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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』~リメイク~  作者: アリス・リゼル


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第1話『砂場の卵焼き』 ~section1:黄金の迷い子と、師匠の記憶~

 春の陽光が、月見坂市の幾何学的なスカイラインを極めて正確な入射角で切り取っていた。

 このスマートシティにおいて、気象という不確定要素すらも、如月コンツェルンが統括する巨大な環境制御アルゴリズムの予測範囲内に完全に収まっているように錯覚させられる。都市全域の不快指数は常に最適化され、街路樹の桜は遺伝子レベルで開花時期を調整され、計算され尽くした美しい花びらをアスファルトの表面へと落としていた。もちろん、その花びらの質量も翌朝には自動清掃ドローンによって、物理的な痕跡を一切残さずに回収される運命にある。


 完璧すぎる、春の放課後。

 気怠い空気が漂う最新鋭の本校舎を抜け、僕――朔光太郎は、広大なキャンパスの北端に位置する『旧校舎』へと向かっていた。


 本校舎のセントラルヒーティングが作り出す、無菌室のような完璧な温度・湿度管理空間から一歩外へ出ると、そこには都市管理システムから意図的に見放された『自然の揺らぎ』が確かな質量を持って存在している。

 旧校舎は、最新の建築基準法やエネルギー効率の概念から完全に逸脱した、昭和初期の堅牢な石造り建築だ。壁面に複雑に絡みつく蔦の葉緑素が太陽光の光子を吸収して光合成を繰り返し、外壁の石材の表面には、長年の風雨による微細な風化の痕跡――コンクリート内部の水酸化カルシウムが雨水に溶け出し、大気中の二酸化炭素と反応して炭酸カルシウムとして析出した白華現象(エフロレッセンス)が、白い涙の痕のようにこびりついている。


 高等部の入学式当日。ひょんなことからこの建物の主である如月瑠璃の『助手』……というよりは、圧倒的な知性の前にひれ伏す『下僕』として強制的に生体登録されてしまって以来、放課後にこの魔窟へと通うことは、僕の自律神経系に組み込まれた不可避のルーティンとなっていた。


 僕は、体重という物理的荷重をかけるたびに不吉な軋み音を上げる木造の階段を上り、二階の突き当たりにある重厚なオーク材の扉の前に立った。

 表面が酸化し、鈍い光を放つ真鍮のドアノブへと右手を伸ばす。

 旧校舎の図書室。

 そこは、この計算され尽くした月見坂市において、たった一人だけ『物質のルーツ』を執拗に追い求める孤高の令嬢――如月瑠璃が自らの絶対的な領分として定めた、不可侵の聖域である。


 ギィィ、という、潤滑油が完全に揮発し酸化した蝶番が上げる、特有の高周波の金属摩擦音が廊下に響く。

 僕が扉を押し開け、その空間へと足を踏み入れた瞬間であった。

 僕の鼻腔奥の嗅覚上皮を、全く予期せぬ、そしてこの空間には到底ありえない『暴力的な化学物質の群れ』が直撃した。


「……なんだ、これ」


 図書室という閉鎖空間は本来、数万冊の古書が放つリグニンやセルロースの経年劣化による乾いた芳香と、マツ科の樹液を蒸留したテレピン油の鋭い残香、あるいは最高級の紅茶葉から抽出されたテアニンの香りで満たされているはずだ。

 しかし、現在この室内の空気を完全に支配しているのは、それらの上品な高分子化合物ではなかった。


 圧倒的な質量を持った『生活の匂い』だった。

 アミノ酸と還元糖が加熱されることによって生じるメイラード反応の、脳の中枢を直接刺激するような香ばしさ。鰹節に豊富に含まれるイノシン酸と、昆布の細胞壁から抽出されたグルタミン酸という二つの強烈なうま味成分が、極めて高い濃度で気化し、空気中の水分子と結合して室内を漂っている。それに加えて、大豆タンパク質を発酵・熟成させた醤油特有の、深く、そして塩分を感じさせる鋭い香気。

 それは間違いなく、春のうららかな旧校舎にはおよそ不釣り合いな、強烈な出汁(だし)と醤油が焦げる匂いであった。


 僕は混乱する前頭葉を抱えたまま、部屋の中央へと視線を向けた。


 窓から差し込む午後の斜光が、空気中の微細な埃をチンダル現象によって可視化させながら、如月家から持ち込まれた最高級のマホガニー・テーブルの表面を滑らかに照らし出している。

 その向こう側。純白のレースが精緻に編み込まれたアンティークチェアに深く腰掛け、如月瑠璃は、純白の綿手袋に包まれた右手で純銀のルーペを保持し、テーブルの中央に置かれた『ある物体』を、病的なまでの集中力で検分していた。


 彼女の身長は百四十七センチ。

 同世代の女子高生と比べても一際小柄なその体躯は、周囲の風景から浮き上がるほどに可憐でありながら、そこに発生している重力場すらも支配しているかのような圧倒的な存在感を放っている。女性に対する免疫機能が完全に欠落している僕にとって、彼女の姿を直視することは常に網膜への過負荷を伴う。

 艶やかな黒髪は一条の滝のように流れ、太陽光のスペクトルを紫がかった深みへと変換している。アメジストを思わせる深く澄んだ瞳は、対象物の表面のみならず、その奥底に潜む分子構造の歴史すらも暴き出そうと冷酷に細められていた。


 そして、彼女の視線の先。マイセンの白磁のプレートの上。

 そこに鎮座していたのは、宝石でもアンティークの懐中時計でもなく、歪な形をした一切れの『卵焼き』であった。


 しかも、ただの卵焼きではない。

 その鮮やかな黄色の表面には、公園の砂場に存在するような石英や長石の細かい粒子――すなわち、泥と微細な砂が、無惨にこびりついている。幾何学的な美しさを誇るこの図書室において、その砂まみれの食品という存在は、あまりにも醜悪で、強烈な不協和音を奏でていた。


「遅いぞ、サクタロウ。お主の歩調の乱れと、扉の前での三・二秒間の躊躇は、気流の微細な変化と床板の固有振動数として、すでにわしの体性感覚に伝わっておった。助手としての日常業務においてこれほどのラグタイムを生じさせるとは、お主の体内時計の精度には深刻なエラーが存在するようじゃな」


 如月さんは、ルーペを右目に当てたまま、アメジストの瞳の端で僕を捉え、氷のように透徹した声で宣告した。


「すみません、如月さん。……それより、なんですかそれ。図書室に充満してるこの暴力的な匂いの原因、それですよね? どうして卵焼きなんかが、しかもそんな砂まみれの状態で、高級なお皿の上に乗ってるんですか」


 僕の問いに対し、如月さんはゆっくりとルーペをプレートから離し、純白の綿手袋で自身の前髪を僅かに払った。


「愚鈍な質問じゃな。わしは常にお主に言っておるはずじゃ。この完璧すぎる月見坂市の設計図には、計算から漏れ落ちた『意志あるノイズ』が存在すると。……これこそが、わしが南公園の砂場の、その幾何学的な中心点において採集した、完全なる不純物じゃよ」


「不純物って……ただ誰かがお弁当箱から落としたか、捨てたゴミじゃないんですか?」


「ゴミ、じゃと?」


 如月さんの声の温度が、物理的に絶対零度へと近づいたように感じられた。

 彼女は、純白の手袋で卵焼きの横に添えられた純銀のピンセットを手に取り、表面に付着した砂粒の一つを正確に指し示した。


「お主のその濁った水晶体には、これが単なる有機物の廃棄物に見えるのか。よく観察するがよい。この卵焼きは、ただ無造作に重力に従って地面に落下したものではない。表面に付着している二酸化ケイ素の粒子――砂の分布状態を見るに、これは落下による物理的な衝撃(インパクト)の痕跡ではなく、何者かの手によって『意図的に砂の上に置かれた』、あるいは『一度地中に埋められた後に掘り起こされた』という、極めて意図的な力学的配置を示しておる」


 如月さんはピンセットで卵焼きの端を僅かに持ち上げ、その断面の層をルーペで再び拡大した。


「さらに、この卵焼きの構造じゃ。家庭用の丸いフライパンやテフロン加工の鍋で無造作に炒めたスクランブルエッグとは次元が違う。熱伝導率と熱容量が極めて高い専用の『銅製の卵焼き器』を用い、卵液のタンパク質が凝固するギリギリの温度帯を維持しながら、薄い層を何重にも巻き上げていく熟練した『だし巻き』の技術が用いられておる。層の間に含まれる気泡の大きさがミクロレベルで均一であり、卵のタンパク質に対する出汁の含有率が、表面張力の限界点に達するまで高められている証拠じゃ」


 彼女の口から紡ぎ出されるのは、卵焼きという日常的な食品に対する、異常なまでに解像度の高い物理的、および熱力学的な分析だった。


「誰が、何のために、これほどの手間と高度な熱制御を用いて作られた調理物を、公園の砂場という衛生観念から最も遠い座標に、しかも幾何学的な中心を正確に測ったかのように意図的に配置したのか。……サクタロウ、これこそが、人間の歪な情動が作り出した『ルーツの綻び』なのじゃ」


 如月さんは、そこでふと、言葉を切った。

 純銀のルーペ越しに砂まみれの卵焼きを見つめていた彼女の動きが、まるで映像のフレームが一時停止したかのように、完全に静止した。

 アメジストの瞳の奥で、現在入力されている視覚と嗅覚の膨大な情報が、彼女の脳内の大脳皮質深奥に刻まれた『過去の特定のデータ』と激しくリンクし、シナプスが爆発的な発火を起こしているのが、助手である僕にも明確に見て取れた。


 深い静寂が、図書室に降りてきた。

 換気扇の回る微かなモーター音と、遠くで鳴るカラスの鳴き声だけが、空間の輪郭をなぞっている。

 彼女の時間が止まっている。いや、彼女の意識だけが、現在のこの完璧な月見坂市から離れ、もっと泥臭く、不完全で、しかし確かな熱を持っていた過去の時間軸へと跳躍しているのだ。


 やがて、如月さんの薄い唇が、微かな震えを伴って開かれた。


「『砂にまみれたモノにも、必ず人の手が紡いだルーツが宿っておる』」


 それは、普段の彼女の論理的で冷徹なトーンとは全く異なる、静かで、しかし確かな質量と熱を帯びた呟きだった。


「え……? 如月さん、今、なんて言いましたか」


「……おばあちゃん…山内かえでの言葉じゃ」


 山内かえで。

 その名前を口にする時、如月さんを包み込む絶対的な氷の壁が、ほんの数ミクロンだけ溶け落ちたように見えた。


「かつてわしに『モノのルーツを探る』という概念の基礎を与え、この観察眼の何たるかを教え導いてくれた、偉大なる師の教えじゃよ。いかに汚泥に塗れ、社会的価値を失ったように見える物体であろうとも、それが質量を持ってその空間座標に存在している以上、そこには必ず人間の情動と物理法則が交差した、絶対的な因果律の糸が宿っていると」


 彼女がこの砂まみれの卵焼きに対し、常軌を逸した執着を見せている理由。

 それは単なる知的好奇心や、暇つぶしのパズルなどではない。かつて迷子になり、論理の世界で孤立していた幼き日の自分に、世界の真理の片鱗と、物質に宿る人間の温もりを見せてくれた師匠の教えを、自らの『物理的観察眼』で実証しようとする、彼女なりの切実で神聖な儀式でもあったのだ。


「……感傷に浸る時間は終わりじゃ。現象の解明に戻るぞ、サクタロウ」


 如月さんは一瞬の内に、元の冷徹な孤高の鑑定士の顔へと戻り、背筋を真っ直ぐに伸ばした。

 彼女は純白の手袋を外し、自らの極限まで研ぎ澄まされた『五感』をフル稼働させる体勢に入った。


「視覚による層の構造分析、および熱力学的な調理過程の推測は完了した。次は嗅覚と味覚による、化学成分の特定じゃ」


 如月さんは顔を卵焼きへと数センチの距離まで近づけ、目を閉じて深く、静かに息を吸い込んだ。

 鼻腔内の嗅覚受容体が、空間に揮発している無数の芳香成分の分子を捉え、電気信号へと変換して脳内のデータベースと高速で照合していく。


「鰹節に含まれるイノシン酸と、昆布のグルタミン酸の相乗効果。ここまでは一般的な出汁の構成要素じゃ。しかし、この芳香の奥底に、極めて特徴的な揮発性の酸が含まれておる。ツンと鼻を突く工業的に精製された酢酸ではない。まろやかで、微かな果糖の甘みを伴う有機酸の鎖……リンゴ酸とクエン酸の複合体じゃな」


 彼女は目を開き、ピンセットで卵焼きの端から、砂の付着していない一ミリ四方の極小の欠片を精密に切り取った。そして、それを躊躇いなく自らの舌先へと運ぶ。


「……間違いない。これは自家製のリンゴ酢じゃ」


 如月さんは確信に満ちた声で断言し、舌の上の化学物質を分析し続けた。


「出汁に微量のリンゴ酢を加えることで、pH値を調整して卵のタンパク質の凝固を助け、同時に冷めても硬くならない保水性を高めるという極めて高度な化学的アプローチ。さらに、醤油の塩分濃度は、月見坂市の新市街に住むデスクワーカーの平均的な味覚プロファイルよりも、およそ一・五パーセントほど高く設定されておる。これは発汗によるナトリウムの喪失を補うための、労働者階級向けの塩分補給を目的とした配合じゃ。……これらの成分比率と、銅製の卵焼き器による高度な手焼きの技術を持つ座標は、この都市全域の飲食店のデータベースを照合しても、一つしか存在せん」


 如月さんは、傍らに置かれた使い込まれた革の手帳を開き、万年筆で素早く一つの名前を書き込んだ。紙とペン先が擦れる音が、真理への到達を告げるファンファーレのように響く。


「旧市街、港湾地区に店を構える老舗の弁当屋。『月見亭』じゃ」


「月見亭……港の方にある、あの油でギトギトの古いお弁当屋さんですか? 確かにあそこなら、職人さんが手作りの卵焼きを出してそうですけど……」


「推測ではなく、完全なる物理的、および化学的な特定じゃ。ルーツの源流が判明した以上、次に行うべきは現地における情報収集、すなわちフィールドワークに他ならん」


 如月さんは立ち上がり、ボルドーのベルベット・ケープを肩に優雅に羽織った。


「行くぞ、サクタロウ。この卵焼きが、どのような情動の経路を辿って南公園の砂場の中心に至ったのか。月見亭の主人から直接データを抽出する」


「行くって、今からですか? 旧市街の港までって、ここからだと相当な距離がありますよ。新市街の高い丘を降りて、さらに海沿いの工業地帯まで……」


「移動手段を用いれば、空間の圧縮など容易いことじゃ。わしは専用車で向かう。新市街の幾何学的なグリッドから大通りを迂回し、旧市街のメインストリートへと入る、舗装状態が極めて良好な正規ルートじゃ。……お主は、駐輪場にあるその自転車で向かえ」


「……えっ?」


 僕の脳髄が、彼女の提示したあまりにも非対称な移動手段を処理できず、完全に一時停止した。


「待ってください、如月さん。車で行くなら、僕もそれに乗せてくれればいいじゃないですか! なんで僕だけ自転車なんですか!?」


「助手というものは、常に現場の空気を自らの肉体で切り裂き、先行して初期データを収集する役割を担うものじゃ。それに、車という質量の大きな四輪駆動では、新市街から旧市街へと抜ける細く入り組んだ路地や、一方通行の急勾配を下ることは空間的、および物理的に不可能じゃ。二つのポイント間の最短距離の直線を結べるのは、お主の二輪車によるベクトルだけじゃよ」


 彼女は、あくまで『物理的な効率』と『最短ルートの構築』という観点から、極めて平然と論理を展開した。そこにコンツェルン令嬢としての驕りや、財力を誇示するような俗物的な意図は一切ない。ただ純粋に、盤面における駒の最適な配置を力学的に計算しているだけだ。


「お主のその銀色のママチャリ。昨日観察したところによると、チェーンには著しい酸化鉄が固着し、タイヤの空気圧は適正値の六十パーセントまで低下しておったな。その劣悪な運動効率を自らの筋力でカバーし、この月見坂市の等高線を最短で駆け下りるという任務は、助手としての基礎的な身体能力と、乳酸の蓄積に対する耐性を計るには丁度良い試金石じゃ」


「試金石って! 新市街から旧市街への最短ルートって、ものすごい急勾配の坂道じゃないですか。あんなところ、ただでさえブレーキの効きが悪い自転車で下ったら死にますよ!」


「死にはせん。お主の質量と自転車の質量の合計、それに重力加速度と坂道の斜度を計算すれば、終端速度に達する前に空気抵抗と車輪の転がり抵抗が必ず釣り合うはずじゃ。……まあ、交差点に突っ込んだ際の運動エネルギーの処理は、お主の動体視力と反射神経に完全に依存するがな。わしの車より遅れて月見亭に到着することは許さんぞ、サクタロウ。コンマ一秒の遅れも、助手としての査定に響くと思え」


 如月さんは、僕の反論を一切受け付ける気はないというように、図書室の扉へと向かって迷いなく歩き出した。

 僕は、マホガニーのテーブルに残された砂まみれの卵焼きと、彼女の気高い背中を交互に見比べ、肺の底から絞り出すような深い絶望の吐息を漏らした。


完璧なスマートシティの中で、たった一切れの卵焼きのルーツを追うために、僕の貧弱な足が動力源として強制徴用される。

 狂っている。完全に狂っているが、僕には彼女の絶対的な論理と、そのアメジストの瞳の奥に宿る『真理への渇望』に抗う術を持っていなかった。


 僕は図書室を飛び出し、裏庭の駐輪場へと全速力で走った。

 春の生温かい風が吹く中、僕は酸化して茶色く変色したチェーンを持つ、銀色のママチャリのサドルに跨った。

 ペダルに足を乗せる。


 標高の高い新市街の丘から、海抜ゼロメートルの旧市街の港へ。

 これから始まる、重力と摩擦、そして貧弱なブレーキパッドとの決死の物理的闘争を思い、僕は副腎皮質から過剰に分泌されるコルチゾールのストレスに泣きそうになりながら、港へ向けて力強くペダルを踏み込んだ。



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