試合終了
『ストライク! バッターアウト!』
「勝った~」
紅子が大きく息を吐く。
結局、この回は奇跡のような綱渡りで終わった。内野ゴロのさいに三塁走者のスタートが遅れて本塁憤死するなどの攻拙に助けられ、石田はどうにか0点で切り抜けたのだ。ベンチもスタンドも大きな拍手に包まれ、チームはそのまま逃げ切り、レッドブルズは勝利を収めた。
けれど、美咲の胸に残ったのは「勝った」という高揚感よりも、「次は自分の番だ」という緊張の重みだった。試合の余韻が消えるより早く、スカーレット・フレアの面々は整列し、勝利後のダンス・パフォーマンスの準備に入っていた。
グラウンドへと通じる通路は、独特の熱気と湿度に包まれていた。スタンドからの歓声が壁を震わせ、床に響く足音がざわめきの一部となる。赤と白のユニフォームが整然と並び、舞台袖に控える役者のように誰もが呼吸を整えている。その光景の中で、美咲は自分だけが場違いな存在に思えた。
吉田が手際よく段取りを確認してくれる。「まずセンターラインに走って、合図で隊形を作って……」と説明は続いている。けれど、美咲の耳には半分も入ってこなかった。言葉は確かに届いているのに、頭の中でかき消されていく。鼓動の音がそれを塗りつぶし、過去の失敗の断片だけが映像のように蘇る。舞台で固まってしまったあの日。練習で振りを飛ばしてしまったとき。観客の笑い声とため息が、幻のように蘇る。
――また失敗したらどうしよう。
――夏実に迷惑をかけたらどうしよう。
――観客が失望したら……。
不安は増殖し、足元の床がやけに遠くに感じられる。喉がからからに乾き、指先には冷たい汗が滲む。ここから一歩でも前に出れば、自分は確実に崩れてしまう。そんな確信が胸を占めていく。
そのとき、不意に手を取られた。
横にいた鏡花が、美咲の右手を強く握りしめていた。思わず視線を向けると、彼女の瞳はまっすぐで、どこまでも落ち着いていた。
「大丈夫。あなたなら、きっとできるから」
静かな声だった。けれど、不思議とその言葉は胸の奥深くに落ちていった。握られた手から伝わる温もりは確かで、震えていた自分の心臓の鼓動を少しずつ落ち着かせてくれる。
美咲は言葉を返せなかった。けれど、小さくうなずいた。自分の唇が、かすかに動いたのが分かった。
やがて名前が呼ばれ、出番の合図が鳴る。
通路の先には光が広がっている。人工芝の匂い、風に乗って押し寄せる観客のざわめき、太鼓のリズム――そのすべてが一気に押し寄せる。
美咲は駆けだした。
スタンドから見ていたときとはまるで違う。フィールドの広さは想像以上で、光は目に痛いほど眩しい。耳に飛び込んでくる歓声は壁のように高く、足元の芝はわずかに沈み、踏みしめるたびに確かに「ここにいる」と告げてくる。
それでも、先ほどまで胸を支配していた恐怖は、少しずつ遠のいていった。握られた手の温もりはまだ指先に残っている。その感覚を胸の奥で反芻しながら、美咲は深く息を吸った。
たった一瞬の出来事かもしれない。けれど、美咲にとっては、その一瞬が確かに永遠のように思えた。