幸せを祈っていたはずなのに
「――エリアス様が、婚約したそうよ」
ふと耳に入った噂話。
花のように笑う貴族令嬢たちの声の中に、確かにその名前があった。
(……ああ)
胸の奥で、何かが静かに波紋を広げた。
春の光が差し込む宮廷庭園。リオン様と共に訪れた昼下がりの散策のはずだったのに――
私はそれ以降、うまく笑えなくなってしまっていた。
喜ばしいことのはず。
あの人は、前世で私の夫だった人。
けれど今はもう、それぞれ違う人生を歩んでいて。
私はもう、彼の隣にはいられない。
今の私には、隣にいたいと思う人がいる。
そう――この手を握ってくれる、リオン様が。
それなのに。
どうしてだろう。胸の奥が、少しだけ、ざわつく。
おめでたいはずなのに。
ちゃんと、彼の幸せを祈っていたはずなのに。
(……こんな自分、嫌だ)
未練じゃない。嫉妬でもない。
ただ――言葉にできない感情が、静かに胸を満たしていく。
「……ねえ、レティシア」
そっと手を引かれて、顔を上げた。
リオン様が、いつもの穏やかな瞳でこちらを見つめていた。
「今日、なんだか元気ない」
「……え、そんなこと……」
「ううん。ずっと、考えごとをしてた。……心ここにあらずって顔、してたよ」
優しく、でもまっすぐな言葉。
思わず俯いてしまう。
「……大丈夫です」
そう言った私に、リオン様はほんの少しだけ黙って――けれど、静かに尋ねてきた。
「……もしかして、エリアス大公のこと?」
胸が、ぎゅっと音を立てて締めつけられた気がした。
「……違うんです……!」
その瞬間、涙が込み上げてきた。
「もう、何とも思ってないんです。本当に、何も。でも……知ってしまったら、胸が、ざわついて……」
声が震える。
何かが壊れたように、言葉が次々と溢れていく。
「リオン様に申し訳なくて……私、嫌な女だって、思われそうで……!」
そのときだった。
リオン様が、黙って私を抱きしめてくれた。
あたたかくて、優しくて、包み込まれるようなその腕に、私は抗えなかった。
「……嫌なんかじゃないよ」
「当然だと思う。……だって、君は――一度、彼を“愛した”んだから」
その声に、息が詰まる。
「でもね、レティシア」
「君は、僕のこともちゃんと愛してくれてる。……それで、十分だよ」
彼の指が、そっと涙を拭った。
「いや、もう……十分すぎるほど幸せだよ。僕は」
その言葉に、涙が止まらなくなった。
好きな人にこんなふうに言ってもらえるなんて。
こんなにも、愛してもらえるなんて。
それだけで、私は――
「……リオン様」
震える声で、名前を呼んだ。
彼は微笑んで、私の額にそっと口づける。
「……僕のことも、時々泣かせてよ? ずるいから」
その冗談に、小さく笑って、また涙がこぼれた。
――そうだ。
私は、今の幸せをちゃんと選んでいる。
ちゃんと、大切にしている。
だから、心のどこかでざわめいたとしても。
それはきっと、過去をちゃんと生きた証なんだ。
「リオン様、大好きです」
「うん、知ってるよ」
心がふわっと温かくなった。
もう、迷わない。
胸に残ったざわめきは、そっと手のひらに包まれて――静かに、溶けていく。
――幸せを祈っていたはずなのに、少しだけ揺れてしまった心。
でもその隣に、あなたがいてくれたから。
私はまた、前を向いて、歩いていける。
この番外編で察しているかもしれませんが、今後エリアスがメインキャラクターでのスピンオフを完全新作として、構想を練っております。
主人公は別の人物になりますが、世界観は同じです。
またお会いできたら、嬉しいです!




