市民体育館
ゴールデンウィーク明けの最初の月曜日。
通常、プロ野球は月曜日は愛愛が組まれていない。もちろんレッドブルズもこの日は移動日で試合はお休みだった。
けれど、美咲と夏実にとっては、野球があるかどうかはあまり関係ない。
放課後になれば、自然と身体は球場のある赤井寺市のほうを向いてしまう。美咲と夏実は阿倍野で大鉄電車に乗りこむ。
しかし、赤井寺駅で降り立ったふたりが向かったのは、球場ではなく、そのすぐ近くにある市民体育館。
立派とは言いがたい、どこにでもある公共施設。
そして、美咲と夏実はその施設内にあるロッカールームに入室する。中は相変わらず少しだけ消毒液の匂いがした。
学校の部室とほとんど変わらない――いや、正直に言えば、それより少しだけ年季が入っている。
スチール製のロッカーは、ところどころ塗装が剥げていて、扉を開けるたびに小さく軋む音を立てる。
美咲と夏実は、並んだロッカーの前で同時に立ち止まった。
「はー……」
夏実が、制服のネクタイを外しながら大きく息を吐く。
「なんかさ、市民体育館って聞くだけで気合い抜けない?」
「え……そうかな」
美咲はそう答えつつ、ブレザーを脱いでハンガーに掛ける。
きちんと畳まないと落ち着かない性格は、こういう時にも出てしまう。
「だってさ、もっとこう……鏡張りのスタジオとか想像してたんだよ、チアの練習って」
「それは……わたしも、ちょっとだけ」
本当は「かなり」想像していたけれど、そこまでは言わなかった。
スカートを脱ぎ、用意してきた練習用のウエアに着替える。
上は白地に赤いラインが入ったスポーツ用のTシャツ。
「でもさ」
夏実は靴下を履き替えながら、軽い調子で続ける。
「こうやって普通に着替えて、普通に練習してるとさ。ほんとにチアになったんだなって実感するよね」
「……うん」
美咲は、ロッカーの扉に映った自分を見る。
制服よりも、練習着の自分のほうが、少しだけ“ここにいていい人間”に見えた。
「最初さ」
夏実が、不意に声のトーンを落とす。
「美咲が緊張で固まって、絶対途中で逃げ出すと思ってた」
「ひどい……」
「いや、褒めてるんだって」
どう考えても褒め言葉には聞こえなかったけれど。
「でも、逃げなかったじゃん。ちゃんと、ここまで来た」
その言葉に、美咲は返事ができなかった。
ロッカーの中で、指先が少し震えているのを誤魔化すように、タオルを取り出す。
「……夏実は、平気そうだよね」
「まあね」
夏実はあっさり頷く。
「失敗したら、その時考えればいいし。どうせ、最初から完璧なんて無理だし」
その軽さが、少しだけ羨ましかった。
着替えを終え、スニーカーの紐を結ぶ。
ロッカールームの外からは、もう他のメンバーの声が聞こえてくる。
「よし」
夏実が、パンと手を叩く。
「今日も、学芸会会場で頑張りますか」
「……言い方」
そう言いながらも、美咲は少しだけ笑ってしまった。
市民体育館。
古びたロッカールーム。
決して華やかとは言えない練習環境。
それでも――
ここから始まる時間が、確かに私たちを前に進めている。
そう思いながら、私は夏実と並んでロッカールームを出た
床には年季の入ったラインが引かれ、壁には「ボール遊び禁止」や「使用後はモップ掛けを」といった注意書きが、やけに主張強めの文字で貼られている。
この古ぼけたどこにでもある体育館が、スカーレット・フレアの“練習拠点”だった。
「ねえ、紅子さん」
ウォーミングアップが一段落したあたりで、夏実がタオルを首にかけたまま口を開く。
「専用のスタジオとか、借りることできないの?」
言いながら、体育館の天井を見上げる夏実。
照明は明るいけれど、どこか学校行事の匂いが抜けきらない。
「もう慣れたけどさ。市民体育館で練習って……学芸会じゃないんだからさぁ」
その言い方が妙に的確で、私は思わず小さく笑ってしまった。
「貧乏球団に、そんな余裕あるわけないやろ」
間髪入れずに返ってくる紅子の一言。
関西弁には、一切の迷いも、希望的観測も含まれていなかった。
――あ、はい。ですよね。
このやり取りも、もう何度目だろう。
文句を言う夏実。
即座に切り捨てる紅子。
そして、なぜか毎回、みんな納得してしまう。
そうこうしているうちに、練習はあっという間に終わる。
鏡に映る自分は、汗で前髪が少し乱れていて、制服姿の朝とは別人みたいだった。
体育館の外に出ると、いつの間にか空はすっかり暗くなっていた。
昼間の熱を少しだけ残したアスファルトが、夜の空気をじんわりと温めている。
「じゃあ、お疲れさん」
「明日もよろしく」
紅子さんや鏡花さんたちと、それぞれの帰り道で別れる。
大人組は車で、美咲たち高校生組は駅へ。
歩きながら、夏実がぽつりと言った。
「……なんか、ハラ減ったな」
あまりにも素直な一言に、私は即答する。
「じゃあ、いつものところで晩ごはん食べていく?」
「いいな」
そのやりとりだけで、お互いの意見は合意。
赤井寺駅の近く。
決して目立つわけでもなく、むしろ少し古びた佇まいの定食屋。
色あせた暖簾が風に揺れていて、外からは中の様子がよく分からない。
だけど、その暖簾をくぐると、なぜかほっとする。
練習で疲れた身体と、少しだけ張りつめていた心が、同時にほどけていく気がした。
私と夏実は、何の躊躇もなく、その暖簾を押し分ける。




