7、王家の秘密
あの光景が幻だったのか、それとも記憶の断片だったのか____エリアスにはまだ分からなかった。
けれど確かに、あの瞬間、自分の中の何かがわずかに軋んだ気がする。
それは、長らく閉ざしてきた扉が、誰かの手によってそっと揺れたような感覚だった。
一方その頃、王宮の奥。
静かな一室には、封印と古書の匂いが満ちていた。魔法に関わる者だけが立ち入ることを許された、重く静謐な空間。
その中央で、リオン・ヴァルトハイムはいつになく真剣な表情で立っていた。
レティシアの前に立つその姿は、普段の柔らかな雰囲気を潜め、どこか王族としての決意を湛えているようにも見える。
「今日は来てくれてありがとう」
少しだけ間を置いて、彼は静かに続ける。
「……本題に入るね」
その声の響きに、レティシアは自然と背筋を正した。
(.......穏やかなリオン殿下が、こんな表情をするなんて)
普段の柔らかな雰囲気はそこになく、彼の目は揺るぎない決意に満ちていた。
「この前、レティシア嬢に反応した魔導書だけど......」
「実は“魔法の根源”とされる《七属性》の魔導書のひとつなんだ」
レティシアは、家庭教師から学んだ内容を思い出す。
この世界には、火、水、風、土、氷、闇、光___七つの属性が存在し、それぞれに応じた魔導書があるとされていた。
けれど、それらは神話の中の話で、実在を信じる者は少ない。
「……七属性の? それって、伝承で語られていた“神代の遺産”のことじゃ……?」
(子供のころ、誰もが聞いたあの神話。七つの力を宿す書___けれど、あれは空想だと思ってた。まさか、実在していたなんて)
「伝承じゃない。実在する。しかも、王宮の宝物庫に七冊すべて、厳重に保管されてる」
リオンの声は穏やかだが、そこに込められた重みが、空気の温度を変えた気がした。
思わず息を呑む。
(本当に……あるの? 神話に出てきたような、そんなものが)
現実感が薄く、けれどリオンの瞳は真っ直ぐで___だからこそ、否定する言葉が出てこなかった。
「ただ、問題がある。七冊のうちの一つ___“闇”の魔導書だけが、もう長いこと眠ったままなんだ」
「魔力にも、気配にも、一切応じない」
リオンの声音が、わずかに低くなる。
「まるで……ただの空っぽの箱みたいに」
(“闇”……)
聞き慣れた属性の中で、最も謎が多く、最も恐れられていた言葉。
なぜそれが“眠ったまま”なのか。そして___なぜ、自分にあの魔導書が反応したのか。
レティシアの胸の内に、また新たな波紋が広がっていった。
「……だから、レティシア嬢にお願いがある」
その言葉に、レティシアは目を伏せたまま小さく息をのむ。
それがただの“情報提供”ではないことを、声の調子が物語っていた。
「お願い、ですか……?」
「協力してほしい。君と“あの魔導書”の関係を、もっと調べさせてほしいんだ」
「もちろん、王家の許可も取ってある。……ただ、それにはひとつ、伝えなければいけないことがある」
リオンが言葉を切ると、静かに沈黙が落ちた。
レティシアが顔を上げると、その瞳は深く、どこか迷いを湛えていた。
「……本来、この七属性の魔導書が存在すること自体、世間では“伝承”としてしか知られていない。
でも、それには理由があるんだ」
「理由……?」
リオンは、部屋の奥――静かに眠る魔導書へと視線をやり、再び口を開いた。
「今、この王国では___新たな魔法使いが、ほとんど生まれていない。
本来、魔導書が目覚めている間は、魔法の流れは均衡を保ち、新たな才能も自然と現れるはずなんだ。
でも今、その流れが、どこかで滞っている。
原因は、眠ったままの《闇の魔導書》。その存在が魔力の循環を乱している可能性があると、王家は睨んでいる」
「……!」
レティシアの心に、ざわりと波紋が広がった。
(魔導書が、世界の“魔力の循環”に影響を及ぼしてる?)
それは想像もしなかった規模の話だった。
けれど、その一端に自分が関わっている可能性があることに、胸の奥がざわついた。
「王家は、このことを公にはしていない。混乱を避けるためにね。
でも、君にだけは話しておきたかった。
……君は、あの魔導書に反応した“唯一の存在”なんだ」
(……唯一の存在......)
信じがたい言葉だった。けれど、リオンの目は真実しか語っていないと物語っていた。
「だからお願いだ、レティシア嬢。
君の協力が、この国の未来を左右するかもしれない」
「___どうか、力を貸してほしい」
リオンの声は、静かに、だが確かに彼女の胸に届いた。
(私が……この国の未来を左右する……?)
唐突すぎる言葉に戸惑いながらも、レティシアの胸の奥で何かが僅かに脈打つ。
それは責任というよりも、もっと原始的な____“知りたい”という欲求に近かった。
(どうして、私だったの? なぜ、あの魔導書は私にだけ反応したの?)
水のように流れていたはずの日常が、いつの間にか“変わり始めている”。
前世の記憶が蘇ってからというもの、心はどこか不安定で、だけどそれ以上に何かに導かれているような感覚があった。
「……怖いです」
ふと、声が漏れる。リオンが目を見開いた。
「けれど、それでも……」
レティシアは少しだけ顔を上げて彼を見つめる。
「あの時、私が感じたことを、無視することはできません」
迷いを孕みながらも、そこには確かな意志があった。
「私で、良いのであれば......協力します」
リオンの表情がわずかに和らぎ、ふっと安堵の息をつく。
「ありがとう、レティシア嬢」
リオンは少し間を置いて、少し照れたように続けた。
「……いや、ありがとう。レティシア」
その呼び方に、レティシアは一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。
この時、彼女はまだ知らなかった。
この選択が、自分だけでなく、過去と未来すらも巻き込む、大きな“渦”の始まりであることを____。