エピローグ:甘酸っぱい結末と、プラスチックの断末魔
数日後の放課後。
如月学園高等部の敷地の最奥にひっそりと取り残された旧校舎、その二階の突き当たりに位置する図書室は、今日も新市街の息が詰まるような完璧な喧騒から完全に切り離された、奇跡のような静寂に包まれていた。
西側の高い窓から差し込む午後の斜陽が、空気中を漂う微細な埃を黄金色の粒子に変えて照らし出し、天井まで届く巨大な書架に並んだ膨大な古文書の背表紙に、幾何学的な長い影を落としている。
防音材と空調設備によって徹底的にノイズが排除された新市街のスマートな空間とは異なり、この旧校舎の図書室には、木製の床板が微かに軋む音や、壁掛けの古い振り子時計が時を刻むアナログな機械音といった、どこか温かみのある『物理的なノイズ』が心地よく満ちていた。
僕は、使い込まれたマホガニーの長方形テーブルに、淹れたての最高級アッサムティーが入ったアンティークのティーカップを、磁器の触れ合う音を極力立てないように注意しながらそっと置いた。
「……如月さん。お茶、入りましたよ」
「ご苦労じゃ、サクタロウ。今日の抽出時間は、前回の愚鈍な泥水に比べれば、いくらかマシな物理的数値を叩き出しておるようじゃな」
部屋の中央に鎮座する豪奢な一人掛けのソファ。そこを自らの王座としている孤高の天才鑑定士・如月瑠璃は、手元の分厚い革装丁の洋書から目を離すことなく、冷たくも美しい声でそう応じた。
彼女は、純白の綿手袋をはめた指先で優雅にティーカップの取っ手をつまみ上げると、カップの縁から立ち上る芳醇な湯気の香りを微かに嗅ぎ取り、そして、音もなく一口だけ口に含んだ。彼女の秀麗な眉がわずかに緩んだのを見て、僕は密かに安堵の息を吐き出し、向かいの粗末な木製チェアへと、自らの体重をゆっくりと沈めた。
椅子に腰を下ろす際、僕の大腿四頭筋から下腿三頭筋にかけて、ズキリとした鈍い痛みが走った。
数日前の深夜、あの圧倒的な質量のジャムの山が築かれた旧市街の廃屋を探索し、サビついた分厚い鋼鉄の扉をテコの原理でこじ開けようとした代償。あの暴力的なまでの遅発性筋肉痛は、数日の休養を経て、ようやく『筋繊維が引きちぎられるような激痛』から、『鉛の塊を埋め込まれたような重い鈍痛』へと、その物理的な形態を和らげつつあった。それでも、完全に炎症が治まるまでには、もう少しだけ時間が必要だった。
「如月さん。五月十二日の午前零時。あの国道十六号線の古びた歩道橋、本当に解体されましたね」
僕は、自分の前に置かれた安物のマグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと切り出した。
昨日の深夜、月見坂市のインフラ管理システムが予定通りに作動し、新市街と旧市街を繋いでいたあの巨大な酸化鉄の建造物は、圧倒的なトルクを誇る何台もの大型重機によって、わずか数時間のうちに完全に解体され、撤去された。
今朝、僕が愛用のサビついたママチャリでその跡地を通った時、そこにはもう、何一つ残っていなかった。歩道橋の支柱があった場所は、すでに真新しいアスファルトで綺麗に舗装し直されており、新市街の自動運転車たちが、何事もなかったかのように滑らかな速度でその上を走り抜けていた。
たった一人の老人が、娘との記憶を守るために狂気的なまでの執念を燃やし、五トンもの未来の不純物を強奪してまで抗おうとしたあの場所は、都市を統べる完璧な論理の前では、あまりにもあっけなく、一つの物理的エラーとして完全に消去されてしまったのだ。
「当然の帰結じゃ。サクタロウ」
如月さんは、ティーカップをソーサーへと正確な動作で戻し、アメジストの瞳を僕へと向けた。
「都市を統べる論理が決定したインフラの最適化スケジュールは、一個人の情動などで覆るほど脆弱なものではない。……数千トンの酸化鉄の塊は、大型重機の圧倒的な物理的エネルギーによって、予定通りの空間座標から完全に排除された。それは、アルキメデスの原理やニュートン力学と同じように、この巨大なスマートシティにおいて絶対に曲げることのできない物理法則の一つじゃ」
「ええ。わかっています。……でも、僕が見たかったのは、歩道橋の跡地じゃありません。旧市街の、僕が住んでいる団地の近くにある、古いアーケード街の隅っこです」
僕は、マグカップの温もりを手のひらに感じながら、今朝の通学路で目撃したもう一つの光景を、如月さんに向かって報告し始めた。
「歩道橋が解体された今日の朝。あの初老の男の人……茂木さんが、旧市街の市場の隅に、拾ってきた木箱やトタン板を組み合わせた、小さな屋台を出していたんです」
如月さんの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……ほう」
「屋台には、あの『真鍮の呼び鈴』が置かれていました。そして、茂木さんは油まみれの灰色の作業着ではなく、少しだけ綺麗なエプロンをつけて、大きな鍋でイチゴを煮込んでいました。……新市街の巨大な物流センターから強奪した五トンのジャムではなく、彼自身が市場で買ってきた不揃いなイチゴと、不器用な手つきで計量した砂糖を使って」
僕は、今朝の旧市街の空気を思い出しながら言葉を紡いだ。
スマートシティの無菌状態の空気の中では絶対に嗅ぐことのできない、果糖が焦げるような強烈に甘い匂い。それは、数日前にあの廃屋で嗅いだ、狂気に満ちた暴力的な甘さではなく、もっとずっと温かく、そして泥臭い、人間の生活の匂いだった。
「……茂木さんは、自分で作った手作りのジャムを売っていました。新市街のオーガニック・ブティックに並ぶような、糖度が完璧に計算された綺麗なジャムじゃありません。きっと、糖度もバラバラで、少し酸っぱかったり、水っぽかったりする、不完全な出来損ないのジャムです。……でも、屋台の脇には、如月さんが渡したあの深緑色のスケッチブックが大切に開かれていて……そこには、あの歩道橋の上から見た夕焼けと、小さな女の子の姿が、鉛筆でとても優しく描かれていました」
僕の報告を聞き終えると、如月さんは再びティーカップを手に取り、静かにダージリンの香りを嗅いだ。
その表情からは、共感や同情といった人間らしい情動の揺らぎは一切読み取れない。彼女はただ、入力された物理的なデータを、自らの脳内にある巨大な論理回路で極めて冷静に処理しているだけだった。
「……ふむ。流通のシステムに乗らない、糖度の規格も定まっていないような不完全なジャムを、路上という極めて不安定な環境で販売する。……我が如月コンツェルンの経済指標からすれば、生産性も効率も皆無の、底辺のノイズに過ぎんな」
如月さんの評価は、相変わらず冷徹で、容赦のないものだった。
だが、彼女はカップを置き、アメジストの瞳の奥に、確かな知性の光を煌めかせて続けた。
「だが。……あの老人の脳内に蓄積された『娘との記憶』という脆弱なデータを、自らの手でジャムを煮詰めるという物理的行動と、あのスケッチブックへの記録というアナログな手段によって、システムに干渉されない安全な領域へとバックアップし続ける。……そのための精神的な維持装置としては、極めて論理的で、合理的なからくりと言えるじゃろうな」
如月さんは、僕に向かって、あるいは窓の外に広がる完璧な新市街のビル群に向かって、小さく鼻を鳴らした。
「重石は下ろされた。不可能な物理的抵抗は放棄され、代わりに消えることのない栞が挟まれた。……ならば、これ以上わしがルーツを追跡する理由は何一つ存在せん。あの老人が今後、どれほど非効率なジャムを生成しようとも、それはもはや、この完璧な街のシステムの外側で完結する、ささやかなバグに過ぎんからな」
そう言って、如月さんは再び手元の洋書へと視線を落とした。
他者の心に寄り添う機能は持ち合わせていない。共感などしない。彼女の目的は、常に『モノのルーツ』という物理的な真実を解明することだけだ。
彼女の行動原理は、あのスマートシティを統べる論理システムと同じくらい、冷酷で完璧なもののように思える。
けれど。
僕は、鈍く痛む自らの大腿四頭筋をさすりながら、不思議と心が澄み渡っていくのを感じていた。
月見坂市。数百万の監視カメラと計算し尽くされたアルゴリズムによって、すべての事象が最適化された、息が詰まるほどに完璧なスマートシティ。
僕はかつて、この巨大なシステムの片隅で、自分が『不要なノイズ』として弾き出され、廃棄されることを心の底から恐れていた。進路希望調査票に当たり障りのない公務員の枠を書き込もうとしたのも、効率と最適化という名の暴力的な嵐に吹き飛ばされないための、僕なりの臆病な防衛本能だった。
しかし。
規定の糖度にわずか一パーセント足りなかったという理由だけで、五トンもの未来の不純物として廃棄されようとしていた不完全なジャム。
その一パーセントの不純物にこそ、一人の父親の狂気的なまでの愛と、娘との泥臭い記憶という、システムには絶対に計算できない『情動』が宿っていたのだ。
この完璧な街の論理からすれば、僕も、あの老人も、そしてあの不格好なジャムも、すべては排除すべき無駄なノイズであり、不純物なのだろう。
だが、如月瑠璃という孤高の天才鑑定士は、その完璧な美貌と絶対的な論理の刃を用いながらも、なぜかいつも、システムの中心ではなく、そこから零れ落ちた『一パーセントの不純物』のルーツに向かって、躊躇なくその純白の手袋を伸ばす。
他人に共感しないと豪語しながら、彼女が情動の視座を用いて暴き出す物理的な真実は、結果として、いつも壊れかけた人間の心を、この世界に確かに繋ぎ止める楔となるのだ。
泥臭くても、不完全でも、非効率でも。
人間が人間である限り、この街から不純物が完全に消え去ることはない。
そして、その不純物が織りなす情動のルーツは、ひどく美しく、愛おしいものなのだと。僕は、痛む脚を引きずって彼女の背中を追うこの数日間の地獄の中で、確かにそう感じ始めていた。
「……如月さん」
「なんじゃ。お主のその締まりのない緩んだ表情は。また何か、非論理的な奇跡にでも思考を飛躍させておるのか」
「違いますよ。ただ……この『如月瑠璃の思考補助員』っていう進路希望も、案外、悪くないかもしれないなって。そう思っただけです」
僕が照れ隠しのようにそう笑うと、如月さんは洋書から目を上げ、まるで珍しい微生物でも観察するような目で僕を見つめた。
「ふむ。お主のその大腿四頭筋の炎症反応が、ついに脳髄の正常な判断能力までをも破壊したようじゃな。……まあよい。お主が自らの脆弱な労働資本をわしに提供することに同意するというのであれば、わざわざ拒絶する理由もない」
如月さんは、パタンと大きな音を立てて、読んでいた分厚い洋書を閉じた。
そして、彼女は漆黒のコートの懐へと、純白の手袋をはめた右手をゆっくりと差し入れた。
懐中時計を取り出し、思考の調律を行うのだろうか。僕は背筋を伸ばし、次の彼女の優雅な所作を待った。
しかし。
如月さんがコートの懐から取り出し、マホガニーのテーブルの上へと無造作に放り投げた『それ』は、純銀の美しい懐中時計などではなかった。
ゴトッ、というプラスチック特有の安っぽい音が、静寂な図書室に響く。
「……えっ?」
僕は、目の前に提示されたその『物体』を見て、思わず間の抜けた声を漏らした。
それは、全長二十センチほどの、どこにでもある女児向けの『着せ替え人形』だった。
不自然なほどに鮮やかな金色の合成繊維の髪。無機質に微笑む大きな青い瞳。ピンク色の過剰なまでにフリルがあしらわれたドレスを着込み、関節部分は安価なプラスチックの球体で繋がれている。
旧市街のくすんだスーパーの玩具売り場に、ホコリを被って並んでいそうな、量産型のチープな人形だ。
「如月さん。これ、なんですか? まさか、如月さんにもこういうファンシーな趣味が……」
「サクタロウ。お主のその貧困な想像力は、直ちにシュレッダーにかけて物理的に粉砕すべきじゃな。……わしがこのような化学合成物質の塊に、審美的な価値を見出すとでも思うか」
如月さんは、冷酷に僕の言葉を切り捨てると、純白の指先で、その着せ替え人形の背中――ピンクのドレスに隠された、小さなボタンのような膨らみを、無表情のまま押し込んだ。
本来であれば、内蔵された安価な音声ICチップが、『こんにちは、わたしマリーよ!』といった、明るく可愛らしい電子音声を再生するはずのギミックだ。
だが。
その人形の内部の粗悪なスピーカーから発せられたのは、可愛らしい挨拶などではなかった。
『――――ッ!! ギィィィィィィャァァァァァァァァァァァァッッ!!! 助け、て……ッ!!!』
「うわぁぁぁっ!?」
僕は椅子から飛び上がり、危うくテーブルの上のティーカップをひっくり返しそうになった。
図書室の静寂を暴力的に引き裂いたのは、鼓膜が破れるほどの音量で再生された、極めて生々しい、人間の女性の『断末魔の絶叫』だった。
ひどくノイズが混じり、音が割れているが、それは明らかに人工的に作られた音声ではない。純粋な恐怖と、物理的な苦痛に顔を歪める人間の、本物の悲鳴の録音データだ。
金髪の可愛らしい着せ替え人形が、笑顔のまま、血を吐くような絶叫を上げ続けている。その圧倒的なまでの物理的矛盾と不気味さに、僕は背筋に氷をねじ込まれたような悪寒を覚えた。
「な、なんですかこれっ!? 壊れてるんですか!? それとも、タチの悪いイタズラ!?」
「イタズラなどという安易な結論に逃げるな、サクタロウ。……このプラスチックとシリコンの塊の内部には、極めて異常な『音響的ルーツ』が混入しておる。……数万個単位で生産されるこの量産品のICチップに、なぜ、そしていかなる物理的経路を辿って、この凄惨な人間の絶叫データが記録されてしまったのか。……これを見逃すなど、鑑定士の矜持に関わる大問題じゃ」
如月さんは、絶叫を続ける人形の背中のボタンをもう一度押し、強制的にその恐ろしい音声をシャットダウンさせた。
再び図書室に静寂が戻るが、僕の心臓は警報機のようにけたたましく鳴り続けている。
「さあ、無駄なティータイムは終了じゃ。……この絶叫する不純物のルーツを解体しに行くぞ、サクタロウ」
如月さんは、漆黒のコートの裾を華麗に翻し、ソファから立ち上がった。
「えっ……今からですか!? 待ってください、僕の脚はまだ……っ、さっき階段を下りるだけでも地獄を見たばっかりで……!」
「お主の筋肉痛など、わしの知ったことではない。……それに、大腿四頭筋の乳酸は、更なる物理的な運動によって新たな刺激を入力し、痛覚を上書きしてしまえばよいだけのことじゃ。……遅れるなよ、補助員」
反論は、一切許されなかった。
如月さんは、着せ替え人形を無造作にコートのポケットへと突っ込み、オーク材の分厚い扉を開けて、迷うことなく旧校舎の廊下へと歩み去っていった。
「……上書きって、そんな物理法則、絶対に間違ってる……っ」
僕は、深く、本当に深い絶望の溜息を吐き出しながら、悲鳴を上げる両脚に鞭を打って、木製チェアから無理やり立ち上がった。
窓の外では、完璧なスマートシティが、今日も一切のノイズを許さずに冷たい光を放ち続けている。
そして僕の目の前には、終わることのない理不尽な命令と、血みどろのルーツ探求という名の過酷な肉体労働が待っている。
あの旧市街の駐輪場には、油を差していないサビだらけのママチャリのペダルが、僕の酷使された下半身を今か今かと待ち構えているはずだ。
絶望しかない。僕の平穏な公務員ライフは、もう完全に粉砕されてしまったのだ。
だが。
痛む脚を引きずり、彼女の後を追って図書室の廊下へと足を踏み出した僕の胸の奥には。
自分でも呆れるほどの、奇妙で、そして心地よい『軽快さ』が、確かに息づいていた。
この完璧すぎる街のどこかに隠された、泥臭くも愛おしい不純物を探し出すために。
僕は今日も、あの孤高の天才鑑定士の隣で、自らの汗と筋肉を犠牲にしながら、物理的な真実の泥を掘り起こし続けるのだ。
~如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』 リメイク fin~




