第2話『甘い重石の並べ方』 ~section1:境界線の歩道橋と、途切れた十二の不純物~
その日の朝、月見坂市の空には、まるで薄いすりガラスのような、あるいは質の悪いオブラートのような不透明な白い膜がべったりと張り付いていた。
新市街の中心にそびえ立つ巨大な電波塔が、市民の網膜デバイスやスマートフォンに向けて発信する都市向けの気象データは、湿度四十五パーセント、降水確率ゼロパーセント、風速一・五メートルの『快晴』という、人間が最も快適に活動できる完璧な数値を弾き出しているはずだった。しかし、僕の肉眼が捉える空の色は、どこまでも白茶け、淀んで見えた。
排気ガスや浮遊する花粉、さらには微小粒子状物質に至るまで、巨大な光触媒技術と環境制御システムによって徹底的に濾過されているはずの新市街の無機質な空気。その中に、今朝はどこからか旧市街特有の匂いが微かに、しかし確かに混じって漂ってきている。古い機械油が焦げたような鉄の匂いと、陽の当たらない路地裏の湿った土が蒸れるような、ひどく泥臭く、それでいて生命力に溢れた『体臭』のような空気だ。
「……痛っ、ぐぅ……、クソッ……」
僕は、サビの浮いた愛用のママチャリのペダルを一段踏み込むごとに、思わず奥歯を噛み締め、低く掠れた呻き声を漏らした。
数日前に巻き込まれた『砂場の卵焼き事件』の代償は、遅発性筋肉痛という極めて現実的で、かつ暴力的な物理的痛みとなって、今朝の僕の肉体を容赦なく支配し尽くしていた。
思い返せば、あの日の夜。旧市街の海風が吹き荒れる港湾地区から、高台にある新市街のタワーマンション『ステラ・レジデンス月見坂』の足元まで、一切の電動アシスト機能を持たない鉄の塊で、しかも急勾配の坂道を駆け上がるという狂気的なヒルクライムを強要されたのだ。
大腿四頭筋から下腿三頭筋にかけての筋繊維は、その常軌を逸した物理的負荷によって微細な断裂を無数に引き起こし、現在進行形で強烈な炎症反応を起こしている。関節を曲げるたびに、熱く焼け付くような痛みが神経ネットワークを駆け抜けて脳髄を直接殴りつけ、気休めに貼った安っぽい湿布薬の強烈なメントールの匂いが、制服のズボンの下から僕の鼻腔を絶え間なく刺激し続けていた。
月見坂市。
如月コンツェルンという巨大な資本が徹底的な再開発を行い、数百万台の監視カメラと都市を統べる論理によって、すべての事象が計算し尽くされた、息が詰まるほどに完璧なスマートシティ。
しかし、この街は決して一枚岩のユートピアではない。見えない巨大な境界線によって、世界は残酷なまでに明確に二分されている。
幾何学的なガラス張りの高層ビル群が建ち並び、道行く人々の歩幅さえも最適化されているかのような、清潔で無駄のない『新市街』。そして、急速な時代の流れから見捨てられ、取り残された人々が息を潜めて暮らす、錆びたトタン屋根と複雑な迷路のような路地が入り組んだ『旧市街』。
僕が通う如月学園は、その新市街の奥に広大な敷地を構えている。特権階級の令息や令嬢も多数在籍しているが、入試の基準スコアをクリアし、最低限の品行方正さえ保っていれば、僕のような旧市街の団地住まいの凡庸な庶民であっても、ごく普通に通うことができるマンモス校だ。
その二つの全く異なる世界――光り輝く新市街と、影の濃い旧市街――を物理的に繋ぎ、同時に冷酷に隔てているのが、都市の物流の大動脈である国道十六号線を跨ぐように架けられた、この巨大で古びた鉄の歩道橋だった。
新市街の住人たちは、このような前時代的なインフラを自らの足で歩くことはほとんどない。彼らは温度と湿度が完璧に管理された地下の高速リニアモーターカーで移動するか、あるいは自動運転の高級車で滑るように国道の地下トンネルを通り抜けていく。
この塗装が剥がれ落ち、酸化鉄の赤茶けたサビが浮き出た歩道橋を自らの足で渡るのは、僕のように自転車通学を強いられている学生か、あるいは最新の交通ネットワークの恩恵から切り捨てられた、旧市街の年老いた住人たちだけだ。
大型トラックが下を通過するたびに、巨大な橋桁全体が微かに、しかし不気味な共振を起こして揺れる。それはまるで、新市街という眩い光を放つ巨大な無菌室の入り口に放置された、巨大な鉄の恐竜の死骸のように、朝の冷たい空気の中で静かに蹲っていた。
ギィィ、ガチャン、というママチャリのチェーンの軋む音と共に、僕は歩道橋のたもとに辿り着いた。
サドルから降り、スロープのついた階段に自転車のタイヤを乗せ、重い車体を押し上げようとして――僕は、ふと足を止めた。
大脳の視覚野が捉えた『それ』を、僕の認知機能がすぐには日常の風景として処理しきれず、思考が一瞬だけ完全にフリーズしたからだ。
「……なんだ、これ」
僕の口から、干からびたような乾いた声が漏れた。
この歩道橋の踊り場へと続くコンクリートの階段は、大型車両の通行高をクリアするために、全部で『三十段』ある。
その一段、一段。通行する人間の足に決して引っかかることのない、向かって右側の端から正確に十センチの絶妙な空間座標に、『それ』は等間隔で置かれていた。
――未開封の、イチゴジャムの小瓶。
新市街の高級なオーガニック・ブティックに並ぶような、洗練されたデザインの瓶ではない。旧市街のくすんだスーパーマーケットの棚の隅で埃を被っているような、安価でどこにでもあるプラスチックの赤い蓋が付いた、無骨でずんぐりとしたガラス瓶だ。
それが、階段のステップ一段につき一つ、正確な規則性を持って配置されている。
一段目に、一つ。
二段目に、一つ。
三段目にも、一つ。
僕が見上げる階段の上部に向かって、同じ赤い蓋の瓶が、まるで僕の登頂を出迎える名誉儀兵のように、完璧な等間隔で整列している。
しかし、僕の背筋を最も粟立たせたのは、その配置の『常軌を逸した正確さ』と、奇妙で不吉な『途切れ方』だった。
ガラス瓶の側面に貼られた紙のラベル。そこに印刷された『真っ赤なイチゴ』のチープなイラストが、定規かレーザーポインターで測ったかのようにすべて、ミリ単位の狂いもなく正確に北の方角――すなわち、そびえ立つ新市街の高層ビル群の方角を向いて直立している。誰かが急いで置いたような雑さは微塵もない。
そして、そのジャムの整列は、階段の『十二段目』で唐突に終わっていた。
十三段目、十四段目、そして踊り場へと続く十五段目には、何も置かれていない。ただの汚れたコンクリートの剥き出しの表面と、長年の雨風によって削られた無数のひび割れが広がっているだけだ。
階段はまだ上へと続いているのに、なぜジャムの列だけが十二個で不自然に途切れているのか。この不完全さが、逆に強烈な作為と、狂気じみた情念を感じさせる。
東の空から差し込み始めた朝の弱い光が、ガラス瓶の中のドロリとした赤い果肉を透過し、コンクリートの階段の黒ずんだ汚れの上に、まるで凝固した血のような、あるいは溶け出したルビーのような、不気味で美しい赤い影を長く落としていた。
誰かの嫌がらせだろうか。それとも、行き場のない若者たちによる、たちの悪い前衛的なアートの真似事か。
いや、違う。この執拗なまでの配置の正確さと、北へ向けてイラストの向きを統一するという異常なこだわり、そして『十二』という中途半端な数字への固執は、単なる悪戯の範疇を遥かに超えている。
まるで、何らかの切実な意図を持った、祈り、あるいは呪いの痕跡を強制的に見せつけられているようだった。
「サクタロウ。お主は、その程度の不純物で思考の歩みを止めるほど、鈍重な処理能力しか持ち合わせておらぬのか」
不意に。
僕の背後の空間から、凛とした、それでいて退屈を紛らわせる極上の玩具を見つけた猫のような、冷酷で楽しげな声が響いた。
振り返る必要はない。入学式の日から僕を己の助手――実質的な下僕として扱う、この広大な月見坂市において最も傲慢で、しかし絶対的な精度と物理的観察眼を持った一言で射抜く人間は、たった一人しか存在しない。
如月学園の指定である、深いネイビーブルーのブレザーに身を包んだ如月瑠璃が、歩道橋の階段の下、僕の背後数メートルの位置に立っていた。
彼女の艶やかな黒曜石のようなストレートロングヘアが、旧市街から吹き抜ける微かな風に揺れる。その上から、春先の冷え込んだ朝の空気を遮るための、薄手の漆黒のコートを優雅に羽織っている。左脇には、彼女が常に持ち歩いている古い革表紙の手帳がしっかりと抱えられていた。
彼女のアメジストの瞳は、階段に並ぶ赤いジャムの瓶の列を、まるでルーヴル美術館に展示された名画の筆致を鑑定するコレクターのような、一切の感情を排した冷徹な視線で捉えていた。
「おはようございます、如月さん……。どうしてこんな朝早くに、旧市街の歩道橋なんかにいるんですか。それに、今日は随分と身軽ですね。黒田さんはどうしたんです」
「わしの行動経路に疑問を挟むなど、助手としての分際を弁えぬ発言じゃな。わしはただ、この都市を統べる論理が微かに軋む音を察知し、その振動源へと自らの足で出向いたに過ぎん。……それよりも、見よ。見事なまでに整列した、イチゴジャムの群れじゃ。ペクチンによるゲル化の度合いと、この安価なプラスチックの成形痕から見て、極めて大量生産に特化した品じゃな」
彼女は僕の横を音もなくすり抜け、一段、二段と優雅な足取りで階段を上り始めた。
如月さんの足運びは、置かれた瓶に一ミリも触れることなく、それでいて瓶の一つ一つの『物理的な存在』と空間座標を網膜に焼き付けるように丁寧だった。彼女は階段の中腹まで辿り着くと、そこから振り返り、赤い瓶の列を見下ろして小さく鼻を鳴らした。
「サクタロウ、この光景をどう見る。……『誰かが買い物袋からうっかり落とした』などという、質量保存の法則と確率論を無視した愚鈍な仮説を口にするつもりなら、今すぐその酸化鉄の塊ごと、旧市街の泥水が流れるドブ川に身を投げるがよい」
「言いませんよ……。落としたにしては、ガラスに傷一つなく綺麗すぎます。それに、このラベルの向きの異常な統一感。おまけに、階段は踊り場まで十五段あるのに、なぜか十二段目でピタリと終わっている。……誰かがわざわざこんな朝早くに、旧市街の歩道橋にジャムを並べる理由なんて、やっぱり何かの呪術的な儀式か、お供え物ですか?」
「否。これは非科学的な儀式でも、死者への供物でもない。……これは、『重石』じゃ」
如月さんは左脇の手帳を開き、懐から取り出した純銀の万年筆を走らせた。
彼女のペン先が紙面を滑るサラサラという小気味よい摩擦音が、歩道橋の下を走り抜ける大型トラックの重低音に一瞬だけかき消される。
「重石、ですか? こんな、一つ数百グラムしかないような小さなジャムの瓶が?」
「そうじゃ。サクタロウ、お主は、窓から吹き込む風で飛ばされそうになった書類の上に、手近な文鎮や石を置いたことはないか? あるいは、己の心の激しい揺らぎを抑え込むために、自らの掌を強く握りしめ、物理的な痛みを楔としたことは? ……この赤い瓶はな、この古びた鉄の歩道橋が、新市街の『効率と最適化』という名の暴力的な嵐に吹き飛ばされてしまわぬよう、誰かが必死に繋ぎ止めようとしている、泥臭くも切実な重石なのじゃよ」
如月さんは、一番上に置かれた十二段目のジャムの瓶をピタリと指し示した。
そして彼女は、僕の方へと視線を戻すことなく、自らの純白の綿手袋をはめた手を、躊躇なくコンクリートの階段へと伸ばした。
「なっ……如月さん! 汚れますよ!」
僕が止める間もなく、如月さんは土埃と正体不明の汚れがこびりついた階段に片膝をつき、二段目に置かれたジャムの瓶の表面を、自らの指先で直接撫でた。彼女の純白の手袋の指先が、一瞬にして微細な汚れで黒く染まる。
だが、如月さんは己の被服が汚れることなど微塵も気にかける様子もなく、極めて真剣な眼差しで、指先に伝わる『物質のルーツ』を読み取っていた。
彼女の目的は『モノのルーツを探ること』のみ。そのためであれば、泥に塗れることすら彼女にとっては純粋な探求のプロセスに過ぎないのだ。
「……冷たいな。そして、表面のガラスには微細な水滴が付着し、乾きかけておる」
如月さんは瓶に顔を近づけ、さらに深く観察を続ける。
「外気温との差異による結露現象。そして重要なのは、この水滴に付着している粉塵……路上の排気ガスや土埃ではない。指先で擦り合わせた際の粒子の細かさ、そしてこの無機質な感触。……これは、巨大な空調設備で二十四時間循環されている、大型倉庫特有の埃じゃ。……つまり、これらのジャムは、旧市街のスーパーの陳列棚から買われてきたものではない。徹底的に温度管理された巨大な物流倉庫の深部から、直接この外気へと持ち出されたものと断定できる」
如月さんは懐から純銀のルーペを取り出し、瓶のラベル下部を舐めるように覗き込んだ。
「白地に黒く印字された十三桁の数列と、その横のアルファベットの羅列。……『LOT-B749』。そして、賞味期限は『〇五年五月一日』。……ふむ」
如月さんはルーペをしまい、立ち上がってコートの裾の汚れを軽く払った。
彼女は静かに目を閉じ、自らの脳内に構築された、如月コンツェルンが掌握する膨大な流通の知識と、眼前の物理的な数値を照合しているようだった。しかし、数秒後、彼女はゆっくりと目を開き、そのアメジストの瞳に確信めいた鋭い光を浮かべた。
「わしの脳内にある一般市場の流通記録には、このロット番号の行方が存在せぬ。通常の経路で小売店に卸されたものではないということじゃ。この不自然な経路と、わざわざこの場所に十五段あるうちの『十二個』だけ整列させられていることには、必ず明確な物理的ルーツが存在する」
如月さんは手帳をパチンと閉じた。
その瞳には、未知のルーツを解き明かすことに至上の悦びを見出す、残酷なまでに知的な光がギラギラと宿っていた。
「わしの記憶にないのならば、外付けの盤面を利用するまでじゃ。……我が如月コンツェルンの金庫番であり、流通の数字のすべてを裏側から掌握する『姉』の力を使って、この不純物の真のルーツを洗い出す」
「お姉さんの……翡翠さんの力ですか?」
「お主は口を挟むな。……行くぞ、サクタロウ。今日の放課後、いつもの図書室へ来い。この得体の知れない赤い重石を、完璧なシステムの密室から救い出した何者かの不届きな足跡を、わしが解体してやるのじゃ。……遅れるなよ、補助員」
如月さんは、漆黒のコートの裾を華麗に翻し、歩道橋の階段を軽やかに上っていった。
僕は、自分の自転車を歩道橋の下に放置したまま、深く、深い絶望の溜息を吐き出し、痛む脚を引きずって再び彼女の背中を追うことになった。
階段を一段上るたびに、足元の十二個のジャムの瓶が、僕の平穏な日常の崩壊を静かに笑っているような気がした。
十五段の階段に残された、不完全な十二の重石と、空白の三段。
それは、これから僕たちが踏み込む、完璧な街のシステムに穿たれた、甘くて苦い因果の迷宮への入り口に過ぎなかった。




