表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/28

晩餐

 暖簾をくぐった瞬間、油と醤油が混ざったような、どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐった。

 美咲は一瞬だけ足を止め、店内を見渡す。


 外観の年季に違わず、店の中もきれいとは言い難い。

 色あせた短冊メニューが壁一面に貼られ、年季の入った木のテーブルには、何度も拭かれてきた跡がうっすらと残っている。天井の換気扇は、今にも「ギギ……」と音を立てそうな勢いで回っていた。


 でも、席は7割ほど埋まっていて、活気は十分。

 ただし――


(……男の人しか、いない)


 作業着姿の中年男性、仕事帰りらしいスーツ姿のサラリーマン、野球中継に文句を言っていそうな雰囲気のおじさんたち。

 視界に入る客は、例外なく全員男性だった。


 その中に、作業着姿でもなければスーツでもない女子高生がふたり。

 どう考えても、場違いだ。


 ――少し前の私だったら、ここで踵を返していたと思う。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から、ぶっきらぼうだけどどこか温かみのある声が飛んでくる。

 美咲は軽く会釈をして、夏実と一緒に空いているテーブル席へ向かった。


 この店は、紅子に教えてもらった。

 生まれも育ちも赤井寺市民の彼女が「安い・多い・うまい」の3拍子を保証する、地元では有名な定食屋らしい。


 席に腰を下ろすと、椅子が少しだけ軋んだ。


「……昭和だね」


 夏実が、楽しそうに辺りを見回す。


「うん。タイムスリップしたみたい」


 メニューを開くと、どれも値段が良心的で、逆に少し不安になる。

 美咲は焼き魚定食、夏実は唐揚げ定食を注文した。


「こういう店が駅の近くにあるの、ありがたいよな」


 夏実が水を飲みながら言う。


「うん。ファストフードだと、どうしても栄養が偏るから」


 そう答えながら、美咲は周囲のざわめきに耳を澄ます。

 グラスがぶつかる音。笑い声。大きな声で交わされる仕事の愚痴。

 夕方を過ぎたこの時間帯は、居酒屋代わりに使っている客も多いようだった。


 正直、静かとは言えない。

 でも――


(……前ほど、気にならない)


 夏実が、にやりとした笑みを浮かべてこちらを見る。


「しかしさ、美咲」


「なに?」


「球場のオヤジたちの野次、毎日聞いてるせいか、だいぶ耐性ついてきたよな」


「え、そうかな……?」


 自分では、あまり自覚がない。


「前だったらさ」


 夏実は箸を割る真似をしながら続ける。


「絶対、こういう店でご飯食べなかったでしょ。『うるさいし、視線気になるし』って」


 言われて、美咲は少し考える。


 ――たしかに、そうだ。

 人の声が大きい場所は苦手だったし、知らない視線が集まる空間は、それだけで落ち着かなかった。


(……慣れって、怖い)


 球場の怒号。

 スタンドから飛ぶ野次。

 あれに比べたら、この店のざわめきなんて、むしろ平和ですらある。


「……いい変化、なのかな」


 ぽつりと呟くと、


「いいに決まってるでしょ」


 夏実は即答だった。


「生きやすくなってる証拠だよ」


 美咲は、その言葉を噛みしめるように、湯気の立ち上る厨房の方を見た。


 やがて運ばれてくるであろう、温かい定食。

 この騒がしくて、少し雑で、でも居心地の悪くない空間。


 ――ここでなら、ちゃんと息ができる気がした。


 そんな自分に、美咲はほんの少しだけ驚いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ