼女の瞳孔が、僅かに収縮する。

 僕はその異変に気づき、彼女の視線の先を追った。


 キッチンのカウンターの上。ステンレス製の水切りカゴの中。

 そこには、綺麗に洗浄され、表面の水分を弾いている『ある物体』が置かれていた。

 それは、プラスチック製の、子供用の弁当箱だった。

 しかし、そのサイズは、僕が普段使っているような一般的なものよりも、明らかに『二回りほど小さな、予備のタッパー』のような形状をしていた。


 如月さんの唇が、音もなく微かに引き結ばれる。

 彼女の研ぎ澄まされた物理的観察眼が、その『小さな弁当箱』という新たな不純物を捉え、脳内で構築されたはずの完璧な因果律の数式に、決して無視することのできない『重大な矛盾』が生じたことを告げていた。

 アメジストの瞳が、獲物を狙う猟犬のように、鋭く、そして冷酷な光を放って、その小さな弁当箱を見据えていた。



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