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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』~リメイク~  作者: アリス・リゼル


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第2話『甘い重石の並べ方』 ~section3:夜闇の喪失と、鳴らない呼び鈴~

 月見坂市が、四月三十日という一日の終わりを告げ、五月一日という新たな始まりへと静かに移行しようとする深夜二十三時四十五分。

 都市を統べる論理が全市民の活動データをリセットし、翌日の最適化されたスケジュールへと移行するこの絶対的な境界の時間帯において、新市街と旧市街を隔てる国道十六号線は、まるで巨大な墓標のように底知れぬ静寂に包み込まれていた。


 如月コンツェルンが誇る最高級の漆黒のレクサスは、大排気量のV型エンジンの駆動音はおろか、タイヤとアスファルトが擦れるロードノイズすら車内に一切届かせないほどの完璧な静粛性を保ったまま、深夜の歩道橋のたもとへと滑るように停車した。

 運転席のドアが音もなく開き、雑賀さんが夜の闇へと降り立つ。彼女は漆黒のパンツスーツに身を包み、アスファルトに靴音一つ響かせることなく後部座席へと回り込むと、白魚のような細い指で優雅に、しかし周囲への極限の警戒を怠らぬ鋭い視線を保ちながら、僕たちのドアを開け放った。


「お嬢様、到着いたしました。……周囲半径五十メートル以内に、動体反応および不審な熱源は確認できません。ですが、念のため私の背後から離れぬようお願いいたします」


 雑賀さんの声は、深夜の冷え切った空気に氷を落としたかのように澄み切って、そして極めて冷徹だった。彼女の姿勢には一切の隙がなく、いざという時には彼女自身の肉体が最強の物理的防壁と化すための、生体力学的な完璧なバランスが保たれている。


「ご苦労じゃ、由梨。サクタロウ、いつまでその快適なレザーシートに温もりを求めておる。さっさと降りるのじゃ」


「……わかってますよ。でも、脚が、本当に……っ」


 僕は、後部座席から這い出るようにして夜の舗道へと足を下ろした。

 車内の完璧な温度管理システムから一歩外へ出た瞬間、旧市街から吹き込む湿った冷風が、制服の薄い生地を容赦なく貫通し、僕の体表温度を急激に奪い去っていく。そして、冷気に晒された大腿四頭筋が強烈な収縮を起こし、声にならない悲鳴を上げた。

 遅発性筋肉痛のピークは、間違いなく今この瞬間に訪れていた。関節を曲げるたびに、錆びた鉄の扉を無理やりこじ開けるような鈍い痛みが走り、僕は思わず歩道橋の冷たい鉄柱に手を突いて、荒い息を吐き出した。


 頭上を見上げる。

 巨大な鉄の恐竜の死骸のような歩道橋は、新市街から放たれる暴力的なまでのレーザー光の余波と、等間隔に設置された街灯の青白い光に照らされ、複雑で幾何学的な影をコンクリートの地面に落としていた。

 昼間には単なる老朽化したインフラに過ぎなかったこの場所が、深夜の闇に包まれることで、まるで何かの儀式を執り行うための巨大な祭壇のように、不気味なほどの静謐(せいひつ)さを(まと)っている。


「……よし。まだ日付の更新には間があるようじゃな」


 如月さんは、漆黒の薄手のコートを夜風に翻し、歩道橋の階段へと視線を向けた。

 そこには、今朝僕たちが確認した時と全く同じように、一段目から十二段目まで、計十二個の『赤いジャムの瓶』が、ミリ単位の狂いもなく北を向いて整列していた。

 十三、十四、十五段目は、相変わらず空席のままだ。誰かが持ち去った形跡も、悪戯された形跡もない。ただ、深夜の街灯の光を吸い込んだ赤い果肉が、今朝よりもさらに重く、ドロリとした血液のように沈殿して見えた。


「如月さん……。本当に来るんですか、ジャムを置いた犯人は」


「犯人などという薄っぺらい呼称はよせ。……あの重石を置いた者は、この街の完璧なシステムに対して、自らの魂を削るような切実な祈りを捧げておるのじゃ。……見よ、サクタロウ。あの十二個のジャムの、一番下に置かれた一段目の瓶を」


 如月さんは、闇夜に溶け込むような動作で階段の死角――巨大な鉄柱の裏側へと身を潜めながら、僕に指し示した。雑賀さんもまた、一切の衣擦れの音を立てずに僕たちの斜め前方に立ち、完璧なカバーリングの態勢をとる。

 僕は痛む膝を庇いながら鉄柱の影にしゃがみ込み、階段の一段目に置かれた瓶を凝視した。


「一段目の瓶……。今朝確認した通り、すべて同じ『五月一日』の廃棄ロットのジャムですよね」


「左様。瓶の印字はすべて同じじゃが、あの重石を置いた者にとって、あの階段の『段数』こそが、解体日に向けた不可逆のカレンダーなのじゃ。一番下の『一段目』が、今日という一日。そして一番上の『十二段目』が、解体日である五月十二日。……今日という日が終わる深夜零時をもって、一段目の瓶は存在意義を完全に喪失する。カウントダウンの論理が正しければ、必ず『今日』という一日が削り取られる瞬間が訪れるはずじゃ」


 如月さんは、懐から純銀の懐中時計を取り出し、カチャリと蓋を開けた。

 精緻な歯車が時を刻む微かな音が、僕たちの間にだけ共有される。

 時刻は、二十三時五十八分。


「息を潜めよ、サクタロウ。お主のその無駄に荒い呼吸音が、対象の接近を阻害するノイズとなり得る」


 僕は両手で自らの口を塞ぎ、冷たい鉄柱に背中を預けた。

 深夜の国道には、車の一台も通らない。新市街の巨大なビル群は不夜城のように輝き続けているが、その光はこの旧市街の境界線までは届かない。

 沈黙の中、懐中時計の秒針だけが進んでいく。


 ――そして、日付が完全に『五月一日』へと変わった、その直後だった。


 ザッ、……ズリッ。


 旧市街へと続く、光の届かない暗い国道の歩道側から。

 ひどく重く、足の裏をアスファルトに引きずるような、不規則な足音が聞こえてきた。


 雑賀さんの肩が、わずかに沈み込んだのが見えた。彼女は無音のままスラックスの下に隠された大腿部の筋肉を瞬時に収縮させ、いかなる物理的脅威にも対応できる臨戦態勢へと移行する。

 やがて、街灯の青白い光の端に、一つの人影がふらふらと浮かび上がった。


 それは、暴漢や凶悪なテロリストなどではなかった。

 異常なまでに痩せ細り、まるで枯れ木のような手足をした、初老の男性だった。

 彼は、如月学園の清掃員が着るような、しかしそれよりもずっと着古され、全体に油汚れと泥が染み付いた、くすんだ灰色の作業着を纏っている。

 その落ち窪んだ眼窩の奥には、恐怖とも、絶望ともつかない、尋常ではない切実な光が宿っていた。


 男は、何かに追われるように、あるいは見えない重圧に押し潰されそうになりながら、ひどくぎこちない足取りで歩道橋の階段へと近づいてきた。

 僕は、その男から発せられる『匂い』に気がついた。

 深夜の冷気の中に混じる、ひどく重く、油ぎった匂い。新市街の電気自動車からは絶対に発生しない、旧式の内燃機関用『エンジンオイル』の劣化した残り香だ。


 男は、階段の一段目の前に立つと、膝から崩れ落ちるようにしてコンクリートの上にへたり込んだ。

 そして、震える両手を伸ばし、まるで眠っている我が子を抱き上げるような極めて慎重な動作で、一段目に置かれていた『今日という一日を意味するジャムの瓶』を両手で包み込んだ。


「……ああ……。今日が、終わってしまった……」


 男のひび割れた唇から、湿った夜風に溶けてしまいそうなほど細く、掠れた独り言が漏れ出した。

 彼はその瓶を自らの胸元に抱え込むと、今度は二段目に置かれていた瓶に手を伸ばした。

 そして、その瓶を一段目へと、ゆっくりと、ミリ単位の狂いもないように『下へ』と移動させた。


 僕は、息を呑んだ。

 彼は、三段目の瓶を二段目へ。四段目の瓶を三段目へと、一つずつ、自らの手で移動させているのだ。


「……手作業……。これから解体日まで毎日、こうやって自分で一つずつずらしていくつもりなんでしょうか……?」


 僕は、極小の声で如月さんに問いかけた。


「左様。あれが、彼にとっての『儀式』なのじゃ。……ただ置くだけではない。自らの手で過去を精算し、残された未来の質量を一つずつ確認するように、瓶を下の段へと降ろしていく。……なんとも泥臭く、非効率で、狂気じみた情念のからくりではないか」


 男の作業は、遅々として進まなかった。一つ瓶を動かすたびに、彼の口からは重い溜息が漏れ、その背中は目に見えて小さく縮こまっていくように見えた。

 やがて。

 十一先の瓶を十段目へ。そして、十二段目にあった最後の瓶を、十一段目へと移動させ終えた。


 結果として、今朝までは最後の瓶が置かれていた『十二段目』には何も置かれておらず、コンクリートの染みが剥き出しになった、不気味な『空席』が生まれた。

 十五段ある階段の、上部四段が完全に空っぽになったのだ。

 未来が削り取られ、残された時間が一つ、確実に消滅した瞬間だった。


 男は、その空席となった十二段目を、まるでそこに開いた暗い穴を覗き込むように、虚ろな目で見つめ続けた。

 彼の胸元には、回収された一段目のジャムが一つだけ抱えられている。当然、空席を埋めるための『新しい十二個目のジャム』など、彼の手元にはない。このカウントダウンは、五月十二日の解体に向けた、不可逆の喪失の儀式なのだから。


 だが、男は突然、作業着の汚れたポケットに空いた片手を突っ込み、鈍い黄金色の輝きを放つ『ある物体』を取り出した。


――古びた、真鍮(しんちゅう)製の、重厚な『呼び鈴』。


 かつて旧市街がまだ活気に満ちていた頃、小さな商店のレジカウンターや、古いホテルのフロントに置かれていたような、上部のボタンを指で押し込めば『チーン』と澄んだ音を鳴らすはずの、アナログな金属の塊だ。

 男は、胸にジャムを抱えたまま、もう片方の手でその真鍮の呼び鈴を、空っぽになった『十二段目』の空間――何もない虚空に向けて、ゆっくりと差し出した。


「……返してくれ。……私から、あの子との場所を、奪わないでくれ……っ」


 男は、震える親指で、呼び鈴の上部にあるボタンを押し込んだ。


 ――チーン。


 深夜の静寂の中に、場違いなほど澄んだ、透明な金属音が響き渡った。

 その音は、冷たいアスファルトの上を波紋のように広がり、空席となった階段から、光の届かない新市街の巨大なビル群へと向かって、ひどく虚しく吸い込まれていく。


「……っ」


 僕は、その異様で、しかしあまりにも悲痛な光景を前に、胸の奥を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。

 なぜ、未来が減ってしまった空席に向かって、あんな古い呼び鈴を鳴らしているのか。

 それが、この冷酷な都市のシステムに対する、決して届くはずのない『注文』なのだと、凡人の僕の鈍い情動すらもが理解してしまったからだ。

 失われていく誰かとの記憶の場所。減っていく未来。それに抗う術を持たない無力な老人が、虚空に向かって助けを呼ぶベルを鳴らしている。

 僕は、無意識のうちに喉の奥から、声を漏らしてしまっていた。


「……そんなの、あんまりじゃないか……」


 静まり返った深夜の国道に、僕の微かな呟きが、予想以上に大きく反響してしまった。


 ビクリ、と。

 初老の男の肩が、まるで高圧電流を流されたかのように大きく跳ね上がった。


「誰だッ……!?」


 男は弾かれたように振り返り、僕たちが潜んでいる鉄柱の影の方へと、恐怖に満ちた視線を向けた。

 彼の両手が激しく震え、持っていた真鍮の呼び鈴が、手から滑り落ちた。


 ガラン、ガランッ!


 重い真鍮の塊が、コンクリートの階段を一段、また一段と跳ねながら転がり落ちていく。その鈍く甲高い金属音が、夜闇の底へと暴力的に響き渡る。

 男は、転がり落ちた呼び鈴を拾おうともせず、胸に抱えた一つのジャムだけを死守するように抱え込み、悲鳴にも似た喘鳴を漏らしながら、歩道橋の階段から飛びずさった。

 そして、一切の光を拒絶するような、旧市街の暗く深い路地裏へと向かって、転がるように走り出した。


「……っ! 待って、僕たちは怪しい者じゃ……!」


 僕は思わず影から飛び出し、逃げゆく男の背中に向かって手を伸ばしたが、男の姿は瞬く間に闇の中へと溶け込んでしまった。

 雑賀さんが即座に追跡の体勢をとるが、如月さんが無言のまま片手を水平に上げ、それを制止した。


「サクタロウ。お主のその無駄に大きな声帯は、対象を威嚇して逃亡させるための機能しか備わっておらぬのか。……愚鈍な」


 如月さんが、鉄柱の影から静かに歩み出た。

 彼女は、僕の失態を冷酷に責めながらも、その視線は逃げた男の背中ではなく、階段の下まで転がり落ちて止まった『真鍮の呼び鈴』へと向けられていた。

 如月さんは、自らの手でゆっくりとしゃがみ込み、純白の綿手袋をはめた手で、その冷たい真鍮の塊を拾い上げた。


 彼女は、呼び鈴の裏側にこびりついた黒い油汚れを指先で拭い、その匂いを静かに嗅ぎ取った。


「間違いない。あの男の衣服から放たれていたものと同じ、旧式のエンジンオイルの匂いじゃ。……それに、手入れの行き届いていないこの金属の劣化具合。あの男は、ただの通行人ではない。旧市街の、油に塗れた物理的なインフラの裏側を知り尽くした者じゃ」


 如月さんは、手の中にある真鍮の呼び鈴を、アメジストの瞳で静かに見つめた。


「如月さん……。どうしてあの男は、減ってしまった階段に向かって、あんな呼び鈴を鳴らしたんでしょうか」


 僕は、筋肉痛の脚を引きずりながら如月さんの隣に立ち、彼女の手の中にある金属の塊を覗き込んだ。


「簡単な情動の帰結じゃ、サクタロウ。……あの男は、明日になればまた一日、この場所の未来が削り取られてしまう恐怖に耐えきれなかったのじゃ。だからこそ、自らの手元にある『最も強い記憶の欠片』を用いて、新市街のシステムに対して、決して届くはずのない注文を行った」


 如月さんは、呼び鈴の上部にあるボタンを、親指で静かに押し込んだ。


 ――チーン。


 再び、深夜の静寂の中に、透明な金属音が響き渡った。


「……『私の未来を、思い出の場所を奪わないでくれ』という、悲鳴にも似た注文じゃよ」


 如月さんは、鳴り終わった呼び鈴をコートのポケットへと滑り込ませ、男が逃げ去った漆黒の闇をじっと見据えた。

 その瞳には、恐怖も同情もなく、ただ純粋な『ルーツへの渇望』だけが静かに燃え上がっている。


「追うぞ、由梨。そしてサクタロウ。……お主の唯一の存在意義である、その泥臭い脚力と無駄に頑丈な心肺機能を見せてみよ。あの男の残した、油の匂いと悲痛なノイズの軌跡を、わしの物理的観察眼が完全に見失う前にな」


「……っ、了解しました。でも、本当に脚が限界で……!」


「黙って歩を進めるのじゃ。筋肉の悲鳴など、物理的な運動によって上書きしてしまえばよい。……行くぞ」


 如月さんは、漆黒のコートを翻し、一切の躊躇なく、光を拒絶する旧市街の暗闇へと、その華奢な足を踏み入れた。

 雑賀さんが、音もなくその背後にピタリと追従する。


 僕は、重力に逆らうようにして痛む脚を前へと持ち上げ、逃げ場のない夜の底へと続く深い路地裏へと、彼女たちの後を追った。

 背後の歩道橋では、十一個に減ってしまった不完全なジャムの瓶たちが、僕たちの後ろ姿を、まるで墓標のように静かに見送っていた。



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