急展開
『あっというまの急展開』とはこういう事をいうのだろう
美咲と一緒に『スカーレット・フレア』のダンスを初めて目にしてから、まだ30分も経っていない。
それなのに、気づけば夏実と美咲は赤井寺球場の片隅にある控室で、チア衣装に着替えていた。
――いや、正確には着替えているのは夏実だけだ。隣では美咲が、いまだ制服のまま突っ立っている。着替えに取りかかるどころか、チア服を抱きしめたまま金縛りのように固まっているのだ。
「もう、なんであんな勝手に約束するのよ!」
ふくれっ面で声を荒げる美咲。その頬は本当にフグみたいに丸く膨らんでいる。
だが夏実は怯まない。むしろ、心のどこかで「可愛い」と思ってしまい、笑みをこらえるのに必死だった。
「あの人なんだろ?」
「……え?」
「だからさ。美咲が公園で見たって言ってた“とびきり綺麗な人”。それ、『スカーレット・フレア』の鏡花さんなんだろ!」
核心を突くと、美咲は目をぱちぱちさせて絶句した。その反応があまりに素直で、夏実は胸の奥がくすぐったくなる。
「なんで……分かったの?」
「分かるよ、親友だから。鏡花さんが出てきた瞬間の美咲の顔――もう、どんな宝石よりもキラッキラだったもん」
実際、美咲の目はあの瞬間、舞台照明を浴びたステージのように輝いていた。夏実の胸に焼き付いて離れないほどだ。
だからこそ、彼女はあの場で衝動的に動いた。吉田に対して「勝利した試合後におこなわれるパフォーマンスに自分たちも出たい」と口走ったのだ。
結果は……あっけないほど簡単に「了承」だった。こんなめちゃくちゃな要求がよく通ったな、と我ながら思うが、吉田にしてみれば、この場で断って2人に逃げられる方がよほど困るのだろう。
けれど――問題はこれからだ。
「そんなのムチャクチャだよ! だって今日初めて見たんだよ、私たち!」
「でも、美咲なら踊れるだろ?」
美咲は、黙り込む。
夏実は知っている。彼女は3分くらいの歌やダンスなら、1度見ただけで完璧に再現できる。まるで天から与えられたギフトのような特技だ。
吉田に確認したところ、試合後におこなわれるダンス・パフォーマンスの楽曲は『ラッキーセブン』時のものと同じだというのだ。
それならば、美咲はなんなく踊ることができるはず――。だからこそ、夏実はこんな無茶な策に打って出たのである。
むしろ、問題なのは夏実のほうだ。夏実には美咲のような特殊能力はない。野球ファンなので、レッドブルズの応援歌自体は聞いたことがあったのだが、ダンスのふりつけを見たのは今日が初めて。ぶっつけ本番で踊れば、それこそ目も当てられない大惨事になるだろう。
本番までの時間を、全てふりつけを覚えるために集中したいというのが、本音である。
しかし、今はそんな事を言っていられない。
どうせ観客の数も雀の涙のパ・リーグのオープン戦。失敗して転ぼうが、間違って盆踊りを踊ってしまったとしても、テレビ中継もされていないのだろうから、恥をかくのは、今この場の1回こっきり。長い人生を考えれば、かすり傷のようなもの。後でいくらでも笑い話になる。
とにかく、今は、生来のあがり症である美咲が再び人前で踊れるようになれるかの瀬戸際なのだ。なにがなんでも、このダンス・パフォーマンスを成功させねばならない。だからこそ、夏実は振り付けを覚える事ではなく、美咲をサポートする事に全精力を傾けるのであった。
「でも……でも……」
美咲は泣きそうな顔で、まだ着替えられずにいる。夏実の胸がちくりと痛む。押しすぎれば壊れてしまうかもしれない。けれど、背中を押さなければ、彼女はまた逃げてしまう。
その時だった。スタンドから轟くような歓声が湧いた。数10秒後、控室のドアが叩かれる。
「4点差を逆転しました! 現在も8回ウラの攻撃中です!」と吉田の声。
夏実は思わず右拳を握り、ガッツポーズを作る。
懸念は2つあった。美咲が舞台に立てるかどうか。そして、レッドブルズが勝てるかどうか。
どちらも厳しいと思っていた。なにせ7回ウラまでは4対0で負けていたのだから。
だが今、状況はひっくり返った。――野球の神様が味方している。いや、それ以上に、鏡花と同じ舞台に立つチャンスを美咲に与えてくれているのだ。
「ほら、美咲! もうすぐ試合が終わる! ここまできたら、憧れの人と一緒に踊ろうぜ!」
震える肩、迷う瞳。
けれど、美咲はついに――チアユニフォームに袖を通した。
その姿を見た瞬間、夏実の胸に熱がこみあげる。彼女は確かに一歩を踏み出した。
あとは、自分が隣で支えるだけだ。