第1話『砂場の卵焼き』 ~section10:完璧な街の、愛おしい不純物~
サビと緑青に覆われた垂直タラップを一段、また一段と登るたびに、僕――朔光太郎の嗅覚と触覚を支配していた地下貯水池の圧倒的な環境情報が、徐々に地上のそれへと上書きされていくのを感じた。
コンクリートの表面で繁殖した放線菌が生成する土の匂いや、有機物の腐敗に伴う重い匂いが、一段登るごとに薄れていく。代わりに、月見坂市の新市街を循環する、光触媒と巨大な空気清浄システムによって徹底的に濾過された、無機質で冷たいオゾンの匂いが肺胞を満たし始めた。
地下の淀んだ湿気にまとわりつかれていた皮膚表面の汗が、地上の乾燥した夜風に触れて急激な気化熱を奪い、僕の体表温度を容赦なく低下させていく。大腿四頭筋はすでに限界を超えて悲鳴を上げていたが、今は上腕二頭筋と広背筋の筋収縮を頼りに、自らの体重という物理的質量を重力に逆らって引き上げるしかなかった。
ぽっかりと開いた暗黒の入り口から、ついに地上のコンクリートの縁石へと手をかける。
僕が這い上がるのとほぼ同時に、背後のタラップから、巨漢のボディーガードである黒田さんが、その規格外の筋力を使って軽々と地上へと跳躍した。彼のオーダーメイドの高級スーツは、地下の湿気とホコリによって無惨な状態になっていたが、彼の顔には先ほどまでのオカルト的な恐怖は微塵も残っておらず、ただ主の深き慈愛(と彼は解釈している)に対する圧倒的な感動の涙でグシャグシャになっていた。
「本当に、終わったんですね」
僕は、深夜の南公園の透水性ブロックの上に仰向けに倒れ込み、荒い呼吸を繰り返しながら、月見坂市の夜空を見上げた。
頭上には、五十階建てのタワーマンション『ステラ・レジデンス月見坂』をはじめとする、数多の巨大建造物群がそびえ立っている。何百万ものLEDの光が、新市街の夜空を不夜城のように照らし出し、本来そこにあるはずの星々の光を完全に掻き消していた。
この光り輝く完璧なスマートシティの、最も暗く冷たい足元の奥深くで。
戸籍管理からも完全に漏れ落ちた一人の少年が、たった今、三切れの黄金色の卵焼きを胸に抱いて、静かな涙を流している。
その事実のコントラストが、僕の胸の奥底に、説明のつかない重く温かい情動の質量を生み出していた。
「感傷に浸っておる暇はないぞ、サクタロウ。我々の実地調査は終了した。速やかにこの場所から撤退するのじゃ」
僕の視界の端で、純白の綿手袋に包まれた手が、純銀のステッキを軽やかに操るのが見えた。
如月瑠璃は、僕たちよりも先に地上へと帰還し、スカートの裾に付着した微細なコンクリートの粉塵を優雅な動作で払い落としていた。彼女のアメジストの瞳は、すでに地下のストリートチルドレンに対する関心を完全に断ち切り、次なる論理の構築へとその思考を移行させているようだった。
「黒田。その保守用の鉄格子を元に戻せ。……ただし、完全に閉鎖するのではない。次に開ける際、無駄な静止摩擦力が発生せぬよう、枠との間にコンクリートの破片を数ミリだけ挟み込み、意図的な『隙間』を残しておくのじゃ」
「……はっ! 承知いたしました、お嬢様! この黒田、お嬢様の海よりも深き御心、確かに察知いたしました!」
黒田さんは、涙と鼻水を高級なシルクのハンカチで乱暴に拭い去ると、百キロを超える分厚い鉄格子を軽々と持ち上げ、如月さんの指示通りに、完全な密閉状態を防ぐための微小な物理的隙間を意図的に設定して、蓋を閉じた。
ドスン、という鈍い音が響く。しかし、数十分前に僕たちがこの場所へ来た時のような、完全に世界から隔絶されたような冷酷な響きは、そこにはもう無かった。
僕たちは、静まり返った深夜の南公園を後にし、待機していた漆黒のマイバッハへと乗り込んだ。
車内の完璧な空調システムが、僕たちの衣服に染み付いた地下の匂いを瞬時に吸い込み、代わりに高級なダージリンの芳香を循環させる。
V型十二気筒エンジンが、一切の振動を車内に伝えることなく滑らかに起動し、リムジンは僕のボロボロのママチャリをトランクに収めたまま、旧市街の僕の住む団地へと向けて、夜の街を滑り出した。
一個の卵焼きが辿った、途方もない情動のルーツ。
僕は、車窓の外を流れるスマートシティの光の海を眺めながら、僕という人間の処理能力を遥かに超えた今日一日の事象の連鎖を、自らの記憶にゆっくりと定着させていった。
**
それから、数日の時間が経過した。
季節は春の深まりを見せ、月見坂市の新市街と旧市街を隔てる大通りには、開花時期をコントロールされたソメイヨシノが一斉にその淡いピンク色の花弁を散らし始めていた。
如月学園高等部。
月見坂市において最も巨大な敷地面積を誇るこの学園は、佐伯浩介が翔太君を何としても入学させようと狂奔していた『私立星華学園』のような、エリート層のみを対象とした選民的な教育機関ではない。近年の少子化に伴って廃校となった周辺の学校を、如月コンツェルンが一手に引き受け、統合して作り上げたマンモス校だ。
もちろん、財閥の令息や令嬢といった特権階級も多数在籍しているが、入試をクリアし、最低限の品行方正さえ保っていれば、僕のような旧市街の団地住まいの庶民であってもごく普通に通うことができる。
そんな凡庸な一学生に過ぎない僕だが、入学式のその日に、この学園の絶対的な支配者である如月コンツェルンの令嬢、如月瑠璃の『助手』という理不尽極まりない立ち位置に、有無を言わさず組み込まれることとなってしまった。
放課後のチャイムが鳴り響き、校舎内の生徒たちがそれぞれの部活動や下校へと向かう中。僕は、学園の敷地の最も奥深く、鬱蒼と茂る木々に隠されるようにして建つ『旧校舎』へと足を運んでいた。
新校舎の完成に伴って使われなくなったこの木造の建物は、厳格な立ち入り禁止区域に指定されているわけではない。しかし、床は軋み、昼間でも薄暗く不気味なため、好き好んで近寄る生徒は一人もいなかった。
ただ一人、あの規格外の令嬢を除いて。
旧校舎の二階。その一番奥にある『図書室』の分厚いオーク材の扉を開けると、そこは外界の喧騒から完全に切り離された、静寂とカビの匂い、そして古紙が放つ特有の香りが漂う空間だった。
壁一面を覆い尽くす天井までの巨大な書架には、膨大な数の古書がぎっしりと詰め込まれている。そして、その部屋の中央には、この廃校舎にはおよそ似つかわしくない、最高級のマホガニー材で設えられたアンティークの長方形のテーブルと、豪奢な装飾が施された一人掛けのソファが、まるでそこだけが別の次元であるかのように鎮座していた。
そのソファに深く腰掛け、純白の磁器のティーカップを傾けている少女。
如月学園の指定である、深いネイビーブルーのブレザーと、膝丈のプリーツスカート。しかし、彼女がそれを纏うと、単なる制服がまるで中世ヨーロッパの貴族が仕立てたオートクチュールのように、圧倒的な気品と絶対的な支配のオーラを放ち始める。
艶のある黒髪のストレートロングヘアが、窓から差し込む夕日を反射して、まるで黒曜石のように輝いている。アメジストの瞳は、手元に広げられた古文書のページを静かに追っていた。
「遅いぞ、サクタロウ。放課後の鐘が鳴ってからこの扉を開けるまでに、随分と時間を浪費したようじゃな。お主の歩行速度と教室からの直線距離を計算すれば、途中で無駄な人間関係のやり取りに時間を割いていたことは明白じゃ」
僕が部屋に入った瞬間、如月さんは古文書から視線を外すことなく、その冷徹な声で僕の行動を指摘してきた。
「すみません。ちょっと、クラスの連中と掃除当番のじゃんけんをしてまして」
僕は、凡人らしい至極真っ当な理由を口にしながら、持っていた通学カバンを近くの古い木製チェアに置いた。
マホガニーの長方形テーブルの上には、彼女が勝手に持ち込んだ銀の湯沸かし器と、高級な茶葉の入ったキャニスター、そして純銀のティーストレーナーが美しく配置されている。
僕は向かいの席に立ち、夕日に照らされる彼女の横顔を見つめながら、ふと、数日前の出来事に思いを馳せた。
「……如月さん。あの後、佐伯家の人たちはどうなったんでしょうね」
「どうなったとは?」
「いえ……翔太君はまだあんな重圧のかかる塾に通わされているのかな、とか。お父さんのプレッシャーは少しはマシになったのかな、って。赤の他人の僕が知るはずもないことなんですけど、ちょっと気になって」
僕の言葉に対し、如月さんは純銀のティースプーンを手に取り、カップの中の赤茶色の液体を静かに攪拌した。ベルガモットの爽やかな芳香が、湯気と共に図書室の空気中へと拡散していく。
「さあな。事象はすでに完結した。他者のその後の人生の軌道など、わしの知ったことではない」
如月さんは、一切の興味がないというように素気なく答えた。
「じゃあ……あの地下貯水池にいた、あの少年は?」
僕は、暗黒の地下で極限の飢餓に耐えながら、卵焼きの情熱に涙を流していたストリートチルドレンの姿を思い出した。
「僕たちが帰った後も、彼はあの暗闇の中にいるわけですよね。……また、お腹を空かせて泣いていないか、心配で」
僕がそう言うと、如月さんはティーカップをソーサーへと音もなく戻し、アメジストの瞳を薄く閉じた。
「まぁ、大丈夫じゃろう」
短く、ただ一言。
その言葉の裏に、彼女や如月家が水面下でどのような手配をしたのか、あるいは何もしなかったのかは、ただの助手である僕には知る由もない。
しかし、氷のように冷徹なはずの彼女のその一言には、一切の疑いを差し挟ませない、不思議な説得力と確かな重みが宿っていた。
如月さんは、再び古文書へと視線を落とすと、傍らに置かれた純銀の懐中時計をそっと手に取り、精緻な彫刻が施された蓋の表面を、純白の手袋の指先で優しく撫でた。
「……あの時の例え話が、現実に起こるとはな」
誰に言うともなく、ポツリと漏れたその言葉。
誰かを想い、消え入るような声で呟かれた。
その言葉を紡いだ直後、いつもは無表情で冷徹な彼女の薄い唇が、ふっと柔らかく綻び、かすかな微笑みを浮かべた。
「っ……」
僕は思わず息を呑んだ。
普段から理不尽な論理の暴力を振りかざす悪魔のような彼女だが、黙っていれば、あるいはこうしてふとした拍子に表情を崩せば、息が止まるほどに可憐な美少女なのだという事実を、強烈に突きつけられた瞬間だった。
不覚にも、心臓が大きくドクンと跳ねた。
月見坂市。
如月コンツェルンが統治し、数百万の監視カメラと都市管理システムがすべての事象を計算し尽くす、息が詰まるほどに完璧で、無機質な街。
僕はこれまで、この隙のない街の空気を息苦しく感じ、ただ平凡に、目立たないように生きていくことだけを望んでいた。
しかし。
如月瑠璃という、圧倒的な鑑定眼を持った令嬢の助手として、彼女と共にモノのルーツを追うようになってから。
この完璧なシステムの裏側に、決して計算することのできない、人間の生々しい感情、泥臭い欲望、歪な愛情、そして途方もなく温かい感謝という名の『不純物』が、確かな質量を持って隠されていることを知った。
狂気的な重圧に耐えかねて公園に弁当箱を埋めた少年。
極限の飢餓の中で、卵焼きの情熱に涙し、感謝の儀式を行った地下の神様。
そして、それらの事象を冷徹な論理で解剖し、結果としてすべての人々を最悪の結末から救い出してみせる、この美しくも不器用な令嬢。
(……悪くないな)
僕は、大腿四頭筋に残る強烈な筋肉痛を自覚しながら、図書室の古い本の香りを深く吸い込んだ。
毎日、酸化鉄の固着したママチャリで地獄の坂道を登らされ、理不尽な論理の暴力でこき使われる助手としての毎日は、僕の平穏な日常を完全に破壊し尽くした。
しかし。
この完璧すぎる街の裏側で、彼女が見つけ出し、暴き出していく、泥臭くも愛おしい人間の『ノイズ』の数々を、もっと見てみたいと。
彼女の隣で、そのルーツの終着点を見届けるのも、それほど悪い気分ではないと。
僕の心の中の、ほんの小さなバグのような感情が、確かにそう告げていた。
「何を突っ立っておるのじゃ、サクタロウ。お主のその無駄な思考時間は、我が図書室の酸素を無意味に消費しているだけじゃぞ」
如月瑠璃の、氷のように透徹した声が、僕の感傷を容赦なく切り裂いた。
彼女はすでに古文書を閉じ、純白の手袋で純銀のルーペを弄びながら、僕を冷酷に見据えている。
そして、彼女の手元には、いつの間にか見慣れない『物体』が置かれていた。
「次の事象が、すでに水面下から浮上してきておる。……見よ、この『歪なサンタのヤジロベー』を。重心の計算も狂っており、到底まともに機能するとは思えんこの不純物が、なぜ今、ここにあるのか。そのルーツを解体に向かうぞ」
「……えっ!? 今からですか!? いや、ちょっと待ってくださいよ! 僕の足の筋肉、まだ完全には回復してないんですよ! またあのママチャリでどこかへ行けって言うんですか!?」
「下僕の疲労回復など、わしの計算には含まれておらん。文句を言う暇があるなら、直ちに動く準備を整えるのじゃな。……行くぞ」
如月さんは、ブレザーの裾を優雅に翻し、僕の悲鳴など一切意に介することなく、図書室のオーク材の扉へと向かって歩き出した。
僕は、深く、深い絶望のため息を吐き出しながら、慌てて通学カバンを手に取った。
どうやら、僕の平穏な日常が戻ってくる確率は、天文学的な数字よりも低いらしい。
しかし。
彼女の背中を追って図書室を飛び出す僕の足取りは、筋肉痛の重さとは裏腹に、どこか奇妙な軽快さを含んでいた。
完璧な街の、愛おしい不純物を探す。
孤高の令嬢と、理不尽な下僕のルーツ探索は、まだ始まったばかりだ。




