第2話『甘い重石の並べ方』 ~section2:図書室の玉座と、減りゆく未来の不純物~
如月学園高等部の放課後は、新市街のあらゆる場所と同様に、不快なノイズが一切排除された『無菌状態の静寂』に支配されている。
最新の防音材が埋め込まれた壁は、生徒たちの雑談や溜息さえも瞬時に吸い込み、学園を統括するシステムが設定した『学習効率を最大化する環境音』――小鳥のさえずりや川のせせらぎを模した、極めて人工的で計算し尽くされた高周波の電子音――だけが、無機質な廊下に薄く引き延ばされていた。
そんな『完璧な』校舎の片隅、月見坂市がスマートシティとして発展を遂げる過程で置き去りにされ、時間の流れから完全に切り離されたような旧校舎の二階。
その一番奥に位置する、分厚いオーク材の扉で閉ざされた図書室の中で、僕の心臓は、都市の最適解から大きく外れた、不規則で焦燥感に満ちた早鐘を打っていた。
「……如月さん。これ、何かの嫌がらせですよね? それとも、僕に対する新しい形の精神的拷問か、あるいは如月家流の極めて高度でシュールなジョークですか?」
僕は、旧校舎図書室の使い込まれたマホガニーの長方形テーブルに、一枚のプリント用紙をバタンと突き出し、目の前の豪奢な一人掛けソファに優雅に腰掛ける令嬢を問い詰めた。
僕の視線の先、テーブルの上に置かれたのは『進路希望調査票』。それは学園の全生徒に配布された、新市街のシステムに己の人生という名のレールを登録し、確定させるための『契約書』とも呼べるものだ。新市街の住人にとって、この紙を埋める作業は、都市を統べる論理が弾き出した『その人間が最も幸福かつ効率的に生きられる職業』の計算結果を、ただそのまま書き写すだけの退屈な事務作業に過ぎない。
だが、僕の調査票の『第一希望:進路先』の欄には、僕自身の拙い字ではなく、純銀の万年筆によって記された、流麗すぎて判読に時間がかかるほどの気高い美文字で、こう記されていた。
――『如月瑠璃の思考補助員』。
「嫌がらせとは心外じゃな、サクタロウ。お主のような、新市街の平均値にも届かぬ鈍重な処理能力しか持たぬ者が、この高度に管理された社会において『人間』として扱われる唯一の道を示してやったのじゃ。……お主はわしの隣に侍り、わしが見落とした不純物を拾い、わしが歩く道の石をどけ、わしの思考が及ばぬ泥の中へ手を突っ込んで、物理的な真実を掴み取る。……これほど生産的で、かつ慈悲深い未来が他にあるというのなら、今すぐこの場で述べてみよ」
如月さんは、アンティークのティーカップに注がれた最高級のダージリンの香りを、目を閉じてゆっくりと楽しみながら、事も無げに言い放った。
彼女の背後にある天井まで届く巨大な書架には、電子化の波に飲まれてもはや誰も読まなくなった分厚い百科事典や、皮装丁の古文書が、まるで過ぎ去った時代の墓石のように静かに並んでいる。西側の窓から差し込むオレンジ色の斜陽が如月さんの横顔を逆光で包み込み、彼女が座るただの古びたソファを、異世界の残酷で美しい王座のように見せていた。
「補助員って何ですか、補助員って! 僕にも一応、ささやかなやりたいこととか、将来設計とか……市役所の職員になって、新市街の隅っこで、静かに波風立てずに暮らすとか、そういう平穏な夢があったんですよ! それを、思考補助員なんて……僕はガス漏れを知らせるカナリアか何かですか? それとも、如月さんの手足となって泥を掘るための重機扱いですか?」
「平穏? ……笑わせるな、サクタロウ」
如月さんはティーカップをソーサーへと音もなく置き、アメジストの瞳をスッと細めて僕を射抜いた。
「お主、今朝あの歩道橋の階段に並んだ赤いジャムの瓶を見ても、まだ自分の乗っているレールが安全だと信じておるのか? この街のシステムが提示した『正解』に従って生きるということはな、あのジャムのように、規定の枠からたった一パーセントの不完全さを検知された瞬間に、誰にも知られることなく廃棄リストに名を連ねるということなのじゃよ。お主が守ろうとしている平穏とは、自分がいつ廃棄されるかを知らぬまま、温室の隅で震えている臆病者の別名に過ぎぬ」
如月さんの言葉が、鋭い氷の刃となって僕の胸の奥を深く刺した。
今朝、あのサビだらけの冷たいコンクリートの上で見つめた、十二個の赤い瓶。
規則正しく並べられ、朝日の中で血のように透き通っていた、あの奇妙な光景。
もし僕が、都市を統べる論理から『不要なノイズ』だと判断されたら? 公務員としての適性がない、あるいは効率的ではないと診断された瞬間に、僕の居場所はどこになるのだろうか。この街の影に沈む旧市街の、さらに暗い路地裏か、あるいはあの歩道橋の階段の隅に置かれる、名もなき瓶の一つに過ぎなくなるのではないか。
「……ぐっ」
僕は反論の言葉を見つけられず、代わりに大腿四頭筋に走った強烈な筋肉痛の痛みに顔を歪めた。
如月さんは、僕の沈黙を『同意』と受け取ったのか、満足げに小さく頷くと、傍らに置いてあった古い革表紙の手帳を開いた。
「さて、無駄な情動のやり取りはここまでじゃ。サクタロウ、今朝の『赤い重石』についての真実を開示してやろう」
「……お姉さんに、調べてもらったんですか」
「左様。我が如月コンツェルンのすべての数字を掌握し、経理・会計を一手に担う数字の魔術師……姉の翡翠に、この街の物流を裏で支える『見えない帳簿』を精査させた結果じゃ」
如月翡翠さん。如月さんの実の姉であり、如月家の金庫番。如月さんとはまた違ったベクトルで頂点を極める天才だという話は聞いている。直接お会いしたことはないが、常に優しく微笑みながらも、一円の誤差も許さない恐るべき女性らしい。
「姉は、あのロット番号『B749』の行方を、わずか数分で完全にトレースしてみせた。……そして、わしにこう言付けを頼んできたぞ。『光太郎くんには、あまり無理をさせないでね。でも、彼の困った顔は少し見てみたい気もするわ』とな」
「なんで僕の名前を知ってるんですか、翡翠さん。それに、そのからかうような伝言は絶対におかしいですよ。僕、面識ないんですけど……」
「わしが知るか。姉は数字の羅列から他人の人間関係までをも読み取る、ある種の変態じゃからな。……話を戻すぞ」
如月さんは手帳のページを指先で弾き、その冷徹な眼差しを一段と鋭くした。
「今朝、わしの純白の手袋が捉えた結露と粉塵のデータ通り、あのジャムは旧市街の小売店を経由したものではない。如月物流ネットワークの心臓部である『巨大全自動物流センター』の深部から、直接持ち出されたものじゃった。……該当ロット『B749』は、品質管理の厳格な検査において、内容物であるイチゴの糖度が規定の四十パーセントに、わずか『一パーセント』だけ満たない三十九パーセントじゃった」
「たった一パーセント……。それだけで、あのジャムたちは全部不良品扱いになったってことですよね」
「その通りじゃ。人間の味覚などという曖昧な器官では、その一パーセントの差異など決して知覚できぬ。だが、この完璧を狂信的に追い求める街の論理においては、その微小な誤差が『絶対的な不完全さ』として処理される。……ゆえに、あのロットは市場に出回ることなく、システムによって『全品廃棄処分』の判決を下された」
如月さんは純銀の万年筆を手の中でクルクルと回しながら、言葉を区切った。
「そして、ここからが物理的な矛盾じゃ。……裏帳簿の記録によれば、あのジャムのロットが地下の焼却炉へと送られ、完全にこの世から消滅する『執行日』は、来月の一日に設定されておる。現在、あのジャムたちは、物流センターの地下数十メートルに位置する、何重ものセキュリティで封鎖された『廃棄用コンテナ』の中に、一瓶の狂いもなく厳重に保管されている……『はず』なのじゃ」
「保管されているはず、なのに」
僕は、今朝の歩道橋の冷たいコンクリートの感触を思い出し、背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
「今朝、僕たちの目の前には、確かに十二個のジャムがありました。ホログラム映像でも、幻覚でもない。如月さんは、その純白の手袋で、確かにガラスの冷たさと無機質な粉塵に触れましたよね。……未来に焼却されるはずの『不純物』が、どうして現在、あの歩道橋に並んでいるんですか。セキュリティを突破して、誰かが物流センターの地下から盗み出したってことですか?」
「お主は本当に、物事を直線的にしか捉えられぬのだな」
如月さんは呆れたように小さく息を吐いた。
「如月コンツェルンの物流センターは、アリ一匹の侵入すら許さぬ完璧な物理的防壁で守られておる。外部の人間が侵入し、数百グラムの瓶を何十個も抱えて逃走するなど、物理的に不可能じゃ。……物質は、空間を跳躍したり、時間を遡ったりはせぬ。ならば、答えは一つしかない。……何者かが、システムの『内側』から、あるいはシステムそのものが持つ『物理的な横穴』を利用して、あのジャムを外の世界へと滑り落としたのじゃ」
「横穴……」
「そうじゃ。……だが、今日わしが解明すべき真のルーツは、その泥棒の具体的な手口ではない。……あの歩道橋の階段に刻まれた、あまりにも不気味で、そして切実な『数字の矛盾』じゃ」
如月さんは手帳の空白のページに、万年筆でスラスラと『30』と『12』という二つの数字を書き込んだ。
「サクタロウ。お主は今朝、あの歩道橋の階段の構造を正確に把握しておったな?」
「はい。国道十六号線を跨ぐ歩道橋ですから、大型トラックが下を安全に通過するための高さを確保しなければなりません。階段は踊り場までが十五段、そこから折り返して上部にさらに十五段。合計で三十段ありました。……でも、ジャムの瓶が置かれていたのは、下から数えて十二段目まで。十三、十四、十五段目は空っぽで、踊り場の先にも何も置かれていませんでした」
「そこじゃ。なぜ、三十段ある階段の、中途半端な『十二段目』で重石を置くのをやめたのか。……単にジャムの数が足りなかったからか? 否、物流センターの地下には、あのロットのジャムが何千、何万個と眠っておる。重石として置くならば、三十段すべてを真っ赤に埋め尽くした方が、祈りとしても呪いとしても完全じゃろう」
如月さんは万年筆のペン先で、『13』という数字を書き、その上にバツ印を引いた。
「これはな、十三個目を置かなかったのではない。……『置くことができなかった』のじゃよ」
「どういう意味ですか?」
僕の問いに対し、如月さんはアメジストの瞳を薄暗い図書室の窓の外――オレンジ色に染まり始めた新市街のビル群へと向けた。
「あの赤いジャムが、歩道橋をこの街に繋ぎ止めるための『重石』であるならば。……十三個目を置けない理由はただ一つ。……この歩道橋にとって、『十三日目以降の未来』が、物理的に存在しないからじゃ」
「十三日目以降の……未来がない?」
「左様。今日が四月の終わりじゃとして、十二個のジャムは、明日、明後日と続く日数のメタファー。……つまり、あの歩道橋は、来月の『五月十二日』をもって、この都市の再開発計画により、跡形もなく解体され、消滅することが決定しているのじゃろう」
如月さんの言葉が、図書室の静寂の中に重く響き渡った。
「解体……。あの歩道橋が、なくなる?」
「新市街の住人が誰も使わず、維持コストだけがかさむ古い鉄の塊じゃ。都市を統べる論理が、あれを『非効率なノイズ』として排除するのは火を見るより明らかじゃ。……あの階段に並べられた十二個のジャムは、ただの置き忘れでも、アートでもない。……歩道橋が消滅する五月十二日に向けた、誰かの切実で、そして残酷な『カウントダウン』なのじゃよ」
カウントダウン。
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、あの等間隔に並んだ真っ赤な瓶の列がフラッシュバックした。
北を向いて整列した、未来に廃棄される予定の不完全なジャム。
それが、同じく未来に廃棄される予定の古い歩道橋の階段に、残された寿命の日数だけ置かれている。
誰が、何のために。そこには、システムには決して計算できない、人間の泥臭く、執念深い情動がこびりついていることが、凡人の僕にでもはっきりと理解できた。
「……サクタロウ。お主のその無駄に長い脚の筋肉痛は、今夜一日くらいは耐えられるな?」
如月さんは手帳を閉じ、ソファから優雅に立ち上がった。
「えっ……今夜? まさか、またあの歩道橋に行くんですか? でも、今はまだ夕方ですよ。日が変わる深夜まで、いったいどうするつもりですか」
「決まっておる。ここでわしの思考を補助するための茶を淹れ続け、そしてわしが命じる古文書の解読作業を手伝うのじゃ。……日が変わる零時まで、一秒たりともお主を休ませるつもりはないぞ」
「……鬼ですか、如月さんは」
結局、僕はその理不尽な命令に逆らう術を持たず、完全に日が落ちて図書室が真っ暗闇に包まれるまで、如月さんの手足となって古い文献の埃を払い、何度もお湯を沸かし直すという苦行を強いられた。筋肉痛の脚はすでに棒のように硬直し、疲労で意識が飛びそうになるのを、濃い紅茶のカフェインで無理やり繋ぎ止める。
やがて、如月さんの懐中時計が、深夜十一時三十分を告げた。
僕たちは図書室を後にし、身を切るような夜風が吹き抜ける旧校舎の裏手へと出た。
そこには、いつも僕たちを運ぶ巨漢の黒田さんの姿はなく、代わりに月明かりに照らされた漆黒のレクサスの前に、一人の女性が静かに佇んでいた。
黒田さんのような威圧的な筋肉の鎧はない。細身で長身、仕立ての良い漆黒のパンツスーツを着こなしたその女性は、一切の無駄な動きを見せることなく、まるで最初からその空間の一部であったかのように夜の闇に溶け込んでいた。
如月コンツェルンのボディーガードNo.2、雑賀由梨さんだ。
彼女は女性でありながら、その冷静沈着な判断力と、並の屈強な男たちを数秒で無力化する極めて合理的な武術の腕前において、あの黒田さんに匹敵すると言われている。
「お嬢様、お車へ。光太郎さんも、どうぞ」
雑賀さんの声は、冷たい夜気に溶け込むような、感情の起伏を一切感じさせないクールで澄んだ響きを持っていた。彼女は流れるような動作で後部座席のドアを開け、僕たちを車内へと促す。
「ご苦労じゃ、由梨。黒田の暑苦しい息遣いがないだけで、車内の空気が格段に澄んでおるわ。……南月見坂方面の、旧市街へ抜ける国道の歩道橋へ向かえ」
「承知いたしました」
雑賀さんは運転席に滑り込むと、V型エンジンの駆動音すら感じさせないほど滑らかに、漆黒のリムジンを夜の街へと発進させた。
車窓の外には、新市街の暴力的なまでの光の洪水が流れていく。しかし僕たちが向かう先には、その光を拒絶するような旧市街の深い影と、未来のゴミが置かれた錆びた歩道橋が待っている。
日が変わる深夜。
十二個あった未来の重石が、もし本当に『更新』され、一つ削り取られて十一個に減るのだとしたら。
僕たちは、その『未来の死』を、自らの目で直接観測することになるのだ。




