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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』~リメイク~  作者: アリス・リゼル


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第1話『砂場の卵焼き』 ~section3:職人の情熱と、歪な注文~

 新市街から旧市街へと至る、標高差百五十メートルの狂気的なダウンヒル。そして、海沿いの平坦で劣悪な路面を自らの筋力のみで突き進むという物理的な拷問を終え、僕は限界まで酷使された大腿四頭筋から発せられる強烈な痛みと、嫌気性解糖による乳酸の蓄積が引き起こす筋肉の硬直に耐えながら、よろよろとアスファルトから身を起こした。


 新市街の、光触媒コーティングと巨大な空気清浄システムによって徹底的に濾過された無菌室のような環境から、海抜ゼロメートルの港湾地区へと物理的な空間座標を移動させたことで、僕を取り巻く大気の成分は劇的な変化を遂げていた。

 暗い海から吹き込む冷たい春の夜風が、塩化ナトリウムの微粒子と、海洋プランクトン由来のジメチルスルフィドという極めて生々しい磯の匂い成分を運んでくる。そして、それ以上に僕の嗅覚受容体を強烈に刺激していたのは、目の前にある古びた店舗から漏れ出す、圧倒的な『生活と労働の匂い』であった。


色褪せたオレンジ色のトタン屋根。

 風雨と紫外線の長年の曝露によって塗料の高分子結合が破壊され、白亜化(チョーキング)を起こしたモルタルの外壁。

 そして、その中央に掲げられた『手作り弁当 月見亭』という、無骨な手書きの看板。


 店舗の入り口には、かつては純白であっただろう木綿の暖簾(のれん)が掛かっている。しかし現在、その暖簾は長年にわたって大気中に放出されたエアロゾル状の油脂を繊維の奥深くにまで吸着し、空気中の酸素と結合して酸化・重合を繰り返した結果、深い琥珀色へと変色し、特有の重みとベタつきを持った物理的な層を形成していた。


「さあ、サクタロウ。お主が自らの運動エネルギーを対価として切り開いた、真理への入り口じゃ。お主の手でその物理的障壁を排除するがよい」


 如月さんは、ボルドーのベルベット・ケープの裾を夜風に揺らしながら、純白の綿手袋に包まれた手で、油染みた暖簾を指し示した。

 彼女が乗ってきた漆黒の専用車は、この猥雑(わいざつ)で有機的な旧市街の景色の中において、まるで異次元から転送されてきたブラックホールの表面のように、周囲のわずかな光を冷酷に吸い込んでいる。


 僕は浅く速い呼吸を整え、乳酸で重くなった腕を上げて暖簾をくぐり、木枠の引き戸に手を掛けた。

 戸車とレールの間の潤滑油が完全に失われ、著しい動摩擦係数が発生している引き戸に力を込める。ガラララッ、という建付けの悪い軋み音と共に、僕と如月さんは月見亭の店内へと足を踏み入れた。


 その瞬間。

 僕の前頭葉は、空間に充満する圧倒的な化学情報の濁流によって、一時的なフリーズを引き起こした。


 ここは、匂いの『地層』が無限に重なり合った、極めて高密度な空間だった。

 アミノ酸と還元糖が熱反応を起こすメイラード反応の、脳髄を直接焦がすような甘香ばしさ。

 高温に熱された植物性油脂が、食材の水分を一気に蒸発させる際に発生する微小な油の飛沫。

 醤油のアルコール成分と有機酸が揮発し、鰹節のイノシン酸、昆布のグルタミン酸という強烈なうま味成分と結びついて大気中を漂っている。

 それらの化学物質が、長年の営業によって壁紙の繊維の奥深くにまで浸透し、決して拭い去ることのできない歴史の質量となって店内に強固に定着していた。


 店舗の客用スペースは極めて狭小だった。

 客が立つためのコンクリート打ちっ放しの土間は二畳ほどしかなく、すぐにガラス張りの古いショーケース付きのカウンターが立ち塞がっている。その奥が、熱気と油の支配する厨房だ。

 天井から吊るされた蛍光灯の波長が、壁に染み付いた油膜に乱反射し、店内全体をセピア色のフィルターを通したような独特の暖かな色調で染め上げている。


「いらっしゃい。悪いね、今日はもう、唐揚げ弁当と海苔弁当しか残ってないよ」


 厨房の奥から、太く、そしてよく響くバリトンの声が飛んできた。

 声の主は、年齢は五十代半ばほどの、筋骨隆々とした男性だった。頭には白いタオルをきつく巻き、厚手の綿のエプロンには、長年の戦場――厨房での格闘の痕跡である無数の油染みと焦げ痕が地図のように刻まれている。

 そして何より僕の目を引いたのは、カウンター越しに見えた彼の手だった。前腕の筋肉は毎日の重労働によって鋼のように発達し、手の甲や腕には、高温の油が跳ねて表皮組織に熱傷(やけど)を負わせた痕跡――ケロイド状の小さな傷跡が、職人の勲章のように無数に点在していた。


 彼こそが、この旧市街で長年弁当屋を営み、如月さんがその技術を『極限まで高められている』と評した月見亭の店主だ。


「……おや」


 店主は、カウンター越しに僕と如月さんの姿を視界に収め、その太い眉をピクリと動かした。

 無理もない。汗と泥にまみれ、息も絶え絶えのボロボロの男子高校生と、一塵の汚れもなく、深いエメラルドグリーンのベルベット・ワンピースにボルドーのケープを羽織った、およそこの世のものとは思えない気品を放つ圧倒的な美少女。

 この油染みた旧市街の弁当屋において、これほど文脈(コンテクスト)から逸脱した二つの質量の組み合わせは、存在すること自体が物理的なバグであった。


「お客さん、道でも迷ったのかい? ここらじゃ見ない身なりのお嬢さんだが」


店主は訝しげな視線を如月さんに向けながら、手元の布巾で厨房のステンレス台を拭き続けた。


 如月さんは、店主の言葉に対する社交辞令的な返答を一切省略し、静かに、しかし絶対的な存在感を伴ってカウンターの前へと歩み出た。

 そして、純白の綿手袋に包まれた左手をケープの懐へと滑り込ませ、一つの透明なポリマー製の密閉ケースを取り出した。


 コトリ、と。

 無数の細かい傷が刻まれたカウンターのガラス天板の上に、そのケースが置かれた。


 ケースの中には、旧校舎の図書室のマホガニー・テーブルの上で検分されていた、あの『砂まみれの卵焼き』が、水分の蒸発と腐敗を防ぐための不活性ガスと共に厳重に封入されていた。


「単刀直入に用件のみを伝達する。弁当を買いに来たわけではない。わしは、この『不純物』のルーツを辿り、現在この空間座標へと到達した。……店主。この卵焼きの熱力学的な調理痕と、出汁の含有率、そして微量のリンゴ酢の配合によるpH調整の痕跡は、間違いなくお主の技術によるものじゃな」


 如月さんの氷のように冷徹で、感情の起伏を一切排した声が、油の匂いが充満する店内の空気を鋭く切り裂いた。


 店主は、怪訝な表情のまま、ケースの中の物体へと視線を落とした。

 その瞬間。

 彼の大脳皮質が、網膜から送られてきた視覚情報を処理し、『自らが精魂込めて焼き上げた料理が、泥と砂に塗れ、無惨な廃棄物のような状態で提示されている』という物理的事実を認識した。


 僕の目にも明らかなほど、店主の肉体に劇的な生理学的な変化が起きた。

 交感神経系が爆発的に発火し、副腎髄質から大量のアドレナリンとノルアドレナリンが血中へと放出される。心拍数が急上昇し、頸動脈の血流が増大することで、彼の日に焼けた太い首の血管がはっきりと浮き上がった。毛細血管の拡張により、顔面が急速に赤みを帯びていく。


 それは、誇り高き職人が自らの魂を侮辱されたと感じた際に発生する、純粋で、圧倒的な『怒り』という情動の熱量であった。


「……あんた。一体何の真似だ、それは」


 店主の声は、先ほどの陽気なバリトンから数オクターブ下がり、地鳴りのような低い周波数の震えを伴っていた。


「見ず知らずのガキが、店に乗り込んできて。俺が朝早くから起きて、出汁を引いて一本一本焼いた卵焼きを……そんな砂まみれのゴミみたいにして見せびらかしに来たのか!? 食べ物を粗末にするにも程があるぞ! 帰れ! あんたらに売る弁当はねえ!!」


 バンッ!!


 分厚い掌がステンレスの調理台を激しく叩き、その強烈な物理的衝撃音が店内に反響した。

 僕はその圧倒的な音圧と怒気(熱量)に完全に気圧され、反射的に首をすくめて後ずさってしまった。旧市街で生き抜いてきた大人の本気の怒りは、平和で完璧なスマートシティの温室で育った僕の精神的キャパシティを容易く凌駕していた。


 しかし。

 至近距離でその怒声と衝撃音を正面から浴びた如月瑠璃の姿勢は、数ミリたりとも揺るぐことはなかった。

 彼女のアメジストの瞳は、激高する店主の顔を、まるで燃焼するガスバーナーの炎の温度変化を観察する物理学者のように、極めて冷徹に、そして静かに見つめ返していた。


「感情の閾値(いちき)を下げ、自律神経の暴走を物理的に抑制するがよい、店主。わしは、お主の労働の結晶を愚弄するために、わざわざこの座標まで足を運んだわけではない」


 如月さんの声には、怒りに対する反発も、恐怖による萎縮も、微塵も含まれていなかった。

 ただ、宇宙の絶対的な物理法則を読み上げるかのような、揺るぎない『真理への確信』だけがそこにあった。


「むしろ逆じゃ。わしは、この砂に塗れた惨状の中から、お主がこの一個の卵焼きに込めた『職人としての極限の情熱』を、完璧に逆算し、読み取ったのじゃよ」


「……何だと?」


 店主の怒りの頂点が、予想外の論理的なカウンターを受けて、わずかに鈍った。


「よく聞くがよい」


 如月さんは、純白の手袋の指先で、ケースの表面を軽く叩いた。


「この卵焼きの断面に存在する、気泡のミクロレベルでの均一性。これは、卵液を流し込む際の銅製卵焼き器の表面温度が、タンパク質が熱凝固を始める摂氏七十五度から八十度の間を、一瞬の狂いもなく維持し続けなければ絶対に形成されない物理的構造じゃ。お主は、水分の多い卵液が銅の表面から奪う蒸発熱を、コンロの火力を微小に調整することと、手首のスナップによる空間での放熱を組み合わせることで、完璧にコントロールしておる」


 店主の目が見開かれた。

 彼の呼吸が、先ほどの怒りによる荒いパンティングから、驚愕による無意識の息止めへと移行する。


「さらに、味覚の化学分析じゃ。鰹のイノシン酸と昆布のグルタミン酸。一番出汁の旨味を極限まで飽和させたこの卵液は、本来であれば保水性を失い、加熱と同時に出汁が分離して水っぽくなるはずじゃ。しかし、お主はそこに微量の『自家製リンゴ酢』を添加した。クエン酸とリンゴ酸によるpH値の微小な降下が、卵のタンパク質の網目構造を強固にし、スポンジのように出汁の水分を内部に閉じ込める。……冷めても硬くならず、噛んだ瞬間に細胞壁から出汁の旨味が爆発するように計算された、極めて高度な化学結合の操作。……これだけの熱力学的制御と化学的アプローチを、毎朝、数十本という単位で一寸の狂いもなく実行している。……そうじゃな?」


 如月さんの言葉が、店内の油の匂いを切り裂き、店主の鼓膜へと深く、鋭く突き刺さっていく。

 彼女の語る言葉には、一切の共感や感情的な寄り添いはない。

 しかし、そこにあるのは、職人が生涯をかけて研ぎ澄ませてきた『技術』と『物質への理解』に対する、同じ高みにいる者だけが到達できる、究極の『論理的敬意』であった。


 沈黙が降りた。

 店主の握りしめられていた拳から、ゆっくりと力が抜け、深い皺の刻まれた顔に、呆然としたような、そして自らの魂の奥底を完全に覗き込まれたような、圧倒的な驚愕の色が浮かび上がった。


「あんた。一体、何者なんだ。……その卵焼きが砂まみれになってるのを見て、どうしてそこまで、俺の焼き方の秘密が分かるんだ……」


「わしは、モノのルーツを辿る鑑定士に過ぎん。いかに砂に塗れ、汚泥に沈もうとも、そこにある質量の内部に刻み込まれた『物理的な真実』は、決して消去されることはない。……わしには、お主の情熱の痕跡が、ルーペ越しに痛いほどに明瞭に見えておるのじゃよ」


 如月さんのその言葉は、店主の心に何らかの化学的変化を確実にもたらした。

 彼の中で燃え盛っていた怒りの炎――自尊心を傷つけられたという感情の連鎖は、自らの技術を完璧に理解し、言語化してみせたこの謎の少女への『畏敬の念』へと、その位相を完全にシフトさせたのだ。


「悪かったな、お嬢さん。取り乱して、怒鳴っちまって」


 店主は、首に巻いたタオルで顔の汗を拭い、太い息を一つ吐き出した。

 その声には、先ほどの敵意はすっかり消え失せ、代わりに職人特有の諦観と、奇妙な出来事に対する戸惑いが混じっていた。


「まさか、俺が親方から何十年もかけて盗んだ技術と、リンゴ酢の隠し味を、たった一口……いや、匂いと断面を見ただけで全部言い当てられるなんてな。大した舌と目を持ってるよ、あんたは」


 店主は、カウンターの上に置かれた密閉ケースの中の『砂まみれの卵焼き』を、今度は怒りではなく、深い悲哀の目で静かに見つめ下ろした。


「確かに、それはうちの卵焼きだ。出汁の比率も、焼きの色も、間違いなく俺が今朝、銅の鍋で焼いたもんだ。だが……どうしてそれが、砂まみれになってあんたの手に渡ってるのか、俺にはさっぱり見当がつかねえ」


「それをお主に問うために来たのじゃ。店主」


 如月さんは、ステッキを静かに床に立て、アメジストの瞳で店主の眼球の動きを正確に捕捉した。


「この卵焼きは、今日の昼過ぎ、新市街の南公園に存在する砂場の、幾何学的な中心点において発見された。落としたのではない。何者かによって、意図的に『配置』されていたのじゃ」


「公園の砂場に……? うちの弁当の卵焼きだけが、わざわざそんな所に置かれてたって言うのか?」


「左様。そこで、わしのデータベースにおける矛盾点を提示する。お主の店は、この港湾地区の労働者階級をメインターゲットとした、安価で高カロリーな弁当を提供する大衆店舗であると推測される。しかし、南公園はここから遥か標高の高い新市街の住宅区。お主の店の弁当を購入した者が、わざわざあの砂場まで移動し、しかもメインの具材ではなく『卵焼きの一切れ』だけを砂場に放置する確率は、極めて異常な数値を示す」


 如月さんの論理展開に、僕はハッとした。

 確かにそうだ。港の労働者がお弁当を買って、わざわざ新市街の公園まで登っていって、卵焼きだけを捨てるなんて、物理的にも心理的にも動機が破綻している。


「店主。お主の記憶を遡り、販売記録のログを引き出すのじゃ。……お主の店に、普段の客層とは異なる『明確なノイズ』となる客が訪れなかったか。あるいは、この卵焼きに対して、極めて『歪な注文』を行った人間が」


 如月さんの言葉の誘導を受け、店主の視線が宙を泳ぎ、大脳辺縁系の記憶中枢へのアクセスを開始した。

 数秒間の沈黙。

 やがて、店主の目に、『ある特異なデータ』を引き当てた確かな光が宿った。


「……ああっ。そう言われりゃあ……昨日、開店してすぐの時間に、妙な客が来たな」


「妙な客、じゃと?」


「ああ。うちみたいな油臭い港の弁当屋には、およそ似つかわしくない男だった。年は四十代手前くらいか。仕立ての良い濃紺のスーツに、ピカピカの革靴を履いて……いかにも新市街の、高いビルでデスクワークしてますって感じのエリート風の男だよ」


 エリート風の男。

 僕と如月さんの視線が、コンマ一秒だけ交差した。新市街の住人が、なぜわざわざ旧市街の弁当屋へ。


「その男は、うちのショーケースに並んでる唐揚げ弁当やハンバーグ弁当には見向きもしなかった。血走った目で俺の顔を見て、こう言ったんだ。『卵焼きだけを、バラで売ってくれ』ってな」


「卵焼きの、単品注文か」


「ああ。うちじゃたまに、常連が酒のつまみに卵焼きだけ買っていくことはある。だが、その男の注文は異常だった。男は財布から、弁当何十個分にもなるような万札を何枚もカウンターに叩きつけて……『できるだけ黄色くて、形が綺麗に整った真ん中の部分だけを、絶対に崩れないように六切れ、別のパックに詰めてくれ』って、息を切らしながら言ってきたんだ」


 黄色くて、綺麗な部分だけを、六切れ。

 それはもはや、食品を購入するという行動のベクトルから逸脱している。何か別の、極めて観念的な目的を持った儀式のための供物を求めるような、歪な熱量だ。


「俺も流石に気味が悪くなってな。金は受け取らずに、普通の一本分の値段でパックに詰めてやったんだ。その時、あまりにも男が必死な顔をしてたもんだから、つい『何かのお供え物にでもするのかい?』って聞いちまった」


 店主は、その時の男の異常な心理状態を思い出すように、顔をしかめた。


「そしたら男は、額に大量の脂汗をかきながら……まるですがるような、呪文でも唱えるような声で、こう答えたんだよ」


 店主の口から、この不可解な物理パズルを解き明かすための、決定的な「情動のルーツ」が語られた。


「『……明日は、息子の塾の試験なんだ。来年、絶対に私立星華学園(せいかがくえん)に合格させるための、上位クラスの選抜を兼ねた、春の全国模試……。これに落ちれば、エリートコースから完全に外れてしまう。だから……黄色(金)で、縁起の良い月見亭(ツキを呼ぶ)の卵焼きが、どうしても必要なんだ』……ってな」


 ――来年の受験に向けた、春の選抜模試。


 その単語が店内に響いた瞬間、僕の背筋を、氷の刃で撫でられたような冷たい悪寒が駆け抜けた。


 月見坂市における、名門私立校への入学。

 それは単なる学力テストではない。如月コンツェルンが統括するこの都市において、幼少期からエリート校に籍を置くということは、将来の社会的地位と絶対的な成功を約束される、究極の階級選別システムの通過を意味する。

 競争率は天文学的な数字に跳ね上がり、子供たちは物心ついた時から秒単位で管理されたカリキュラムの中で、膨大な知識の詰め込みを強要される。そして、親たちもまた、自らの社会的プライドと子供の未来という極限のプレッシャーに押し潰され、時として論理的な判断能力を喪失し、過度な重圧(ストレス)という名の狂気に陥ることがある。


 本番の受験は来年だというのに、たかが春の塾のクラス分けテストに対して、そこまで追い詰められているのか。

 新市街のエリートビジネスマン。

 彼は、自らの力ではコントロールできない『明日の試験の結果』という不確定要素に対する極限の恐怖と重圧から逃れるため、すがるような思いで旧市街まで車を飛ばし。

『月見』という店名の、『黄色』の卵焼きという、全く科学的根拠のない言葉遊びのような『ゲン担ぎ』に、高額な紙幣を払ってまで縋り付いたのだ。


「なるほど。極限のプレッシャーによる大脳皮質の論理的思考機能の低下と、魔術的(マジカル)思考(シンキング)への依存。……エリートと呼ばれる人間ほど、一度自分が信じてきた数式の枠から外れた際のパラメーターの狂いは激しいものじゃな」


 如月さんは、一切の同情や哀れみを交えることなく、その男の精神状態を極めて冷徹な心理学および生理学の用語を用いて解体した。


「店主。データは十分に収集できた。お主の職人としての熱力学的な情熱が、このような形で歪な情動のトリガーに利用されたことは、鑑定士として遺憾に思う。……だが、安心するがよい。この一個の卵焼きがどのような物理的経路を辿って砂場に到達したのか、残りのルーツはわしが完全に暴き出してみせる」


 如月さんは、カウンターの上の密閉ケースを再びケープの懐へと収め、踵を返した。

 彼女の目的は、あくまで『モノのルーツを探ること』。店主の心のケアや、無駄な慰めなど、彼女の演算プロセスには最初から組み込まれていない。


「……行くぞ、サクタロウ。次の座標はすでに確定しておる」


 彼女は、油染みた暖簾を純白の手袋で躊躇いなく押し上げ、夜の(とばり)が完全に降りた旧市街の空気の中へと出ていった。


 僕は、呆然と立ち尽くす店主に一度だけ深く頭を下げると、急いで彼女の背中を追った。


 ガラララッ、と引き戸が閉まる。

 店内を支配していた圧倒的な油と出汁の匂いが、潮風と排気ガスを含んだ夜の空気に急速に希釈されていく。

 春の夜風が、汗と乳酸にまみれた僕の火照った肉体から、気化熱を奪っていく。物理的な冷たさが、僕の思考を急速にクリアにしていった。


 新市街のエリートの父親。

 一年先の受験を見据えた、狂気的なまでの重圧。

 ゲン担ぎのために買われた、六切れの卵焼き。

 しかし、それがなぜ、父親の願った弁当箱の中ではなく、深夜の南公園の砂場の中心に、たった『一切れ』だけ、まるで遺棄されるようにして置かれていたのか。


 一個の卵焼きに宿る、職人の情熱と、親の歪な愛情、そして名も知らぬ子供の絶望。

 完璧な街の裏側に潜むその重苦しい情動の質量を背負いながら、僕は、夜の闇に溶け込む黒い海面をじっと見つめていた。



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