デビュー戦
3月の末日。春休みの昼下がりの阿倍野橋駅は、買い物帰りの親子や学生たちでにぎわっていた。美咲はその人波の少し外れた改札口脇に立ち、大きなボストンバッグの持ち手を握り直す。中には、スカーレット・フレアの衣装一式と、必要最低限の化粧道具やシューズ。肩にずしりと食い込む重みが、今日という日の現実をいやでも意識させた。
「悪い。待ったー?」
元気な声とともに、改札の向こうから夏実が駆けてきた。
彼女は薄手のブルゾンにデニムスカート、足元は白いスニーカー。カジュアルで動きやすい服装だけど、どこか弾むような明るさが似合っている。
「大丈夫。わたしも今来たところだから」
自然と笑みがこぼれる。私自身は、ベージュのパーカーに黒の細身パンツ。荷物の多さを考えて、地味で無難な格好を選んできた。舞台に立つときの衣装が派手だからこそ、普段は逆に目立ちたくない――そんな気持ちもあった。
改札を抜け、2人でホームへ向かう。階段を下りながら、夏実が言った。
「いよいよ、今日だな」
「……うん」
短い返事しかできなかった。心臓が早鐘を打ち、掌に汗が滲む。緊張のせいか、それとも期待のせいか。
準急電車が滑り込んでくると、美咲たちは並んで乗り込んだ。ロングシートに腰を下ろすと、車窓の向こうに広がる大阪の街並みがゆっくりと流れていく。阿倍野の高層ビル群、商店街のアーケード、雑多な住宅地――都会の喧噪が遠ざかるにつれて、胸の中のざわめきも少しずつ形を変えていく。
電車が加速し、視界が開ける。線路脇に桜並木が続いていた。咲き始めた花びらが風に舞い、春の柔らかな日差しにきらめいている。窓越しに見えるその景色が、今日という特別な1日の幕開けを祝ってくれているように感じた。
思えば――2月の終わり、まだ冷たい風が残る頃。あのとき、夏実と一緒にオープン戦真っ最中の赤井寺球場で、勢いに任せて飛び入りで踊ったのがすべての始まりだった。観客もまばらで、誰も美咲たちに注目なんてしていないと思っていたのに、なぜかあの一瞬だけは心が震えるように楽しくて。終わったあとも足の先まで熱が残って、帰り道もずっとその余韻に浸っていた。
そして、あの日をきっかけに正式にスカーレット・フレアのメンバーとして加入することになった美咲と夏実。右も左も分からないまま、週に何度も練習場に通い、ひたすら振りを覚え、体力をつける日々。
できないことの方が多くて、夜に布団へ潜り込むと「ああ、やっぱり無理かもしれない」と弱気になることも少なくなかった。でも、夏実が隣にいて、「一緒にやろう」って笑ってくれるだけで、また翌朝には立ち上がれた。
あれから1か月。気づけば春になり、桜のつぼみも大きくなり、そして今日。ホーム開幕戦。デビュー戦。
「とにかく、開幕カードは敵地の埼玉で唐舞パンサーズに1勝2敗で負け越しちゃったからさ。今日の試合は勝ちたいよな!」
夏実はリュックを抱えながら、わざと軽い調子で言う。緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。
「……そうだね。勝てば、きっと盛り上がる」
私も笑おうとしたけれど、声が少し震えていた。応援の一員としてのデビュー戦。しかも、レッドブルズのホーム開幕戦。責任の重さに、胸が押しつぶされそうになる。
でも――隣で明るく笑う夏実がいる。それだけで、不思議と心は前へと引き寄せられる。
やがて電車は速度を落とし、郊外の風景が広がる。田畑が見え、昔ながらの瓦屋根の家が点在する。大阪市内の喧噪とは別世界のようだ。
ホームのアナウンスが流れる。
「次は赤井寺、赤井寺です」
胸がぎゅっと締めつけられる。赤井寺駅――あの球場の最寄り駅。降りれば、もう後戻りはできない。
電車が停車し、ドアが開いた。春の空気と、球場へ向かう人々のざわめきが流れ込んでくる。手にしたボストンバッグの重みは変わらないのに、どこか誇らしく感じられた。
私は深呼吸をひとつして、夏実と並んでホームに降り立った。
すべてが夢のようで、怖いくらい現実味を帯びて迫ってくる。