7年前まで球界の盟主と呼ばれるチームでクローザーとして活躍したけれど、今はコントロールのなさだけが目立つようになった元剛球投手
「あかん……いつのまにか満塁になっとる。しかも、まだノーアウトやんか……」
控室のモニターに映し出されたスコアボードを見て、紅子が頭を抱えた。
野球のルールに明るくない美咲でも、ノーアウト満塁が〝大ピンチ〟だってことくらいは分かる。ゲームで言えば「残機ゼロでボス戦に突入」みたいなものだろう。いや、むしろコンティニュー画面に片足突っ込んでいるくらい深刻だ。
そして、ここで負けるようなことになったら──。
夏実が押し切って吉田を動かし、必死にこぎつけた「チアに参加するチャンス」がすべて水泡に帰してしまう。胸の奥に冷たいものが流れ込んで、美咲は思わず両手を握りしめた。
「ピッチャー、誰やねん! ……くそ、石田か。ホンマ、あいつはノーコンやな!」
紅子が机を叩きつけるように吠えた。いや、あなたたちチアリーダーって、応援するのがお仕事じゃなかったですか、と心の中でツッコんでしまう。
すると隣から、やけに明るい声が飛んだ。
「ねえ、紅子さん。あの石田って、どんなピッチャーなの?」
……夏実だ。初対面でも物怖じゼロ。さすがというか、怖いもの知らずというか。紅子の剣幕にもまるで怯む様子がない。
「石田っちゅうのはな、セ・リーグの帝都グレイツにおったんや。7年前には150キロを超える速球とフォークでクローザーまで務めて、日本一に貢献したピッチャーや」
「へえ、すごいじゃん! なんで今はレッドブルズにいるのさ?」
「そらコントロール悪いからに決まっとるやろ! もともと四隅をビシッと投げ分けるタイプちゃう。球威とフォークで強引に抑える豪腕やったんや。けど、だんだんフォアボールで自滅するパターンが増えてな……で、最下位常連のうちにトレードされてきたわけや」
「なるほど。だから今回もノーアウト満塁のピンチを……」
夏実が無邪気に納得すると、紅子さんは畳みかける。
「そして、30代になって球威も落ちたのに、ベテランらしい投球術も制球力も身につけられんかったんや。それが今の石田や!」
机の上に置かれたペットボトルが揺れるほどの熱弁。夏実は「ふーん」と相槌を打ち、それから首をかしげる。
「でもさ、なんでそんな伸びしろなさそうな人を投げさせてんの? オープン戦なんだし、もっとイキのいい若手を使えばいいじゃん」
……出た。絶対言ってはいけないことを。
次の瞬間、紅子のこめかみに青筋が浮かんだ。口元には笑み。けれどその笑みは、氷点下の刃物のように冷たい。
「イキのいい若手やとう? そんなもん、おったら最初から使うとるわ! 最下位チームなめんなや!」
脅し文句としては悲しすぎる。でも逆にリアルすぎて笑えない。私は思わず口を押さえた。
「……あ、すいません」さすがの夏実も、気まずそうに縮こまって謝っている。
それでも試合は待ってくれない。ノーアウト満塁、石田が構えた。
私は祈るように手を合わせた。〝どうか……どうか抑えてください。ここで崩れたら、全部終わっちゃう……〟
だが、モニターの中の石田が投げ込んだボールは、ストライクゾーンを大きく外れてキャッチャーのミットから外れた。
「だー! これでスリー・ワン。あと一球で押し出しやんか!」
夏実が悲鳴を上げる。私も胸の奥がズシンと沈んだ。押し出しって……ランナーが自動的に帰ってくるやつだよね? 絶望の響きしかない。
「石田! なんでもええから抑えろ! 腕が千切れてもええから凌ぎきれ!」
紅子さんがモニターに向かって怒鳴る。控室全体が揺れた気がした。
そして、美咲は悟る。この紅子という女性は若くてチアリーダーという立場ながら、そのメンタルと口の悪さはスタンドで野次っていた口汚いおじさんたちと変わらないということを。