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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』~リメイク~  作者: アリス・リゼル


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第2話『甘い重石の並べ方』 ~section4:忘却の廃屋と、廃棄された記憶~

 月見坂市の光が一切届かない旧市街の深部は、まるで巨大な生物の腐りかけた胃袋の中を歩かされているようだった。

 迷路のように無秩序に入り組んだ狭い路地は、不規則に増改築を繰り返したトタン屋根や、崩れかけたコンクリートの壁によって、新市街の整然とした幾何学的な夜空を完全に遮断している。街灯は数十メートルおきにしか存在せず、しかもそのほとんどが寿命を迎えかけてオレンジ色の不規則な明滅を繰り返しており、深い闇を切り裂くどころか、かえって影の濃さと這い寄るような不気味さを強調するだけの不吉なオブジェと化していた。


「……はぁっ、はぁっ……っ……!」


 僕は、自分の口から漏れるひどく荒れた呼吸音を抑えきれず、完全に機能不全に陥った両脚を泥濘(ぬかるみ)から引き抜くようにして、暗い路地を進んでいた。

 大腿四頭筋から下腿三頭筋にかけての遅発性筋肉痛は、歩道橋の十五段の階段を上り下りし、さらにこの足場の悪い旧市街の路地を休むことなく歩かされ続けていることで、もはや人体の耐久限界の閾値(いきち)を完全に突破していた。一歩足を踏み出すごとに、錆びた太い釘で筋繊維を直接削り取られているかのような鋭利な激痛が走り、視界の端が酸素不足でチカチカと白く明滅する。肺は新鮮な空気を求めて悲鳴を上げているが、吸い込めるのはカビと埃の混じった重い空気だけだ。制服のシャツは冷や汗でべったりと肌に張り付き、春先の深夜の冷気が体温を容赦なく奪っていく。


 もし今、ここで地面に倒れ込んでしまえば、二度と自力で立ち上がることはできないだろう。そんな極限状態の僕の数メートル前を、如月さんは漆黒のコートを優雅に翻しながら、一切の疲労や歩幅の乱れを感じさせない足取りで進んでいく。


「サクタロウ。歩幅が極端に狭まっておるぞ。お主のその無駄に長い脚は、ただの視覚的な装飾品か。……あの男がアスファルトに残した、旧式のエンジンオイルの残り香が、この冷たい夜風に完全に霧散してしまえば、お主をこの旧市街の暗渠(あんきょ)に放り込んで帰るからな」


 振り返りもせず、如月さんは冷酷な事実だけを僕の鼓膜に叩きつける。

 彼女の並外れた物理的観察眼と嗅覚は、あの老人が逃走時にアスファルトに残した微小な油の痕跡と、足を引きずるような特有の摩擦音の残響を、まるで鮮明な発光塗料の軌跡でも追うかのように正確にトレースしていた。

 そして、如月さんの斜め前方には、雑賀さんが音もなく先行している。

 漆黒のパンツスーツに身を包んだ雑賀さんは、足場に無数のゴミや瓦礫が散乱する旧市街の路地であっても、その頭の高さを一切上下させることなく、まるで氷の上を滑るように移動していく。路地の交差点や死角に差し掛かるたびに、一切の無駄を省いた最小限の視線移動とステップで索敵を行い、如月さんの進行ルート上の安全をコンマ数秒で確保し続けていた。その姿は、黒田さんのような圧倒的な質量の壁とは異なる、研ぎ澄まされた冷たい刃のような頼もしさがあった。


「……如月さん。本当に、こっちなんですか? この先はもう、人が住んでるような区画じゃないですよ……」


 僕は痛みに顔を歪めながら、途切れ途切れの掠れた声で尋ねた。

 周囲の建物は、すでに生活の気配を完全に失っている。窓ガラスは割れたまま放置され、壁には正体不明の塗料で幾重にもスプレーの落書きが重ねられ、放置された粗大ゴミがバリケードのように路地を塞いでいる場所もあった。都市の再開発計画から完全に取り残され、完璧なシステムからも『非効率な領域』として見捨てられた、巨大なスマートシティの完全な死角。


「ルーツの糸は、間違いなくこの奥へと繋がっておる。……由梨、前方二十メートルの廃屋じゃ。あの錆びたトタンの扉の奥に、極めて濃厚な果糖の匂いと、古い機械油の匂いが深く淀んでおる」


「承知いたしました、お嬢様。私が先行し、内部の物理的脅威を排除します」


 雑賀さんは静かに頷くと、一切の衣擦れの音すら立てずに、路地の最奥にそびえる巨大な廃屋へと接近した。

 かつては中規模の町工場か、あるいは資材倉庫だったのだろう。二階建てほどの高さがあるその建物は、外壁のトタンが酸化して赤茶け、ひしゃげた巨大なシャッターの隣に、辛うじて蝶番(ちょうつがい)だけでぶら下がっているような通用口の鉄扉が、不気味に半開きになっていた。


 僕は、如月さんの背後についてその鉄扉の前まで辿り着き、乱れた呼吸を整えようと膝に手をついて大きく息を吐き出した。

 そして、ふと足元のコンクリートに目を落とし、ギョッとして息を呑んだ。


「……如月さん。これ……」


 廃屋の入り口となる鉄扉の前。

 泥と埃に塗れた地面に、白いチョークのようなもので、直径一メートルほどの『いびつな円』が描かれていたのだ。

 その円の(ふち)は、何度も、それこそ何十人もの手によって乱暴になぞられたのか、ひどく太くかすれており、円の内部には、枯れて茶色く変色した花束や、空き缶、泥に汚れた硬貨などが、まるで神棚へのお供え物のように乱雑に置かれていた。


「ふむ。なんとも稚拙で、滑稽な模倣じゃな」


 如月さんは、そのチョークの円を見下ろし、呆れたように小さく鼻を鳴らした。


「模倣って……これ、もしかして」


「左様。数日前にわしとお主が関わった、あの『砂場の卵焼き』の一件じゃ。タワーマンションの麓、南公園の砂場に、かの少年が描いた拒絶の円。……その個人的でささやかな祈りの形が、都市の噂という名の不確定なノイズに乗ってこの旧市街へと波及し、歪んで定着した結果がこれじゃ」


 如月さんは、純白の手袋をはめた手で、チョークの円の縁を自らの指先で空間になぞるように宙を掻いた。


「人間というものは、新市街のような圧倒的で完璧なシステムを前にして自らの無力さを悟った時、すがりつくための『象徴』を欲しがる生き物じゃ。新市街の論理からこぼれ落ちたこの旧市街の住人たちは、誰かが描いた『神聖な円』という都市伝説を勝手に曲解し、この廃屋を新たな祈りの場として定義づけたのじゃろう。……なんとも非論理的で、情動の欠乏に支配された愚鈍な行為よ」


「でも、あの老人は、歩道橋から逃げてここに……」


「クリアです。お嬢様」


 僕の言葉を遮るように、廃屋の中から雑賀さんの冷徹な声が響いた。

 彼女はすでに半開きの鉄扉の奥へと潜入し、内部の脅威を完全に制圧したようだ。


「よし。入るぞ、サクタロウ。この歪な祈りの円の中心に、どのような『ルーツ』が隠されているのか、とくと拝見しようではないか」


 如月さんは、チョークの円を踏み(にじ)ることもなく、優雅な足取りでそれを跨ぎ越し、暗い廃屋の中へと足を踏み入れた。

 僕も痛む脚を引きずりながら、その後を追う。


 廃屋の内部に入った瞬間、僕の嗅覚は、強烈なまでの『異臭』に真っ向から殴りつけられた。

 いや、それは一般的な廃屋に漂う腐敗臭や下水の匂いではない。

 圧倒的な質量を持った、暴力的なまでの『甘さ』だ。

 イチゴと砂糖を極限まで煮詰めたような、しかしどこか人工的で安っぽい果糖の匂いが、古い埃やカビの匂いと混ざり合い、息をするだけで喉の奥が焼け付くような、濃密な空気の壁を作っていた。


 雑賀さんが、無言のまま手にした懐中電灯(タクティカルライト)のスイッチを入れ、真っ暗な廃屋の奥へと強烈な白色光を照射した。


「……っ!!」


 光の束が闇を切り裂き、その全貌を暴き出した瞬間、僕はあまりの非現実的な光景に、言葉を失ってその場に立ち尽くした。


 広い町工場の跡地。その中央の広大なスペースを埋め尽くすようにして、巨大な『赤い山』が形成されていた。

 一つ、二つではない。百や二百でもない。

 数千個。いや、下手すれば一万個を超えるかもしれない、あの未開封の赤いイチゴジャムの瓶が、無造作に、しかしある種の狂気的な執念を持って、天井近くまでうず高く積み上げられていたのだ。


 雑賀さんの放つ白色光が、数千のガラス瓶の表面で乱反射を起こし、廃屋の内部をまるで深紅のステンドグラスを通したかのような、不気味で美しい赤い光で満たしている。

 それはまさに、巨大な物流センターから一斉廃棄されるはずだった『不純物の山』そのものだった。


 そして、僕の視線は、その巨大な赤い山の『手前』に作られた、奇妙な空間へと引き寄せられた。


 ジャムの山の麓に、古い木箱や荷役用の木製パレットを組み合わせて作られた、粗末な『祭壇』のようなものが設けられていた。

 そこに供えられているのは、神仏に対する一般的な供物ではない。


 文字盤のガラスが割れ、針が永遠に止まったままの古い腕時計。

 片方だけの、ひどく擦り切れた革の手袋。

 液晶画面が砕け散った、旧式のアナログ携帯電話。

 中身が完全に揮発してしまった、色褪せた香水瓶。


「……なんですか、これ……」


「見てわからぬか、サクタロウ」


 如月さんは、巨大なジャムの山と、その前に広がるガラクタの祭壇を、一切の動揺を見せることなく、冷徹な物理的観察眼で見据えていた。


「これは、この旧市街に吹き溜まった、社会からドロップアウトした人間たちの『廃棄された記憶』じゃ。……新市街の完璧なシステムは、効率的ではない過去の思い出や、生産性のない個人的な感傷を、容赦なくゴミとして切り捨てる。行き場を失った彼らは、この入り口の『円』の噂にすがり、この圧倒的な質量を持つジャムの山を何らかの超越的な『神体』と見立てて、自らの捨て切れない過去をここに供えに来ておるのじゃ」


 如月さんの言葉通り、このガラクタの一つ一つには、この街の論理から弾き出された人々の、泥臭く、しかし切実な情動がこびりついているように見えた。

 そして。

 その祭壇のすぐ横、数千のジャムの山に半分埋もれるようにして、一人の男がうずくまっていた。


「動かないでください」


 雑賀さんの冷たく鋭い声が響き、彼女のタクティカルライトの光束が、その男の姿を容赦なくピンポイントで照らし出した。


 先ほど歩道橋から逃走した、あの初老の男だ。

 彼は、灰色の油まみれの作業着を纏い、まるで巨大な赤い墓標にすがりつくようにして、膝を抱えて激しく震えていた。

 彼の胸元には、歩道橋から持ち去った『今日という一日』を意味するジャムが、今も大切に抱え込まれている。


「……どうして……どうして邪魔をするんだ……」


 ライトの強烈な光に目を細めながら、男は僕たちに向かって、掠れた、血を吐くような声を絞り出した。


「私はただ……あの子との…娘との場所を、守りたかっただけなんだ……! この完璧な街が、私から何もかもを奪っていく中で、あの歩道橋だけが……娘と最後に手を繋いで歩いたあの錆びた鉄の階段だけが、私の唯一の生きた記憶だったのに……っ!」


 男の目から、大粒の涙が溢れ出し、油にまみれた深いシワの刻まれた頬を伝って落ちた。

 僕は、筋肉痛の脚を引きずりながら、男に向かって一歩だけ前に出た。


「おじさん……。あなたが昨日、あのジャムを歩道橋に並べたんですね。……歩道橋が、なくなるから」


「……そうだ」


 男は、胸のジャムをさらに強く抱きしめ、嗚咽を漏らした。


「あの歩道橋は……今月の、五月十二日に解体される。市のシステムが、あのインフラは非効率で無駄だと計算を弾き出したんだ……! だから、私は昨日、初めてあそこに重石を置いた。……この街の暴風に、娘との記憶が吹き飛ばされないように……」


 男の言葉は、図書室で如月さんが推論した通りの、悲痛な『ルーツ』の告白だった。


「でも、解体日は決まっている……。だから、あの階段の段数と同じように、カウントダウンしていくしかなかった……。全部で十五段ある階段の、十三個目以降は、私にはどうすることもできなかった……未来がないんだから……っ! そして今日、初めて一つ減ってしまった……! 日付が変わって、未来が一つ削り取られてしまったんだ! 減っていくのを、自分でずらしていくことしかできない私の気持ちが、お前たちにわかるか……っ!」


 男の絶叫が、数千のジャムの山に反響し、廃屋の中に悲しいこだまとなって響いた。

 僕は、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

 娘との思い出の場所が消えていく。そのカレンダーを、彼自身の手で、今日から毎日一つずつ削り取っていかなければならないという絶望。

 彼が歩道橋の空席に向かってあの呼び鈴を鳴らしたのは、ただの狂気ではない。システムの冷酷な進行に対する、血を流すような抵抗だったのだ。


「……なるほど。お主のその不合理で泥臭い情動のルーツは、十分に理解した」


 しかし。

 僕の胸に広がる感傷を冷水で断ち切るように、如月さんの氷のように冷たい声が響いた。

 彼女は、漆黒のコートのポケットから、先ほど歩道橋で拾い上げた『真鍮の呼び鈴』をゆっくりと取り出した。

 そして、男の涙に同情する素振りすら一切見せず、その呼び鈴を、ガラクタが積まれた祭壇の上へと、まるで最後通牒を突きつけるようにコトリと置いた。


「この呼び鈴で新市街のシステムに注文をつけようとした、歩道橋の解体日に向けたカウントダウンと、娘に対するお主の切実な思い。……その情動の視座からの解析は、これで完了じゃ」


 如月さんは、空いた右手を、目の前の巨大なジャムの山へと向けた。

 彼女のアメジストの瞳が、暗闇の中で獲物を狙う猛禽類のように、鋭く、そして残酷に輝いた。


「だがな、老人。わしは、他人の悲しい物語を聞いて共に涙を流すような、安い三文芝居の観客ではない。……わしが求めるのは、どこまで行っても『モノのルーツ』という物理的な真実だけじゃ」


 如月さんは、純白の手袋で、山のように積まれたジャムの一つをビシッと指差した。


「お主は昨日、歩道橋の階段に十二個のジャムを並べ、カウントダウンを開始した。それは事実じゃろう。……しかし、この廃屋の中にある、この圧倒的な質量の『不純物』はどう説明する?」


 如月さんの冷徹な声が、廃屋の空気を凍らせる。


「ここに積まれている数千、いや数万に及ぶこのジャムはすべて、規定の糖度に一パーセント満たなかったため、今日……つまり五月一日に、地下の焼却炉で一斉廃棄される予定の不良品じゃ。現在も、巨大な全自動物流センターの地下深くに、生体認証と厳重な物理ロックをかけられて保管されている『はず』の物質じゃ」


 如月さんの言葉に、男の肩がビクッと大きく跳ねた。


「お主のような、新市街のシステムの外側にいる一介の清掃員が。……あるいは、この廃屋にガラクタを供えに来るような旧市街の弱者たちが。……アリ一匹通れぬ物流センターの地下から、これほどの物量の『今日廃棄されるはずの物質』を、いったいどうやってこの場所に持ち込んだというのじゃ?」


 如月さんの指摘は、まさに圧倒的な物理的矛盾だった。

 一個や二個ではない。この数千個のガラス瓶を運び出すには、大型トラックと多数の人員が必要だ。個人が手作業で持ち運べる質量ではない。


「魔法や瞬間移動など、この世には存在せん。システムの外側にいるお主が、この膨大な質量を動かしたのならば、必ずそこには『論理的に説明可能な、物理的な供給経路』が存在するはずじゃ」


 如月さんは、怯える男を見下ろし、一切の逃げ道を塞ぐように言い放った。


「さあ、答えてもらおうか。……お主は、この完璧な街のシステムに、どのような物理的横穴を開けたのじゃ?」


 廃屋の中に、息の詰まるような沈黙が降りた。

 男は、ジャムの山に背中を押し付けるようにして震え、僕と雑賀さんは、眼前の巨大な矛盾の山を前にして、言葉を失っていた。

 遅発性筋肉痛の鋭い痛みが、僕の脚を突き刺し続けている。だが、それ以上に、この狂気じみた赤い山を築き上げた『見えないからくり』の存在が、僕の背筋を氷のように冷たく撫で上げていた。



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