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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』~リメイク~  作者: アリス・リゼル


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第1話『砂場の卵焼き』 ~section9:暗黒の子供と、黄金の終着点~

 サビと緑青(ろくしょう)に塗れた重厚な鉄の垂直タラップを一段降りるごとに、地上のスマートシティが放つ人工的な光と喧騒は、分厚いコンクリートの層によって容赦なく遮断されていった。

 僕は、片手にスマートフォンの青白いLEDライトを握りしめ、もう片方の手で酸化鉄が固着した冷たい梯子の横木を掴みながら、慎重に、そして暗闇に対する本能的な恐怖を押し殺して地下へと潜行していった。


 僕のすぐ真下、暗黒の底へ向かって、一切の躊躇なく降りていく如月さんの硬質な靴音が、規則正しいメトロノームのように響いていく。下僕たるもの、垂直タラップにおいて不用意にライトを下へと向け、特権階級である令嬢を頭上から無遠慮に照らし出すような不敬を働いてはならない。もしそのような失礼な光のベクトルが彼女に感知されれば、即座に下から純銀のステッキで膝の皿を粉砕されるという生存本能が強く働き、僕はスマートフォンの光源を己の足元の横木のみに固定し、ひたすらに彼女のペースを乱さないよう後を追った。

 そして僕のすぐ頭上からは、巨大な体躯を縮こまらせ、ブツブツと悲痛な念仏を唱えながらタラップを(きし)ませて降りてくる、ボディーガードの黒田さんの重い足音が迫っていた。


 深さおよそ十メートル。

 僕の履き慣れたスニーカーの靴底が、ついに硬質なコンクリートの床面に接触した。

 タァン、という着地の足音が、巨大な空洞空間に驚くほどの長い残響時間(リバーブ)を伴って反響し、闇の奥へと消えていく。


「……着きました。底です」


 僕が声をかけると、すでに床に降り立っていた如月さんが闇の中で静かに振り返る気配がした。続いて僕の背後に、黒田さんがドズンという重い地響きと共に着地する。


「サクタロウ。光源のベクトルを水平方向へと向け、この空間の全体的な位相幾何学(トポロジー)を走査せよ」


 如月さんの指示に従い、僕はスマートフォンのライトを前方へと向け、ゆっくりと左右に振った。

 青白い光の束が、数十年間システムから見放され、完全な静寂の中に放置されていた『旧地下貯水池』の全容を、劇的なコントラストで浮かび上がらせた。


「これは……すごい空間ですね」


 そこは、まるで地下に築かれた巨大な神殿のようだった。

 天井の高さはおよそ五メートル。無数の太いコンクリートの円柱が、等間隔の幾何学的なグリッドを描いて、見渡す限りの暗闇の奥まで整然と立ち並んでいる。

 壁面や天井のコンクリートは長年の湿気によって著しく劣化し、亀裂からは水酸化カルシウムが溶け出して、つららのような不気味な白華現象(エフロレッセンス)を形成していた。床面には、過去に流入した雨水が蒸発しきれずに残った浅い水溜まりが点在し、ライトの光を黒い鏡のように反射している。


 そして、何よりも僕の嗅覚を圧倒したのは、その空気の『質量』だった。

 地上の、光触媒と巨大な空気清浄システムによって徹底的に濾過された無機質で無臭の空間とは対極に位置する、むせ返るような有機的な匂い。

 コンクリートの表面で繁殖したカビや放線菌が生成する、強烈な土の匂い(ゲオスミン)の揮発成分。微小な昆虫や微生物の死骸がバクテリアによって分解される過程で生じる、微かなメタンと硫化水素の腐敗臭。

 ここは、完璧な月見坂市において、システムが『見なかったこと』にして意図的に蓋をした、都市の巨大な消化器官そのものであった。


「ひぃぃっ……! お嬢様、ここはまさに霊界の入り口です! (マイナス)のエネルギーが飽和状態に達しております! いつ無数の亡者が我々の足首を掴みに来てもおかしくありません!」


 黒田さんが、その鍛え抜かれた大胸筋と広背筋をガタガタと震わせながら、僕の背中に隠れるようにして悲鳴を上げた。


「静粛にせよ、黒田。お主のその非科学的な音声が、空間の音響特性を乱し、対象者の微細な環境音をマスキングしてしまうのじゃ。……サクタロウ、光の照射角を狭め、コンクリートの円柱の陰、すなわち熱源が最も身を隠しやすい死角を一つずつ確実にスキャンしていくのじゃ」


 如月さんのアメジストの瞳は、微塵の恐怖も抱いていない。彼女の視線は、ただ純粋に『真理』という名の獲物を追い詰める猟犬のそれであった。


 僕は息を殺し、大腿四頭筋の疲労による足の震えを堪えながら、一歩ずつ湿ったコンクリートの床を踏みしめて前進した。

 チャプッ、という微かな水音が、空間に木霊する。

 一本、二本と、コンクリートの円柱の裏側をライトで照らし出していく。そこには、崩れ落ちたコンクリートの破片や、風で吹き込まれたらしい枯れ葉の堆積があるだけで、人間の姿は確認できない。


 五本目の円柱を通り過ぎ、公園の砂場の真下からさらに数十メートル奥へと進んだ時だった。

 僕が振ったライトの光芒の端が、空間の最も奥、壁際にある排水溝の近くに置かれた『不自然な質量の塊』を(かす)めた。


「……! 如月さん、あそこ!」


 僕はスマートフォンの光を、その一点へと正確に固定した。

 青白い約六千ケルビンの光子が、暗闇を切り裂き、その物体を容赦なく照らし出す。


「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!! で、出たぁぁぁっ!!」


 黒田さんが肺の底から絶叫し、巨体を丸めて後ずさった。

 しかし、そこにいたのは、彼が恐れるような透けるプラズマ発光現象でも、角の生えた悪鬼でもなかった。

 都市の廃棄物である段ボールと、ひどく汚れた毛布を幾重にも重ねて作られた、即席のシェルター。

 そして、光に照らされて眩しそうに顔を覆い、壁際へと恐怖に身を縮こまらせている、一人の『人間』の姿だった。


「やはりな。事象のアルゴリズムは、完璧な解を導き出したようじゃ」


 如月瑠璃は、純銀のステッキをコンクリートの床に突いて立ち止まり、その人間のシルエットを冷酷な物理的観察眼で走査し始めた。


 そこにうずくまっていたのは、僕や如月さんと同年代……いや、もしかしたら少し下かもしれない、『少年』だった。

 しかし、その肉体の物理的パラメーターは、月見坂市の新市街に住む同年代の子供たちとは、あまりにもかけ離れていた。


 極度の栄養失調によるタンパク質の欠乏が、彼の肉体から皮下脂肪と骨格筋を徹底的に削ぎ落としている。頬は深くこけ、手首や足首の関節は、骨の形がそのまま皮膚の上に浮き出るほどに異常に細い。衣服は複数の古着を継ぎ接ぎしたもので、繊維の結合は劣化しきっており、あちこちが擦り切れて泥に塗れている。

 戸籍管理システムや生体認証システムから完全に孤立し、都市の廃棄物とこの暗黒の地下空間だけを頼りに生存を続けてきた、システムからの絶対的なドロップアウト個体。

 いわゆる、浮浪児(ストリートチルドレン)だった。


「ほ、本当にお化けじゃなくて……生身の子供、ですか?」


 黒田さんが、恐る恐る指の隙間からその姿を確認し、拍子抜けしたような、しかし別の意味で激しく動揺した声を漏らした。


「左様。先ほどのメンテナンスハッチの脇にあった直径四十センチの『獣道』。あの狭小な空間を物理的に通り抜けられるのは、これほどまでに骨格が未発達で、脂肪と筋肉の質量を喪失した個体のみじゃ。……お主じゃな。昨夜、深夜の南公園の砂場の底から、供物の卵焼きを掘り起こしたのは」


 如月さんは、怯える少年に対して一切の感情的な寄り添いや同情を示すことなく、ただ事実の確認だけを求める冷徹なトーンで問いかけた。


「あ、う……」


 少年は、僕のスマートフォンの光から逃れるように顔を背け、ガタガタと震えながら後退しようとした。しかし、背中はすでにコンクリートの壁に阻まれている。

 彼の眼球の動きが激しく揺れ、交感神経が極限の恐怖を感知しているのが分かる。


「恐れる必要はない。自律神経の暴走を抑制するがよい」


 如月さんは、ステッキをゆっくりと降ろし、少年に向かって一歩だけ歩み寄った。


「わしは、お主をこの市の福祉システムや警察のデータベースに還元し、物理的な自由を奪うためにここへ来たのではない。お主がどのようにしてこの空間で生存しているかなどという社会学的な問題には、ミリ単位の興味も持ち合わせてはおらん。……わしがここへ来た目的はただ一つ。あの卵焼きのルーツを辿り、事象の完全なる論理的整合性を証明することのみじゃ」


 如月さんの言葉は、優しく慰めるようなものではなかった。

 しかし、その一切の嘘や打算を含まない、純粋な『真理の探求』だけを目的とした氷のように透徹した響きが、少年の大脳辺縁系に渦巻いていた『大人に対する根源的な警戒心』を、不思議とクールダウンさせていった。


「……衣服に付着している二酸化ケイ素の粒子は、南公園の砂場と同じ高温加熱処理された特有の粒度を示しておる。そして、お主の呼気から微かに検出される、アミノ酸のメイラード反応の残香と、リンゴ酢の揮発成分。……証拠は十分に揃っておる。さあ、答えるのじゃ。お主は昨夜、あの砂場の下から小さな弁当箱を掘り起こし、中に入っていた『三切れ』の卵焼きのうち、二切れだけを消費した。そうじゃな?」


 少年は、如月さんの絶対的な威厳と、すべてを見透かしたかのような物理的観察眼の前に、逃れることは不可能だと悟ったようだった。

 彼は、泥に塗れた手で顔を覆っていた腕をゆっくりと下ろし、怯えを含んだ目で僕たちを見上げた。


「……ごめんなさい」


 長期間まともに声を出していなかったのだろう。その声帯の震えはひどく掠れ、乾燥した空気が漏れるような音だった。


「僕……ずっと、何も食べてなくて。お腹が空いて、死にそうだったんだ……」


 少年は、膝を抱え込みながら、ポツリポツリと事象の全容を語り始めた。


「昨日の夜……。地上の公園のゴミ箱に、何か食べられるものが捨てられてないか探そうと思って、あの穴から上に出たんだ。そしたら……僕と同じくらいの子が、砂場の真ん中を掘って、何か小さな箱を埋めているのが見えた。……すごく悲しそうな、泣きそうな顔をしてた」


 翔太君だ。

 父親の過剰な期待という物理的質量に耐えきれず、弁当箱を『砂場の神様』への供物として埋葬した、あの瞬間の空間座標。この少年は、暗闇の物陰からその光景を視覚的に捕捉していたのだ。


「あの子がいなくなった後……僕は砂場に行って、その箱を掘り出した。蓋を開けたら、中に……すごく綺麗な、黄色い四角い食べ物が入ってた」


 少年の喉仏が、当時の記憶のフラッシュバックによって無意識に上下し、唾液を飲み込む生々しい音が聞こえた。


「僕、それが卵焼きだってことは知ってたけど……そんなに綺麗なものを食べたことはなかった。いつもは、コンビニの裏に捨てられた、冷たくて固いパンの耳とか、酸っぱくなったお弁当の残りばっかりだったから」


 少年の告白は、この完璧な月見坂市の足元に存在する、絶対的な飢餓の現実を突きつけていた。


「我慢できなくて……手で掴んで、一口、食べたんだ」


 そこで、少年の虚ろだった瞳に、突然、はっきりとした『情動の光』が宿った。


「……そしたら。すごく、美味しかったんだ」


 少年は、自らの両手を胸の前で合わせ、まるでその時の感覚をもう一度大脳皮質で再現するように、熱を帯びた声で語り続けた。


「冷たいはずなのに……全然固くなくて、ふわふわしてた。噛んだら、中からジュワッと、甘くて、少しだけ酸っぱい、すごく美味しいお汁が、口いっぱいに広がったんだ。……あんなに美味しいもの、僕、生まれて初めて食べた。……作ってくれた人の、温かい気持ちが、口の中から体の中に、ワーッて広がっていくみたいだったんだ」


 その言葉を聞いて、僕の心臓が大きく跳ねた。

 月見亭の店主が、毎朝数十本という単位で一寸の狂いもなく実行している、熱力学的制御と化学的アプローチの結晶。

 イノシン酸とグルタミン酸の相乗効果を極限まで高め、自家製リンゴ酢によるpH調整によってタンパク質の保水性を極限まで高めた、あの究極のだし巻き卵。

 エリート父親の佐伯浩介にとっては、単なる『受験に勝つための黄色いゲン担ぎ(アイテム)』でしかなかった。

 息子の翔太君にとっては、父親からの『耐えきれない重圧(プレッシャー)の象徴』でしかなかった。


 しかし。

 この社会のシステムから完全に切り離され、極限の飢餓状態にあった名もなきストリートチルドレンの味覚受容体と脳髄だけが。

 一切のバイアスを持たない純粋な飢餓の舌だけが、あの卵焼きに込められた『職人の極限の情熱』を、寸分違わず完璧に、そして正しく味わい尽くしていたのだ。


「……僕、夢中で二つ食べた。箱の底についたお汁も、全部舐めた。お腹が、すごく温かくなった。……でも」


 少年は、そこで言葉を切り、視線を落とした。


「三つ目に手を伸ばそうとした時。……手が、止まったんだ」


「何故じゃ。お主の肉体は、極度のカロリー不足に陥っておる。生存本能という絶対的なアルゴリズムに従えば、残りもすべて消費するのが最も論理的な行動のはずじゃ」


 如月さんが、純粋な疑問として問いかけた。


「だって……」


 少年は、泥に塗れた顔を上げ、真っ直ぐに僕たちを見つめた。


「こんなに美味しいものを作ってくれた人がいるのに。こんなに温かいものを、箱に詰めてくれた人がいるのに。……僕が、暗くて汚い土の中で、全部一人で食べちゃったら、申し訳ないって思ったんだ」


 それは、飢餓という生理的欲求を上回る、強烈な『感謝』と『敬意』の発露だった。


「だから……僕は、最後の一個だけは、食べなかった。……『ごちそうさまでした』って、作ってくれた人にありがとうを言うために。……汚い土の中じゃなくて、お月さまの光が一番綺麗に当たる、砂場のど真ん中に……大事に、飾ったんだ。……箱は、あの子が埋めたのと同じように、土の中に戻して」


 少年の告白が終わった。

 地下貯水池の巨大な空間に、静寂が戻る。

 チャプッ、という微かな水音だけが、コンクリートの壁に反響している。


 僕は、スマートフォンのライトを持つ手が、微かに震えているのに気づいた。

 驚愕と、圧倒的なカタルシスが、僕の胸の奥底から込み上げてくる。

 背後に立つ黒田さんも、先ほどのオカルト的な恐怖は完全にどこかへ吹き飛び、その屈強な巨体を丸めて、「ううっ……なんという、なんと健気で美しい心を持った少年なのですか……!」と、滝のような涙を流して嗚咽を漏らしていた。


 そして。

 如月瑠璃は、純白の手袋で純銀のステッキを静かに持ち直し、目を閉じて深く、長く息を吐き出した。


 彼女の脳内。大脳新皮質と大脳辺縁系を繋ぐ膨大なシナプス回路の中で、これまで集められた無数の事象の断片――物理的観察眼と、人間の歪な情動の視座が、凄まじい速度で結合し、巨大な一つの因果律の数式として組み上がっていく。


「……見事じゃ。実に見事な、情動の連鎖の完成じゃ」


 如月さんはゆっくりと目を開き、そのアメジストの瞳に、宇宙の真理を解き明かした物理学者のような、絶対的な歓喜と理解の光を宿した。

 彼女の冷徹な声が、暗黒の地下空間に響き渡る。


「月見亭の店主が、熟練の熱力学的制御と化学的アプローチを用いて卵焼きに込めた、『職人の情熱』。

それが、エリートビジネスマンである佐伯浩介の、受験に対する魔術的思考と『歪な愛情の質量』によって買い占められ。その重圧に耐えきれなくなった息子・翔太の、関係性を断ち切れない『逃避と祈りの情動』によって、深夜の砂場へと埋葬された。そして……システムから完全に漏れ落ちたこの少年が、その供物を掘り起こし。極限の飢餓の中で職人の情熱を正しく『味わい』、敬意と感謝という純粋な『情動の儀式』をもって、最後の一切れを地表の幾何学的な中心点へと再配置した」


 如月さんは、ステッキの先端を、少年の足元へと向けた。


「すべての人間のベクトルが。情熱と、重圧と、絶望と、そして感謝が。……あの南公園の砂場という一つの空間座標において、一寸の狂いもなく完璧な交差を果たしたのじゃ。これこそが、人間の泥臭くも美しい、情動のルーツの究極の完成形じゃよ」


 如月瑠璃は、他者の感情に共感することは決してない。少年の飢餓の苦しみや、翔太の絶望に対して、涙を流して寄り添うような機能は、彼女には最初から搭載されていない。

 しかし彼女は、その「情動の視座」を用いて、人間たちが無意識に紡ぎ出したこの複雑で奇跡的な事象の繋がり(ルーツ)の『美しさ』を、誰よりも深く、絶対的に理解し、敬意を払っていた。


「サクタロウ。黒田。事象の解明は完全に終了した。この一個の卵焼きに隠されたルーツの証明は、これにて完了じゃ」


 如月さんは、ボルドーのケープを優雅に翻し、(きびす)を返した。

 彼女の足取りは、一切の未練も残さず、地下からの出口へと向かっている。


「あっ、待ってください! 如月さん!」


 僕は慌てて彼女の背中を呼び止めた。


「この子、どうするんですか!? このままじゃ、飢え死にしちゃいますよ! 福祉局に通報するか、せめて地上に連れ出してご飯を食べさせてあげないと……!」


「愚鈍なことを。わしは言ったはずじゃ。わしは社会システムのエラーを修正するソーシャルワーカーではない。モノのルーツを解明するだけの、孤高の鑑定士じゃ。……それに、この少年がシステムの管理下に置かれることを望むかどうかは、本人の自由意志による選択じゃ。わしが干渉する物理的理由はない」


 如月さんは歩みを止めず、冷酷にそう言い放った。


 しかし。


 その直後。彼女は背を向けたまま、左手でケープの懐を探り、何かをスマートフォンの光が届く空間へと放り投げた。


 ポスッ、という軽い音を立てて、少年の足元のコンクリートに落下した物体。

 それは、如月コンツェルンの紋章が刻印された、最高級の純白のハンカチに包まれた『何か』だった。


「……ただし」


 如月瑠璃の、冷たい背中から声が響く。


「このフィールドワークにおいて、彼が提示した『最後の数式(感謝の儀式)』は、極めて質の高い美しいものであった。……その情報提供に対する、純粋な『対価』の支払いだけは済ませておくのが、如月家の論理的かつ合理的な経済活動というものじゃ」


 彼女はそれだけを言い残し、暗闇の奥へと歩き去っていった。

 少年は、怯えながらもその純白の包みに手を伸ばし、ゆっくりと結び目を解いた。


 中から現れたのは。

 先ほど、五十階のペントハウスで如月さんが佐伯家から『分析の証拠品として』回収し、密閉ケースに入れて持ち帰っていた。

 あの小さな弁当箱に入り切らず、佐伯家の冷蔵庫に保管されていたであろう、残りの『三切れ』の月見亭の卵焼きだった。


 少年は、その黄金色に輝く卵焼きを見た瞬間、大粒の涙をボロボロとこぼし、泥に塗れた手でそれを大切そうに胸に抱きしめた。

 それを見ていた黒田さんは、もはや言葉にならない嗚咽を上げながら、「お嬢様ぁぁっ! なんという……なんという深き慈愛……!」と叫び、彼女の背中を追って猛ダッシュで暗闇へと消えていった。


 僕は、少年に向かって小さく微笑みかけると、スマートフォンのライトの光を少しだけ優しく揺らした。


「……じゃあね。砂場の神様」


 完璧なスマートシティの、光の届かない一番深い場所。

 そこには、冷酷な論理と物理法則だけでは決して説明することのできない、人間のささやかで、途方もなく温かい『黄金の情動』が、確かな質量を持って息づいていた。


 僕は、軽い足取りで、彼女たちの待つ地上へと続くタラップへと向かって歩き始めた。



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