初観戦
入り口をくぐった瞬間、美咲の脳裏に浮かんだ感想はただ一言――
「暗っ!!」
そこに広がっていたのは、テレビで見たきらびやかな野球場のイメージとは正反対の風景だった。
剥き出しのコンクリートの壁と天井、ところどころチカチカと点滅する古ぼけた蛍光灯。冷たい光が通路全体を青白く照らし、まるで心霊スポットの廃墟に迷い込んだかのようだ。思わず鳥肌が立つ。
途中にいくつか売店が並んでいるが、その半分は固くシャッターが降ろされ、ペンキが剥げ落ちてまだら模様をつくっている。営業している店ですら、商品棚がスカスカで、やる気のなさそうな売り子が肘をついて欠伸をしていた。
「ねえ……今日、試合やってるんだよね?」
美咲は恐る恐る夏実にたずねる。
「ああ。吉田さんはそう言ってたけど……」
返ってきたのは気のない答え。だが、美咲の違和感は強まるばかりだ。なにせ、会話が普通に成立するほどの静けさなのだ。プロ野球といえば応援歌にラッパ、歓声と怒号の嵐……そんなイメージを抱いていたのに、耳に届くのは遠くからかすかに聞こえるざわめき程度。
やがて、緩やかなスロープを昇って外に出ると、視界がぱっと開けた。
そこにはグラウンドが広がっていた。内野は土、外野は鮮やかな緑――。
「芝生、キレイ……!」
思わず声が漏れる美咲。しかし、すかさず隣の夏実から冷水を浴びせられる。
「あれは天然芝じゃなくて人工芝。ただのプラスチックだぞ」
「ええっ!? うそでしょ!?」
「ホントホント。天然芝より管理が楽だからな。ドームだけじゃなくては屋外でも人工芝の球場は多いんだよ」
「ふーん……そうなんだ……」
美咲の心の中の感動ポイントは、容赦なくプラスチックに変換された。
それでもせっかくなので、グラウンドから目をスタンドに移す。これが人生初のプロ野球観戦――テレビ越しではなく生の野球場。
本来なら非日常の高揚感で胸が弾むはずだった。けれど、実際には……心は冷めたままだ。
「……なんか、アイドルのコンサートの時みたいなワクワクがない」
その理由に気づくのは、そう時間はかからなかった。
「ねえ、夏実。この試合……ファンが少なくない?」
声をひそめて尋ねると、夏実はあっさりと答える。
「ああ、めっちゃ少ないな。正直、あたしも驚いてる」
――驚いてるのはこっちだ。
万単位を収容できそうなスタンドが、9割以上ガラガラ。ポツポツと点在する観客が、赤い座席に黒い種のように散らばっている。まるでスイカの果肉にまばらに種を置いたみたいで、笑うに笑えない光景だった。
吉田に導かれて、バックネット裏からライトスタンドのほうへ歩く。すると、閑散としたスタンドの中に、十人ほどの若い女の子が固まって座っている一角を見つけた。
「え……?」
美咲は思わず足を止める。スタンド全体を見渡しても女性観客はせいぜい一割ほど。そのほとんどが年配層なのに、ここだけ若い子が密集している。しかも、全員それなりに可愛らしい顔立ちだ。
ただ――奇妙なことに、『華』がない。アイドルのステージのような輝きが感じられないのだ。
「それでは、お二人もこちらで観戦してください。返事は試合が終わったあとで結構です」
吉田はにこやかに告げる。つまり、この子たちも自分たちと同じ「スカウト組」ということらしい。
「……どうやら、スカウトされたのは、あたしたちだけじゃねーみたいだな」
夏実は露骨に舌打ちした。その不機嫌さに、美咲も胸の奥がちくりと痛む。
ふたりは渋々、硬くてお尻が痛くなるプラスチック椅子に腰を下ろした。背もたれは形ばかりで、座れば座るほど「長居無用」と言われている気がする。
「ねえ、夏実」
「ん?」
「なんで……こんなに観客少ないの?」
美咲の知るプロ野球は、休日なら満員御礼。太鼓とラッパが鳴り響き、ホームランが出れば地鳴りのような歓声が沸き起こる――そんな華やかな世界だった。だが今目の前にあるのは、静かで、寒々しく、どこか陰鬱な空気に満たされた球場だ。
夏実は一瞬だけ言葉を探し、そしてさらりとごまかすように言った。
「まあ、今日はオープン戦だからな。簡単に言えば練習試合だよ。成績に関係ないから、客入りも少ないんだ」
「へえ……そうなんだ。本番はいつ?」
「3月の終わりくらいかな。今はまだ2月で調整段階。主力は休んでるし、試合に出てるのは若手ばっかり。そりゃ観客も減るさ」
「へえ~。夏実って野球詳しいんだね」
「父さんが好きでさ。しょっちゅう見てるんだよ。今はネットとかでいろんなスポーツをみれるけど、ネットがなかった時代じゃテレビは野球ばっかで、毎日のようにゴールデンタイムを独占してたらしいからな~」
夏実はそっけなく言うが、その横顔はどこか曇っている。
――やっぱり、オープン戦だからなのかな。
美咲は自分にそう言い聞かせた。
「よかった。安心したよ。さすがに応援するチームがファン少なすぎたら、寂しいもんね!」
そう言って笑うと、夏実は曖昧に口の端を上げた。
「ああ……そうだな」
その声はどこか引っかかる響きだった。
「ん? 夏実、なにか言った?」
「いんや、なんでもない」
そう言って、夏実は観客席の空虚さを誤魔化すようにグラウンドを見つめ続けた。