4、それは当たり前じゃない
舞踏会の余韻を乗せて、馬車がゆるやかに屋敷の門をくぐる。
窓に映る自分の顔は、ほんの数日前までの「公爵令嬢レティシア」とはどこか違って見えた。
前世の記憶が、価値観のすべてを静かに塗り替えている。けれど、それは決して重苦しいものではなかった。むしろ、世界を見渡す視界が澄んだような感覚。
(……私、今まで何をしていたのかしら)
人に感謝したことは、あっただろうか。
どれだけの人が、どれだけの気配りを持って日々を支えてくれていたのか。
そう考えると、胸の奥に、小さな痛みが生まれる。
やがて馬車が止まり、扉が開かれる。
「お帰りなさいませ、レティシア様」
玄関先には、整然と並ぶ使用人たちの姿。
礼儀正しい出迎えに、彼女は思わず立ち止まる。
彼らの表情は、穏やかだ。けれど、それはどこか無機質で____
まるで、感情を必要としない“役目”としてそこにいるかのようだった。
(……私は、この人たちに笑いかけたことがあった?)
記憶を探っても、思い出せない。
メイドの一人が、いつも通りにレティシアのマントを脱がせ、靴を脱ぐのを手伝う。
それはあまりにも慣れた、よくある所作だったけれど、今日のレティシアには違って見えた。
「……ありがとう」
思わず、そう口にしていた。
動きを止めたメイドが、戸惑ったように彼女を見る。
「……い、いえ……恐縮です」
きっと今まで、そんな一言を聞いたことがなかったのだろう。
レティシア自身、その反応に苦笑した。
(“当然”じゃなかったのよね。……ずっと、私は気づかなかった)
これまでの日々を思い返すほどに、胸の奥がじくじくと痛む。
思えば、当たり前のように皆の奉仕を受けていた。
食事、衣服、化粧、部屋の掃除……一つとして自分の手でやったことなどない。
「尽くされて当然」___そう思っていたわけではない。けれど、誰かに「ありがとう」と言った記憶が、なかった。
人は人であって、機械ではない。
今まで当たり前のように受け取ってきた数々の行為には、心が込められていたかもしれないのに___
彼女はそれを、ただ無感動に享受していたのだ。
前世で手を握ってくれたあの人。
優しい言葉をかけてくれた家族。
病の中で、ただ寄り添ってくれただけの温もりを、どれほど嬉しく思ったかを思い出す。
(……もう二度と、あんな後悔はしたくない)
今度は、大切にしたい。
与えられるばかりではなく、自分も誰かに返していけるように。
「今日のお茶は、少し時間をずらして出してもらえるかしら。準備ができたら声をかけて」
「……かしこまりました、レティシア様」
その言葉の端に、ほんの少しだけ温度が戻った気がした。
日常の中で、ささやかな感謝を重ねる。
それだけで、世界の色はこんなにも違って見えるのだと____レティシアは、ようやく知ったのだった。




