鏡花
その瞬間、心臓が跳ね上がった。
老朽化した球場。半分以上空いた観客席。やる気の欠片も感じられない選手たち。そして、酒臭い野次を飛ばし続ける一部のファン。ここまでに積み重なったすべての幻滅と失望が、一瞬にして吹き飛ばされる。
7回ウラ。応援歌が鳴り響き、赤い炎を思わせる衣装のチアリーダーたちがグラウンドに飛び出したとき――美咲の世界は塗り替えられた。
4人の中で、ひときわ眩しい人がいた。いや、「いた」という事実よりも、「そこに現れてしまった」という言い方のほうがふさわしい。朝に目撃したあの鮮烈な舞――忘れるはずもない人。彼女が、ここにいる。
〝あの人だ……!〟
風が吹いた。実際には無風だったかもしれない。けれど、美咲のまわりだけ、確かに風が巡りはじめた。凍りついていた空気が、色を帯びて流れ出す。
華やかさが違った。
彼女が現れただけで、薄暗い球場が陽光に照らされたように変わる。灰色だった景色に、極彩色の絵の具がぶちまけられたみたいに。
スタイルも、次元が違った。
他のチアと比べても頭ひとつ分は背が高い。腰の位置が驚くほど高く、長い脚線美が真っ赤なスカートから伸びている。けれど細いだけではない。薔薇の茎のような繊細さと、女性らしい丸みを同時に抱え、ただ立っているだけで艶やかさを放っていた。
美咲はこれまで何人ものアイドルや、アイドル志望の女の子を目にしてきた。ステージ上で輝く彼女たちを追いかけてきたつもりだった。でも――あんなにも「光そのもの」としか言いようのない存在に出会ったことは、一度だってなかった。
〝どうして……こんな人が、レッドブルズなんかでチアを?〟
まるで、場末の中古車センターにフェラーリが1台だけ紛れ込んでいるような、そんな不釣り合いで圧倒的な光景。目を奪われるしかなかった。
流れる応援歌は、古めかしく軍歌じみたメロディー。きっと昔から存在する曲にチア結成時に後から振り付けを考えたのだろう。やっつけ仕事に違いない。でも――彼女が踊れば、そのアンバランスすら輝きに変わる。ぎこちなさがリズムに溶けて、視線を離せなくなる。
美咲は今まで「推し」を持ったことがなかった。アイドルは好きでも、特定の誰かに夢中になったことはない。――今ならわかる。それは、まだこの人に出会っていなかったからだ。
「吉田さん……あの人は、誰ですか。あの女神みたいに綺麗な人……」
声にした言葉はあまりにも抽象的で、説明にもなっていなかった。それでも、吉田は即座に理解したように頷いた。
「彼女は鏡花さん。3年前の結成時からいる、うちのチアの中心メンバーです」
「鏡花さん……」
美咲はその名を、祈りの言葉みたいに何度も口の中で繰り返した。
胸の奥に、熱い炎が生まれる。押さえつけてきた夢が、また顔を出してしまう。
〝踊りたい……〟
唇が、知らず知らずのうちに動いていた。
「わたし……鏡花さんと踊りたい」
旋律にかき消されるほど小さな声。それでも、隣に座る夏実には、確かに届いていた。