1.
その子は、かつて幸せだった。
母は名門のオペラ・バレエ劇場に所属する美しいバレリーナだった。すべてを仕事に捧げていたため、息子もまた、母の出演する数多くの公演を観るうちに、自然とバレエを愛するようになった。
もちろん、幼い彼にとって、バレリーナたちの技術や表現力を正しく評価することはできなかった。だが、まるで呪文のように人を引き寄せる音楽、信じがたいほど美しい衣装、劇場の空気――それらすべてが、小さな子どもの心を強く魅了していた。
父は、妻の情熱を理解しなかった。
「くだらない」「真面目じゃない」
そう繰り返していた。なぜ自分がそんな「浮ついた女」を妻に選んだのか、本人にも分からなかったのだろう。彼女は決して天才でも特別な存在でもなかった。ただ、夫を心から愛していた。それだけだった。
母は毎晩、家族の幸せを神に祈った。
だが、自分自身のことは、完全に忘れていた。
その幸せは、長くは続かなかった。
ある日、初日の公演へ向かうため、フェージャの母は、古くて懐かしいアパートの扉を閉めた。それが、最後だった。
誰も予想できなかった――オペラ・バレエ劇場で起きた、あの大火災を。
人々は生きたまま焼かれ、踊り手たちは観客を助けようと必死に走り回った。自分たちが逃げることさえ忘れて。
放火ではなかった。誰も、あの悲劇を望んでなどいなかった。
後にフェージャは知ることになる。母は、観客を救った勇気と献身を称えられ、死後に勲章を授与されたということを。
だが、彼は思った。
彼女は一度も、自分の命のことなど考えなかった。
そして、死んだ。
生きることを気にも留めずに。
その勲章に、何の意味があったのだろうか。
彼女が、もう存在しないというのに。
幼いフェージャの頭にあったのは、ただ一つの考えだけだった。
もし救助が、もう少し早ければ……
もし、もっと真剣に向き合っていれば……
父は酒に溺れた。
どうやら、妻を愛してはいたらしい。愚かだと罵りながらも。
料理は上手く、会話も楽しく、彼を愛し、息子を愛していた女だった。
父はすべてを救助隊のせいにした。
間に合わなかった者たちのせいだと。
その考えを、息子にも植え付けた。
七歳のフェージャの記憶に、その憎しみは深く刻まれた。
仕事は続かなかった。毎日が二日酔いでは、当然だった。
フェージャが学校から帰ると、父は床に座り込み、隣には空の酒瓶が転がっていた。
少年は父を寝かせ、黙って宿題をした。
やがて金が尽き、父は家財を売り始めた。
そして、亡き妻の古いバレエシューズを見つけてしまった。
耐えられなくなった父は、荷物をまとめ、息子を連れて駅へ向かった。
新しい人生を始めるつもりだった。
春だった。
すべてが芽吹き、人が狂いやすい季節でもあった。
列車が来た。
それは、救いのように見えた。
だが――父は、突き落とされた。
列車に轢かれ、即死だった。
フェージャの目の前で。
血が、そこら中に広がっていた。
犯人は逃げた。
誰も捕まえられなかった。
調査は行われ、フェージャは孤児院に送られた。
犯人は見つからなかった。
あるいは、探されなかったのかもしれない。
十歳のフェージャは、そう思っていた。
彼の心には、出口のない憎悪が住み着いた。
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注釈(歴史・文化的背景)
1.ボリショイ劇場
ソ連を代表する文化的象徴。そこで働くことは名誉であり、国家の威信そのものだった。
2.死後叙勲
国家が英雄的行為を顕彰する形式的な補償であり、遺族の生活を救うものではなかった。
3.救助体制
官僚主義と資源不足により、迅速な対応が困難な場合が多かったが、公には認められなかった。
4.アルコール依存と解雇
社会的に非難されつつも蔓延しており、解雇は事実上の社会的死を意味した。
5.駅という象徴
ソ連文学において、駅や鉄道は「逃避」「希望」「破滅」の境界として描かれることが多い。




