5、感謝の気持ち
朝日がカーテン越しに差し込む部屋で、レティシアは静かに目を開けた。
昨日までの自分が、まるで他人のように思える。それほどに、今の心は澄んでいた。
___この屋敷で、私はどれだけの「当たり前」に甘えていたのだろう。
身の回りの世話をしてくれる侍女たち。自分の命令ひとつで動いてくれる執事。整えられた食事、綺麗に畳まれた服。
けれど、私は一度でも「ありがとう」と言ったことがあっただろうか。
「……情けないわね、私」
苦笑がこぼれた瞬間、部屋の扉が軽くノックされる。
いつも通り、部屋に入ってきたのはマリーだった。茶色の髪を後ろでひとつにまとめ、芯のある緑の瞳は、今日も揺らぎなく冷静だ。だが、その奥にある温かさを、今なら少しだけ感じ取れる気がした。
「レティシア様、おはようございます。そろそろ朝のご支度を_____」
「……ありがとう、マリー」
その言葉が、部屋の空気を少し変えた。
言ってから、レティシアは自分でも驚いた。自然に口をついて出た感謝の言葉など、今まで一度もなかったからだ。マリーも一瞬、目を見張ったようだったが、すぐに小さく頭を下げた。
「……もったいないお言葉です」
かすかに揺れた声。それを聞いて、レティシアは胸の奥がちくりとした。
(私は……ずっと、この子に感謝ひとつも伝えてこなかった)
髪をすく手つきも、コルセットを締める所作も、丁寧で、慎ましく、常に完璧だった。けれどその中に、レティシアのことを知ろうとする気配や、親しみのようなものはなかった。ただの業務。そう割り切って接していたことが、今になってよく分かる。
「……マリー」
「はい、レティシア様」
「その……今まで、ずっとありがとう」
言葉にした瞬間、なぜだか胸が詰まった。
「あなたがいてくれて、助けられてばかりだったわ」
手が止まった。結いかけていた髪の束を持ったまま、マリーは少しだけ目を伏せる。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
____とても、優しい笑顔だった。
「いえ。お側に仕えられることが、私の誇りです」
その笑顔に、胸の奥で何かが温かくほどけていくのを感じた。
(言葉ひとつで変わるのね……)
言葉にしなければ伝わらない。態度にしなければ、伝わるはずもない。
人と心を通わせるのは、ただの奇跡なんかじゃない___努力の積み重ねだ。
マリーはもう何も言わずに、静かに髪を結ってくれた。
その手つきは、いつもと同じなのに、どこかやわらかく感じられた。
レティシアはベッドから起き上がり、まっすぐに彼女を見た。
今までは当たり前だったことに、ちゃんと目を向けていたい。そう思った。
そうしなければ、前世で失ったものを、今世でもまた手放してしまう気がして。
「今日からは、ちゃんと自分の言葉で伝えていくわ」
小さく息を吸い、笑みを浮かべながら、もう一歩だけ近づくように続ける。
「だから……よろしくね、マリー」
一瞬の沈黙の後、マリーは小さく、けれどはっきりと微笑んだ。
その笑顔を見て、レティシアはようやく気づいた。
この人はずっと、私に向き合おうとしてくれていたのだと。
____ただ、私がそれを見ようとしていなかっただけだったのだと。
***
朝の空気が、屋敷の大きな窓から差し込む陽の光とともに、静かに広がっていた。
レティシアは階段を下り、廊下を歩く途中、ふとメイドと目が合った。小柄な若い少女で、慌てて一礼する。
「……おはようございます」
少し迷ってから、レティシアは言った。声はかすかに揺れていたが、それでもその一言には、明らかな意志があった。
メイドは目を見開いて、ぎこちなく返事をする。
「……お、おはようございます、レティシア様」
廊下の先にいた年配の執事が、その様子を見てわずかに眉を動かした。
朝食の席に着いたレティシアは、いつもよりもゆっくりと料理を口に運びながら、ふと顔を上げる。
「このスープ、とても美味しかったわ。……いつも、ありがとう」
厨房から給仕をしていた女性が一瞬手を止める。驚いたように瞬きをして、控えめに微笑んだ。
「恐れ入ります、レティシア様」
言葉は形式的でも、その声はどこか、温かさを帯びていた。
マリーがそっと近づいてきて、カップを下げながら小さく言う。
「……あの、レティシア様。今日のご様子、なんだか……少し違って……」
言いかけて、困ったように言葉を濁す。
「……いえ、失礼しました」
レティシアはその背を見送りながら、静かにスプーンを置いた。
この小さな変化が、ほんの少しでも伝わっていたなら――それだけで、今は十分だと思えた。
ぎこちないながらも、今日も一日を丁寧に過ごした。
昨日より、ほんの少しだけ、笑顔が増えた気がする。
部屋に戻ったレティシアを、執事ハワードが迎えた。
その手には、一通の封書。
「王宮より、お手紙が届いております、レティシア様」
胸の奥が、静かに波打つ。
____魔導書のことかしら。
____それとも、別の何か……。
レティシアはゆっくりと手を伸ばし、封を開いた。