晩餐
暖簾をくぐった瞬間、油と醤油が混ざったような、どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
美咲は一瞬だけ足を止め、店内を見渡す。
外観の年季に違わず、店の中もきれいとは言い難い。
色あせた短冊メニューが壁一面に貼られ、年季の入った木のテーブルには、何度も拭かれてきた跡がうっすらと残っている。天井の換気扇は、今にも「ギギ……」と音を立てそうな勢いで回っていた。
でも、席は7割ほど埋まっていて、活気は十分。
ただし――
(……男の人しか、いない)
作業着姿の中年男性、仕事帰りらしいスーツ姿のサラリーマン、野球中継に文句を言っていそうな雰囲気のおじさんたち。
視界に入る客は、例外なく全員男性だった。
その中に、作業着姿でもなければスーツでもない女子高生がふたり。
どう考えても、場違いだ。
――少し前の私だったら、ここで踵を返していたと思う。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、ぶっきらぼうだけどどこか温かみのある声が飛んでくる。
美咲は軽く会釈をして、夏実と一緒に空いているテーブル席へ向かった。
この店は、紅子に教えてもらった。
生まれも育ちも赤井寺市民の彼女が「安い・多い・うまい」の3拍子を保証する、地元では有名な定食屋らしい。
席に腰を下ろすと、椅子が少しだけ軋んだ。
「……昭和だね」
夏実が、楽しそうに辺りを見回す。
「うん。タイムスリップしたみたい」
メニューを開くと、どれも値段が良心的で、逆に少し不安になる。
美咲は焼き魚定食、夏実は唐揚げ定食を注文した。
「こういう店が駅の近くにあるの、ありがたいよな」
夏実が水を飲みながら言う。
「うん。ファストフードだと、どうしても栄養が偏るから」
そう答えながら、美咲は周囲のざわめきに耳を澄ます。
グラスがぶつかる音。笑い声。大きな声で交わされる仕事の愚痴。
夕方を過ぎたこの時間帯は、居酒屋代わりに使っている客も多いようだった。
正直、静かとは言えない。
でも――
(……前ほど、気にならない)
夏実が、にやりとした笑みを浮かべてこちらを見る。
「しかしさ、美咲」
「なに?」
「球場のオヤジたちの野次、毎日聞いてるせいか、だいぶ耐性ついてきたよな」
「え、そうかな……?」
自分では、あまり自覚がない。
「前だったらさ」
夏実は箸を割る真似をしながら続ける。
「絶対、こういう店でご飯食べなかったでしょ。『うるさいし、視線気になるし』って」
言われて、美咲は少し考える。
――たしかに、そうだ。
人の声が大きい場所は苦手だったし、知らない視線が集まる空間は、それだけで落ち着かなかった。
(……慣れって、怖い)
球場の怒号。
スタンドから飛ぶ野次。
あれに比べたら、この店のざわめきなんて、むしろ平和ですらある。
「……いい変化、なのかな」
ぽつりと呟くと、
「いいに決まってるでしょ」
夏実は即答だった。
「生きやすくなってる証拠だよ」
美咲は、その言葉を噛みしめるように、湯気の立ち上る厨房の方を見た。
やがて運ばれてくるであろう、温かい定食。
この騒がしくて、少し雑で、でも居心地の悪くない空間。
――ここでなら、ちゃんと息ができる気がした。
そんな自分に、美咲はほんの少しだけ驚いていた。




