8、偶然か必然か
王宮の奥、魔導行政を司る執務室。
魔法に関わるあらゆる政策と研究を統括するこの部屋で、エリアス・ノルベルトは書類に目を通していた。
彼は王国随一の魔法師にして、魔導行政大臣___王国の魔法体系を支える要職を担う者だった。
そのエリアスのもとに、魔導研究主任が控えめに部屋へと入ってきた。
「失礼いたします、ノルベルト閣下。……魔導書が、“反応”を示したとの報告が入りました」
手が止まる。
「……本当か?」
顔を上げたエリアスの双眸が、微かに揺れる。
魔導書。七つの属性を司る神代の遺産。かつて彼自身も何度か手にしたが、反応は一度としてなかった。
特に“闇”の魔導書は、長年、封を開かず沈黙を続けていた代物だ。
それが、今_____。
「あの時の……違和感は、やはり……」
言葉を呑み込む。思い出されるのは、かつて魔導書に触れたとき。
ただ、確かに、違和感はあった。まるで、何かが“遠くで眠っている”ような、重たく沈んだ気配。
何かが足りない。何かが、噛み合っていない。説明のつかない感覚だった。
「……反応を示したのは、誰だ?」
研究主任が口にした名に、エリアスは瞠目する。
「____レティシア・クラウゼ様、です」
(......なんだと?)
___彼女に反応した?
脳裏に、庭園で偶然出会った彼女の姿がよぎる。以前とどこか違う、凛とした空気を纏っていた彼女。
なぜ彼女が。なぜ“彼女”なのか。
「……なにか、関係があるのか?」
ぽつりと静かな問いが、室内に落ちる。
ーーーー「カイル」
なぜか懐かしい感覚に陥る、見知らぬ女性が脳裏に浮かぶ。
先ほどの庭園での偶然が、偶然でないとしたら____
レティシアが王宮に呼ばれていた理由。それが“魔導書”なら、今この瞬間も、彼女はまだこの王宮にいる可能性が高い。
机を離れ、静かに立ち上がる。
「……急用ができた。残りの処理は、後で目を通す」
***
「今回は、反応が薄い......か」
魔導書の封を慎重に開いたレティシアの手元で、本はかすかに光ったものの、それ以上の動きはなかった。
リオンは微笑む。
「でも、反応したってことは、レティシアが確かに鍵になってるってことだよ」
その表情には、落胆よりも興味と確信が浮かんでいた。
レティシアは軽く息をのんだ。
静かな部屋に、古書と封印の匂いが満ちる。
確かに、確かに今、魔導書が自分に反応した____。
それなのに、胸のどこかでざわつく不安が消えなかった。
(私が……魔導書に選ばれた? 本当に?)
「……レティシア」
リオンの声が、静かに部屋の空気を揺らした。
「君があのとき、封を開けた瞬間……」
「わずかだけど、“脈動”を感じたんだ」
「ーーあの魔導書の奥にある源核が、ほんの少しだけ目を覚ましたような……そんな気配があって」
優しい声音に、レティシアは自然と顔を上げる。
真っ直ぐな眼差しが、嘘偽りなく彼女に向けられていた。
「王族は、属性の源核に微かな反応があれば察知できる。
だから僕は……自然と、あの書庫に足を向けていたんだ」
リオンの声はゆっくりと落ち着いていて、その瞳は真剣そのものだった。
彼の言葉の重みが空気を震わせ、レティシアの心臓の鼓動がいつもより少しだけ速くなるのを感じる。
ほんの少しの沈黙が訪れ、彼の視線が深くレティシアを見据えた。
「偶然なんかじゃない。あの日、君に会ったのは必然だった」
リオン殿下の声は、優しく確信に満ちていて___それは、ひどく胸を打つものだった。
(……偶然じゃなくて、必然)
レティシアはふと、胸の奥が熱を帯びるのを感じた。
思わず鼓動が早まる。今の言葉は、まるで運命を告げられたようで______。
(魔導書が反応したことも、リオン殿下と出会ったことも…………)
言葉にできない何かが胸の奥で芽吹いた
何かが静かに始まっている……そんな予感に似たものが、そっとレティシアの心を揺らす。
「だから僕は……君のことを____」
コン、と扉の音が遮った。
レティシアが小さく肩を跳ねさせる。
リオンも一瞬、言葉を止め、視線を扉の方へ向けた。
「……レティシア嬢」
低く、冷ややかな声。
エリアス・ノルベルトがそこに立っていた。
彼の視線が、レティシアとリオンの間をゆっくりと行き来する。
「……ここに、いたんだな」
その言葉に、レティシアはふと息をのんだ。
張り詰めた空気が、部屋を満たしていく。
この場に、彼が現れた理由。
それが偶然ではないと気づいたとき、何かが静かに胸の奥で鳴った。